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外伝4_ユウシャ・レコレクション_A



 剣を振ることが好きだった。

 何故とか、何がとか、そんな細かいことを考えたことはない。好きだから練習する時間が自然と長くなって、出来ることが増えて、また楽しみが広がって。
 騎士学校に通う生徒のほとんどは低学年の頃から剣技を習うが、自身のロフトバードに出会ってからは鳥乗りに熱中してしまう場合が大半だ。自分もその例に漏れず一時期は鳥乗りにばかり熱中していたが、それと同じくらいに剣技の練習に励んでいた記憶がある。

 それだけでいいと思っていた。
 けれど、それだけじゃいけなかったらしい。

「──リンクは、将来騎士になるの?」
「え」

 自身の驚き顔が蒼色の湖面に映り込み、リンクはしばらく目をしばたたかせた。
 スカイロフト、騎士学校の教室。その自席でぼうっとしていたリンクを覗き込んだのは、蒼色の瞳の持ち主──ゼルダだった。

「しょ、将来?」
「うん。将来」
「何で、急に?」
「だって、今日は卒業した後の進路についての授業があるじゃない? そういえばリンクとそんなお話、したことなかったなって思って」
「進路、授業……」

 耳になじみのない単語を繰り返し、ようやく合点がいく。
 ゼルダに言われるまで忘れていたが、今日は進路指導の授業がある。数ヶ月後に上級生の卒業式を控えた時期だからなのか、毎年該当の学年がこの授業を受けるのが通例だとか。
 と、彼女の質問の意図が腑に落ちたリンクに、ゼルダは訝しげな表情を見せる。

「もしかしてリンク、今日の授業のこと忘れてたでしょう?」
「……正直言うと、忘れてた」
「もう! せっかくいろんな人のお話が聞ける機会なのに」

 頬を膨らませるゼルダが言う通り、たしかに今日の授業では、騎士学校の卒業生が来校し、それぞれの職業についての話を聞かせてもらえるらしい。
『騎士』の名を冠する学校ではあるが、その進路は騎士団、鳥乗りのプロの他にも商人や学者、教師など、実に多種多様だ。むしろ騎士の道に進む者は年々減少傾向にあるとすら聞いたことがある。

 そういった背景もあり、将来の選択の手助けとするために用意されたのが今日の授業、というわけだ。
 真面目なだけでなく、好奇心旺盛なゼルダはこの日を心待ちにしていたのだろう。

 ──そして、この時ゼルダには言えなかったことが一つ。
 当のリンクは今日の授業のことを忘れていたどころか、将来のことなんて人生で一度も考えたことがなかった。
 卒業まで、あと数年の猶予がある。だから今考える必要なんてないと思っていたというのが本音だった。

 ……とりあえず、今日の授業を聞いてから考えればいいだろう。
 リンクの心持ちは、スカイロフトの昼下がりのようにのんびりとしたものだった。


 * * *


 そうは思ったものの、リンクの気持ちが向いた話は二つのみだった。

 一つ目はスカイロフト騎士団の話。講義の担当は剣道場の主でもある騎士長イグルスだった。
 スカイロフトの騎士団は騎士団長と複数人の騎士長、その下に配属される部隊長と衛兵という組織構成で成り立つ。イグルスの階級はそのうちの騎士長にあたる。
 主な仕事は島の警備、魔物の討伐、騎士学校の生徒への剣技の指導など。その歴史はスカイロフトの創造神である女神が存在していた時代から受け継がれているそうだが、平和な島ゆえに規模は縮小しつつある、とのこと。
 イグルスの話からは後継者がいないという切実な悩みがひしひしと伝わってきた。

 そして二つ目に興味を持ったのは、教師の話だった。話を受け持ったのはリンクたちを指導している当人、ホーネルだ。
 生徒が普段見ている教師としての姿の他、騎士学校は研究機関としての側面もあるため、授業外では空の探索なども行っているという。
 無論、教師としても学科や剣技、鳥乗りなど幅広い知識と技術が求められる。それ故、こちらも騎士団と同じく人手不足は深刻な問題のようだ。

 それらの職業に興味が向いた理由はごく単純。どちらの進路も、卒業後に剣を振れるからだ。
 そこまで考えて、リンクは「はて」と内心で首を傾げる。
 ……果たして、こんな理由で将来を決めてしまっていいのだろうか、と。

 しかしそうは思ったものの、何をどう考えればいいのかわからない。誰かに相談しようにも、何を聞けば良いのかわからない。人生の分岐点とやらがこれなのかもしれないと、妙な納得感さえ湧いてきた。

 そんな詮無い考えを巡らせながら、リンクは教室から寄宿舎への帰路についていた。
 空は昼間のように明るく、心地の良い陽気に包まれている。このまま部屋に戻ってしまうのも勿体無い気がする。
 ルームメイトのセバスンを誘って、モールにでも行こうか──なんて考えていた時だった。

「リンク」
「?」

 背後から呼び止める声に、リンクが足を止めて振り返る。そこにいたのは白い長髪を持つ実技教師、アウールだった。
 アウールは木製の的を小脇に抱え、倉庫の方を顎で指し示しながら「少しいいか?」と前置きして、

「悪いが手伝ってくれないか? 明日の鳥乗りの授業の準備をしたいんだが、手が足りなくてな」
「あ……うん。わかった」

 断る理由は特にない。リンクは素直に頷き、アウールと同じく木製の的を抱えて騎士学校の広場へと向かった。
 アウールとともに他愛もない会話を交わし、複数の的を運ぶために倉庫と広場の道を何往復かする。
 やがて日が傾き、額が少しだけ汗ばんできた頃。リンクはふとアウールに視線を向けた。

「……アウール先生って、いつ騎士学校の先生になろうと思ったんだ?」

 何の文脈もなく投げかけられた疑問。アウールは少しだけ目を見開き、傍らのリンクを見遣る。

「……いきなりどうしたんだ?珍しいことを聞くじゃないか」
「そうかな?」

 そこまで驚かれると思っていなかったけれど、自分でも珍しいと思っていたのだから、やはり他人からもそう見えるのだろう。

「今日、進路指導の授業があってホーネル先生の話を聞いたんだ。それにほら、もう少しで上級生の卒業式だろ? 自分たちはまだ先のことだけど……騎士学校を出た後のこと、考えててさ」

 リンクの返答にアウールは「なるほどな」と呟く。次いで腕を組み、逡巡しながら言葉を継いで、

「リンクは……卒業後も剣技は続けるつもりなんだろう?」
「そうだな。正直、それ以外はあんまり想像がつかない」

 ゼルダにも問われたけれど、自分が剣の道に進もうとしていることは言わずもがなお見通しのようだ。
 アウールは過去の記憶を呼び起こしているのか、瞑目したまま続けて、

「私が教師になろうと思ったのは……ちょうど私が騎士学校を卒業する頃だよ。今の校長が推薦をしてくれたんだ」
「推薦?」
「私が学生だった頃はまだ教師もそう多くはなくて、鳥乗りを教えられる者がほとんどいなかったんだよ。人不足もあって、運よく声をかけてもらったんだ」
「……そうだったのか」

 考えてみれば、アウールやホーネルが卒業したのは騎士学校という機関自体が創立して間もない頃だ。
 故に、教える側の立場としての人材の確保は今よりさらに急務だったのだろう。推薦という制度があったことにも頷けた。
 考えを整理するリンクを見遣り、アウールは小さく口元を緩める。そして、

「……最初は、断ろうと思っていたんだよ」
「え?」

 アウールが付け足した言葉に、リンクの驚きの視線が注がれた。
 それは意外な話だった。生徒の目から見ても、おそらく他人の目から見ても、アウールは人一倍に実直で責任感の強い大人だ。
 騎士学校が人材不足という切実な問題を抱えていた頃ならば、アウールも進んでその推薦を引き受けそうだと思っていたのに。

 それは口にせずとも伝わってしまったらしい。アウールはリンクの疑問符を受け止め、その眼差しを空へと移す。

「私もまだまだ未熟だったからな。ロフトバードは我々にとっての守護鳥とは言っても人間と違う生き物だ。一歩間違えれば、互いに傷つけあってしまうことだってある。……鳥乗りを教えるというのは人と鳥、二つの命を預かることでもあるんだ」

 アウールのその言葉に、リンクは胸を貫かれたような錯覚を抱いた。
 ……考えが甘かった。それは自覚していたようで、理解が出来ていなかった事実だ。
 教師だけが特別なわけではない。騎士でも同じことだ。職務には責任が伴い、武器や命を扱う仕事にはそれ相応の危険がついて回る。それは自分だけでなく、他者も同じことだ。

 続くリンクの「それなら何故、教師になろうと思ったのか」という問いに対し、アウールはその答えは今でも出せていないと苦笑した。
 これだけ判然と自らを理解しているアウールにもたどり着いていない答えがあるということに、リンクは胸中で驚きを覚えた。

「今のお前たちには無限に可能性がある。どんなに優秀な鳥乗りでもこの空の果てを見たことがないのと同じで、誰だって未知の可能性を持っている。可能性とはつまり、希望だ」
「──希望」
「私は……そのことを後輩や生徒たちにも教えたいと思ったのかもしれないな」

 結ばれた言葉に、リンクは空色の視線を虚空に浮かべる。答えは当然、そこにない。あるのは道筋のわからない未来だけだ。

「お前も卒業まで悩んだらいい。時間も選択肢も、まだたくさんあるんだ。焦る必要も自分の中で選択肢を狭める必要も無い。そうして答えを出せたなら……騎士学校の誰もが、お前の背中を押すよ」
「……わかった」

 小さく頷き、再び青空を見上げる。
 青の世界を泳ぐ誰かの守護鳥が、空の彼方へと飛び去っていった。


 * * *


「──今日をもって騎士学校を卒業する諸君。向かう先で剣を手にする者もそうでない者も、その心に曇り無き鋼と折れぬ翼を持ったまま未来へと歩んでいってほしい」

 ぐすりと、誰かが鼻を啜る音が聞こえた。
 騎士学校長、ゲポラの祝辞。その言葉を聞きながら学び舎に思いを馳せた卒業生が、涙を流しているのだろう。
 それほどまでに、騎士学校で過ごした数年間は彼らにとってかけがえのない時間であったのだと思う。

 ──温かな日差しの下、騎士学校の卒業式は執り行われた。
 式典服を纏って胸を張る卒業生の姿を、リンクは同級生と共に見届けた。騎士学校長を父親に持つゼルダから聞いた話によると、今年は特に、騎士の道を進む人が少ないらしい。

 進路指導の授業からは少しだけ日が経っていた。あの後リンクは、騎士や教師という職業について自ら調べていた。
 そこでわかったのが、騎士団に入るにも教師になるにも、剣の段位が必要になるということ。しかもその段位の取得は早めに受けておかなければ、卒業までに間に合わない可能性があるらしい。

 そんな事実を初めて知ったリンクは驚愕し、今さら焦り始めた。
 そして居ても立っても居られず、剣道場の主であるイグルスに頼み込み、朝練を始めたのだった。
 幼馴染曰く寝坊癖がある自分にどこまで続けられるのかそこはかとなく疑問ではあったけれど、意外にも朝に剣を振る感覚は悪いものではなかった。

 しかしその感慨とは裏腹に、ぼんやりとした焦燥が胸の奥でじりじりと燻っていた。
 ──剣を振ることが好きだから、という理由だけで未来を選んでしまっていいのだろうか、と。

 その迷いが姿を現したのは、あの日アウールの話を聞いてからだ。
 将来のことなんて一度も考えたこともなかった自分が、まさかこんなに長い間悩むことになるなんて夢にも思っていなかった。

 情けないことに、その迷いは自分が思っていた以上に表面化する厄介なものだったらしい。
 毎日続けていた早朝の剣技の練習では不注意により怪我をしかけてしまい、イグルスに心配されてしまった。

 自分でも笑ってしまうほど、焦りが裏目に出ている。いっそのこと悩みごと笑い飛ばせてしまえば良かったのに、こぼれるのは嘆息ばかりだ。

 そんな悩ましい日々を過ごしていた、ある日のことだった。

「ねぇリンク。今夜一緒に……肝試しに行かない?」
「……へ?」

 ──幼馴染から唐突に、斜め上の提案をされたのは。


 *


「何で、おめぇが、いんだよ、ああッ!!?」
「バド声大きい、衛兵に見つかる。なんとなく流れ的に予想出来てたでしょ。リンク君が来るって」

 むしむしと纏わりつくような暑さを孕んだ夜。ゼルダに聞いた待ち合わせ場所にいたのは顔を赤くして怒り狂うバドと、それを冷静に諭すリシャナの二人だった。
 ゼルダの話によると、もともとこの肝試しはバドとリシャナが計画していたものらしく、そこにゼルダも加えてもらったそうだ。
 そこまで聞いて、おそらくゼルダが盛大に何かを勘違いし、流れでこの結果になったのだろうとリンクは予想した。

 数分後にはゼルダも合流し、四人でバドが見た魔物とやらを探しに行くこととなった。
 夜のスカイロフトを歩くのはリシャナ以外の三人にとって滅多にない機会だ。
 近年、夜のスカイロフトは魔物の出現が増えつつあり、見回りのバイトをする上級生以外の生徒は基本的に外出を認められていない。
 だから本来なら無断で外に出ることは非常に危険な行為なのだが、度々夜の脱走をしているリシャナが魔物の生息地を避けて案内をしてくれたため、予想に反して平和な時間が流れていった。

 そうして四人で歩きながら何気ない雑談をしていた時、ふとゼルダがリシャナの方に向き直って、

「ねぇ、リシャナってアウール先生といつもどんなお話するの?」
「え。……せんせいと?」

 ゼルダの唐突な質問に、リシャナが眉を上げた。
 アウールはリシャナの後見人という立場だ。スカイロフトにおいてその立場がどういう意味を持っているのかはあまり詳しく知らないけれど、彼の教師以外の姿を知るのは兄弟であるホーネルと被後見人であるリシャナだけだろう。

「ずりぃよな、先生が後見人だったらテストの答えも教えてもらえんだろ? どーせ」
「せんせいがそれくらい甘かったらわたしも良かったんだけどねぇ」

 唸りながら考え込むリシャナに、バドが後頭部で手を組んで水を差す。
 苦々しく笑い、リシャナは顔を顰めながら続けた。

「……たぶんだけど、学校にいる時よりも厳しいと思う」
「そうなのか? 意外だな。滅多に怒らない印象しかなかったよ」
「うん、リンク君の言う通り怒りはしない、かな。……脱走がバレた時以外」
「それは、そうだろうな……」

 その姿はなんとなくイメージが出来る。普段怒らない分、もしもの時はある程度の問題児も委縮してしまうほどの迫力がありそうだ。そしてそれでもめげずに脱走を続けるリシャナに苦笑がこぼれた。

「今はさすがにそうでもないけど、後見人なりたての頃は過保護ってくらい厳しかったよ。寄宿舎の門限破ったら怒られるし、剣技の授業でちょっと危ないことしたら怒られるし、服の裾捲っても怒られるし」
「おめぇ、昔っからそんなことしてたのかよ鳥ナシ……」
「……あと、行っちゃいけないとこもいくつかあった」
「行っちゃいけない……? それって、魔物がいる場所のことかしら?」
「うん、それもだけど。……主に、ロフトバードがよく集まる場所」

 その言葉に、リシャナ以外の三人が言葉を失った。リシャナはその空気に少しだけ面食らいながらも、落ち着きを保った声で続ける。

「わたしも後々気づいたんだよね。ロフトバードに狙われないよう、せんせいがわたしを遠ざけてくれてたんだって」
「きっと、門限のことも剣技のことも、リシャナが心配だったからよね。……やっぱり、アウール先生ってすごく優しい先生だと思うわ。わたし」

 ゼルダの意見にリンクもまた頷く。バドは何か考えを巡らせているかのように難しい顔をしていた。
 それにしても、アウールの話を聞くたび彼が近いようで、遠い存在なのだと痛感してしまう。アウールとは一回り年齢が違う。それを加味しても自分が同じような大人になれるのか、途方もない道のりのように思えてしまう。

 と、リンクが再び思考の迷路に閉じ込められかけた時、前を歩くリシャナが足を止めた。

「……あ、ほら、リンク君、ゼルダちゃん。あの高台から街見下ろした景色、わたしのオススメ」
「わあ、本当!? リンク、見に行きましょう!」
「え、おいゼルダ、転ぶなよ……!?」

 リシャナが指差したのは、スカイロフトで唯一流れる滝の滝面を囲う湖岸だった。
 リシャナに言われるまま傾斜がかった地面を駆けるゼルダの背を、リンクは慌てて追いかける。
 その傍らに追いついた時、ゼルダは蒼色の目を一杯に押し開いて、

「わあ……」

 眼下に広がる世界に、感嘆がこぼれ落ちる。そこにあったのは、生まれて初めて見る故郷の夜の姿だった。
 まず目に入るのは薄闇の先に佇む女神像。慈愛に満ちた眼差しが見下ろす先にあるのは、静寂に包まれた夜の家々だ。明かりが灯る家も、夜闇に紛れる家も、離れていながら温かな熱を感じる。
 湖のほとりに浮かんでいるのはソラホタルだろうか。淡い光の道筋を描き宙を漂う姿は息を呑むほどに神秘的だ。

 傍らのゼルダも、リンクと同じように夜の世界に見入っていたのだろう。
 彼女は瞳の中の光景を焼き付けるかのように見つめた後、小さく吐息して振り返った。

「……ねぇ、リンク」
「ん?」
「気分転換、出来た?」

 ゼルダの眼差しにリンクは空色の目を見開いた。
 四人で話していた時も、頭のどこか片隅に居座っていた迷い。周りに悟られてしまわないよううまく隠せていたと思っていたのに。
 リンクが「気づいていたのか」と問うと、ゼルダは「幼馴染だもの」と柔らかく微笑みを返した。

「何か、悩んでるの?」
「……そういうわけじゃないんだ。ただ、この間の卒業式から、ずっと考えてることがあってさ」
「考えてること?」
「……卒業した、後のこと」

 ゼルダはその悩みまでも見当をつけていたのだろう。驚く様子はなく、小首を傾げる。

「……前に言ってたわね。騎士になるか、先生になるか悩んでるって」
「ああ、アウール先生にも相談したんだ。先生は焦らず考えたらいいって言ってくれたよ。……でもさっきのリシャナの話を聞いて、やっぱり先生ってすごいんだなって思った」
「うん、そうね」
「卒業した後も剣技を続けたいからってぼんやりした気持ちで騎士か教師を考えていたからさ。本当にそれでいいのかって、少しわからなくなったんだ」

 そこまで口にして、初めて誰かに対して言葉として伝えた迷いの姿に、気恥ずかしくなった。
 真面目な顔をして聞いてくれる視線から逃げるように俯き、リンクは空色の目線だけをゼルダに注ぐ。

「……ゼルダは、騎士学校を卒業したら、どうするの?」
「わたし?」

 それはしばらく前にリンクに向けられた問いと同じ。今度はゼルダが蒼色の目を瞬かせる番だった。

「うん。ゼルダのことだから、考えてないことはないんだろ?」
「ん……そうね、ちょっとだけね」
「……聞いていい?」
「……いいわよ。特別」

 ゼルダは再びスカイロフトの街並みを見遣る。
 蒼色の中に夜を彩る灯火が宿り、ゼルダはそれを大切に仕舞い込むように瞼を下ろす。

「わたしは。──わたしは、いろんな世界を見てみたいの」
「いろんな世界……?」
「ええそうよ、いろんな世界。スカイロフトでも、空でも……行ったことのない場所でも。まだ知らない世界を、この目でたくさん見てみたいの」

 ゼルダの透き通った眼差しがスカイロフトを一望する。
 彼女の好奇心と探究心の強さは昔から知っていた。幼い頃は一緒に島中を探検し、彼女の父親に怒られたことだってある。
 ゼルダがその性格ゆえの夢を抱いていたのは、正直意外だった。

「今日の夜のスカイロフトだってそう。いつも見ているはずの景色なのに、こんなにも違った世界が待っていた。空に比べてとっても小さな島の中でも、わたしの知らない景色がまだまだあるの。それってすごく、素敵なことでしょう?」
「……そう、だな」
「……それと、もう一つ」

 そこで区切り、ゼルダの視線が遠くで何かを話し合っているリシャナとバドの方へと注がれる。
 ゼルダが時折見せる、温かな慈愛に満ちた表情。本人には言っていないけれど、その表情はスカイロフトの守護神である女神にとてもよく似ていて、

「ずっと……ずっとみんなと、こうして一緒に笑っていたい。わたしたちが騎士学校を卒業して、大人になって、それぞれが全然違った道に進んだとしても。大好きな人たちに、ずっと笑っててほしいの」

 それは夢であり、祈りだった。自分以上に他人を愛し、自分以上に他人を想う彼女だからこその願い。それは高尚であり、安堵感を覚えるものだった。
 その蒼色の瞳で見える世界がいつまでも幸せで、平穏なものであることを願わずにはいられない。

「だからね、リンク。……リンクが悩んでいるなら、わたしも力になりたい。一緒に悩みたいの」
「ゼルダ……」
「もちろん、わたしだけじゃない。リシャナも、意地っ張りだけどバドも助けてくれると思うわ。きっと……ううん、絶対に」

 お礼を言うリンクに、温かな微笑みが返される。そうして先ほどよりも美しく見えるスカイロフトの夜景へと、二人で視線を戻した。


 その時だった。

「──うぉいリンク!! いつまで調子乗ってゼルダの隣いやがるッ!! とっとと追いかけんぞ!!」

 忘れかけていた本来の目的──魔物を見つけたバドの大声が、夜闇に響き渡った。


 *


「んじゃ、魔物の姿見たらビビッて逃げんじゃねぇぞ! 出来るだけ大きく悲鳴上げて、オレ様が合流するまで震えて待ってろ!」

 こっちが先に魔物を見つける前提なんだな……。
 片手を振って大股で立ち去るバドの背を見ながら、リンクは無言の呟きを胸中で落とした。
 天を仰ぐと、そこに建つのは巨大な石像。昼間と違い、夜の女神像は生気を感じてしまうほどに迫力のある佇まいをしていた。

 バドが見つけた魔物を追いかけ、四人は女神像の島へと赴いていた。
 いきなり全力で走り出したからか、リシャナは女神像の島へ到着するや否や顔を土色にして立てなくなってしまった。それを看病するゼルダと別れたリンク・バドが魔物を探して女神像の周辺を探索しにきたという流れだ。

 バドと別れたのは女神像の真正面。そこからバドは左回りに、リンクは右回りに一周をし、この辺りに逃げ込んだ魔物を挟み撃ちにする作戦だ。
 正直、先頭をいくバドの背をひたすらに追いかけてきたため、リンクは魔物の姿を見ていない。それでもバドから受け取った木刀を無意識にも強く握りしめてしまう。
 さらに夜の暗さのせいか、それとも蒸し暑い気温のせいか、足を進めるたびにじっとりと嫌な汗をかいてしまう。

 やがて女神像の背に回るまであと数歩に迫った──瞬間。

「ッな……うわ!!?」

 リンクの右足首に何かが巻きつき、不自然な体勢のまま体をひっくり返された。
 唐突な出来事に混乱している間にも、何かは右足首を引きずり、リンクの体を島の下層へ続く獣道へと導く。

「ッ……離せ!!」

 暗闇に目を凝らしながらもう片方の足で蹴り付け、やっとの思いで拘束から逃れる。
 身を転がし、土まみれになりながらも立ち上がって、リンクはその正体を目の当たりにする。それは──、

「なんだ、これ……!?」

 真っ黒なモヤのような姿をした、“何か”だった。


「黒い、煙? いや、霧……?」

 それは黒く、暗く、影のようにつかみどころのない姿をしていた。肉体も、生き物らしい器官も持たない、モヤと形容する他ない細かな粒子の集合体。
 ただそこに浮遊するだけなら意志なんて感じないはずなのに、それはたった今リンクの足に絡みつき、この場所まで連れ込んだ。

 数秒、両者とも動きを見せずひたすらに対峙する時間が流れる。木刀を持つ手が汗ばみ、剣先が細かく震えている。
 牙があるわけではない。武器を持っているわけでもない。それでも目先の得体の知れない存在に、底知れない恐怖がリンクを襲う。

 相手が動かないのならこのまま逃げるべきか──。
 冷や汗を垂らし、ざり、と地面を踏み締めた、瞬間だった。

「──!」

 モヤが一度波打ち、リンクから興味を失ったようにどこかに向かって動き出したのだ。
 じりじりと空気を蝕むように動くモヤ。動きはとても遅く、それが余計に気味の悪さを引き立たせる。

 さらに、気づいてしまう。

「上に、向かおうとしてる……!?」

 モヤはゆっくりと、しかし確実に。島の上層部に向かって動き始めている。
 何故か、と考えた時それは自分が上層部に残してきたものに繋がった。

 ──このモヤは、もしかしたら上にいるみんなのもとへ向かおうとしてるんじゃないだろうか。
 それどころか、この島を出て街の方へ向かおうとしてるんじゃないか、と。

 それは根拠のない勘であり、思いつきだった。それでも自分の本能がけたたましく警鐘を鳴らし、今すぐにでも追えと命令を下している。
 ……あれは、みんなのもとに近づけちゃいけない存在だ。
 
 足が竦む。走ろうにも、足が絡んで転んでしまいそうだ。正直、手にした木刀があのモヤに通用する気はしなかった。

 それでも、

『──大好きな人たちに、ずっと笑っててほしいの』

 鈴の声音が、たしかに背中を押して。

「仲間に手を出したら、許さないッ!!」


 リンクが我に返った時、あのモヤは消えていた。
 逃したわけではない。たしかにあれを二つに両断した記憶が残っている。

 リンクは瞼を下ろす。
 たった今、自分の中に芽生えた自覚。それを静かに読み取る。

 もし、この空にあんな脅威が潜んでいるのなら。
 自分は、スカイロフトを守りたい。スカイロフトの仲間を守りたい。
 まだ、どんな将来を目指すのか決めてはいないけれど、どんな未来であってもこの気持ちは曲げたくない。
 この時初めて、リンクは未来の自分の在り方について、確かな“希望”を持ったのだった。

 こうしてバドやゼルダ、リシャナと合流し、肝試しの夜は幕を閉じた。
 残ったのは楽しかった時間の余熱と、未知の存在に対する恐怖。

 そして、

『リンク』

『いつかの目覚めを、お待ちしています』

 耳に宿る、透明な声音だった。


 * * *


 やがて暑い日々が終わりを迎え、スカイロフトを彩る木々が赤く色づいてきた頃。

「おめでとう、リンク!」

 まるで自分のことのように華やぐ笑顔を見せるゼルダ。その傍らには誇らしげに微笑むイグルスもいて、リンクは恥ずかしさに頭を掻きながら二人にお礼を言った。
 ──リンクにとって、これが初めての剣技の段位認定だった。

 リンクが取った段位は剣の道を志すものにとっては最初の壁となる位のものだった。これを持っていれば、騎士学校の教師になることが出来る。騎士団に入るにはもう少し高い段位が必要のため、さらに研鑽を積む必要はあるが。
 まだ、将来の進路を決めたわけではないけれど、こうして段位をとれたからか、以前ほど焦りは感じなくなっていた。

 そしてここまで来られたのは剣技の練習に付き合ってくれたイグルスをはじめ、相談にのってくれたゼルダやホーネル、アウールのおかげと言っても過言ではなかった。

 だからこの吉報を少しでも早く先生たちに知らせたい。リンクはその旨をゼルダとイグルスに伝え、彼らの笑顔に見送られながら騎士学校へと向かった。

 教員室にいたのはホーネルのみだった。段位取得の報告をすると、彼も自分のことのように喜んでくれた。

 放課後に訪れたはずだが、ホーネルと話し終えた頃にはすっかり夜になっていた。
 ホーネルはアウールの行先は知らないとのこと。が、おそらくこの時間なら騎士学校のどこかにいるはずだと付け加えてくれた。

 急いでいるわけではない。しかしホーネルから伝わる前に、自分で直接報告をしたい。
 そんな気持ちが後押しして、リンクは騎士学校の廊下をひた歩いていた。

 廊下の窓から見える景色は黒色のみ。騎士学校は市街地から離れているため、周囲の明かりは実に乏しい。

「────」

 夜の闇を見ていると、どうしてもあのモヤの存在を思い出してしまう。
 肝試しの後、リンクは夢の中であのモヤを何度か見ていた。あの夜、木刀でモヤを切り裂き、その場から完全に気配が消えたことは感じ取っていた。

 だがあのモヤは取り憑いたかのように、リンクの夢の中に繰り返し現れた。
 それだけならまだマシだったのかもしれない。自分が思っている以上にあのモヤのことを恐れているだけで、時が経てば忘れるはずだと思えたから。

 気がかりなのは──夢に起きている“変化”だ。

 あの夢を見るたび、モヤがだんだん生き物のように“成長”を見せ始めているのだ。
 掴みどころのない霧状の粒子が、徐々に何かの形を成して。鱗を纏って、大きな口を開けて、牙が生えて。
 その成長はまるで何かの前兆のようで、純粋な恐怖を抱いてしまう。心の奥底から、怖いと思ってしまう。──あれが成長し切った時、一体“何”になってしまうのだろう、と。

「……っ、」

 嫌な予感を振り払うように、リンクは頭をぶんぶんと横に振る。せっかく段位を取ることが出来たんだ。奇妙な夢のことなんて、一秒でも早く忘れるべきだ。

 気を取り直して騎士学校の思い当たる場所を巡ったけれど、アウールはどこにもいなかった。
 よく考えれば夜に先生たちがどこにいるのかあまり知らない。だから既に回った場所以外、心当たりが全くない。
 どうしたものかと困り果てて、当てもなく騎士学校を歩き回っていた、その時。

「あ」

 先生の行方を知っていそうな人物を見つけて口を開いた。
 その人は会議室の扉の前に立ち尽くしている。中に入ろうとしているのか、中の様子を伺っているのか、傍から見るだけではわからない。
 最初から彼女に聞けばよかったと歯噛みしながらリンクはその背に近寄って、

「リシャナ?」
「!!」

 できるだけ驚かさないようにしたつもりだったが、リシャナは大きく肩を振るわせ弾かれたように背後へと振り返った。その勢いに、危うく声を上げそうになったが辛うじてそれを抑え、リンクはリシャナと視線を交える。

「り、リンク君? ど……どうしたの?」
「アウール先生に用事があって探してたんだけど……」
「あ、ああ、せんせいに……」

 どうやら、アウールはこの扉の向こうで会議中らしい。それもリシャナの話から察するに、なかなか雲行きの怪しい話し合いのようだ。
 そんな状況であるなら仕方がない。リンクはアウールに会うことを早々に諦め、そのままリシャナとの雑談に興じていた。

「そういえばリンク君、段位とったんだよね? おめでとう」
「あ、うん、ありがとう。……耳が早いな」
「ゼルダちゃんから聞いたの。すごいね、わたしたちの学年で取ってるの、リンク君だけじゃない?」
「たまたまだよ。リシャナも、受けたら取れると思う」
「わたしは基礎がなってないから難しいかなー……。それ以前に、騎士にも先生にもなるつもりはないから、試験も受けないと思うし」

 リシャナの様子を見るに、謙遜ではなく本心からそう思っているらしい。
 彼女はそう言うけれど、リンクの目で見てリシャナの剣技は他者から一線を画していた。確かに本人の言う通り、彼女と打ち合いをした時は授業で習っていない奇抜な動きに翻弄されてしまった。だがそれを実力不足と言うのは少し違う気がする。
 ……純粋に、彼女との打ち合いはリンクにとって時間を忘れるほどに楽しく、熱くなれるものだったのだから。

 そこまで考え、リンクは何気なく気になった疑問をリシャナにぶつけた。

「リシャナは、将来の夢ってあるのか?」
「────」

 数瞬。リシャナの目に戸惑いが走ったのをリンクは見逃さなかった。
 聞いてはいけないことを聞いてしまったのかもしれない。……と思ったけれど、リシャナはすぐに表情を崩し、「んー」と喉を鳴らして続ける。

「なんだろ。プロの脱走人とかかな」
「それって職業なのか……?」

 はぐらかされた、とも思ったけれど更なる追及をすることはリンクには出来なかった。
 それ以上その話は続かず、後は再び何でもない世間話をするのみに留まった。
 時計の針が半周した頃に、リシャナが伸びをしながら「さて」と切り出して、

「そろそろわたしはお暇しようかな。……中の会議が終わって大人たちが出てきたらちょっと気まずいし」
「ん、そうだな」

 リシャナはそう言って寄宿舎に続く廊下を歩み始めた。そのままお別れかと思っていた──が、立ち去ろうとしたリシャナが足を止める。
 瞬きをするリンクに彼女は振り返り、小さく喉を震わせて、

「ねえ、リンク君」
「うん?」
「君は──正義って、何だと思う」
「え……?」

 突拍子のない質問に、リンクが目を見張る。
 何故そんなことを聞くのかと問えば、リシャナからは「リンク君ならわかりそう」という返答が返されたけれど、そんなことは考えたこともない。
 が、リシャナの真剣な眼差しにわからないと切り捨ててしまう気にはなれず、リンクは頭を捻り、その答えを絞り出す。

「……守りたい人がいたら守ってあげること、それが正義だと思いたい、かな」

 自分でもその答えが意味するところはわからない。けれどそれ以外の答えも思いつかなかった。

 リシャナは少しだけ目を見開いたが、一拍置いて「そっか」と穏やかな笑みをたたえる。

「リンク君の場合、やっぱりそれはゼルダちゃんになるの?」
「な、なんでそうなる……!?」
「あれ、違うの? そうかと思ってた」

 ゼルダもそうだけれど、他の人だってその対象のつもりだ。……当然、リシャナのことも。
 とは言えず、リンクは自室へ戻るリシャナの背を見送る。するとリシャナは再びくるりと振り返り、驚くリンクの顔を見遣って唇を解いた。

「うまく言えないけど、」
「……?」
「君は、すごい人になりそうな気がする」
「────」

 そんなことはない、と告げる前にリシャナは足早に自室へと戻っていった。
 最後に見た表情はどこか寂しげで、何があったのか聞けばよかったと今さらな後悔が残った。

「……風、強いな」

 ざわざわという風の音が聞こえてくる。よく見れば雨粒がパタパタと窓を叩き始めている。
 天気が崩れ始めているのだろう。きっと、久しぶりの雨になる。

 もしかしたら、明日は嵐になるのかもしれない。
 リンクはそれだけを思い、自室へと戻った。