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長編4-3_追想旅行 起点



「ほ……ほんとに……」

 色とりどりの花々が天をめがけて目一杯に花弁を広げていた。
 空は相変わらずの曇り模様。灰色の雲の壁を越え、陽光は慈愛の一雫のように下界へ降り注ぐ。
 そんな環境でも健気に咲き誇る花の絨毯は、か細い光を一身に受けながら、大地を丸ごと塗り変えていた。

 秘境と言うべきか、絶勝と言うべきか。圧倒させられてばかりの大地の景色の中でも、群を抜く絶景。
 世界にとっての敵である私たちだけれど、今だけはこの大地が味方でいてくれるようで──。

「本当に、でぇとだ……!」
「頭の悪い感想だね」

 こぼれ落ちた感嘆を口にする私に、主人の突っ込みはどこまでも冷ややかだった。
 それでも私の感激の嵐が止むことはない。だって、まさか本当にこんな素敵な道を歩くことが出来るだなんて思ってもみなかったのだから。


 見慣れた森の景色を見送り、私とギラヒム様はフィローネ地方の北西──女神の三大要地から離れた地に横たわる渓谷への道を歩いていた。

 拠点や天望の神殿の周辺で見られる深い森の景色はいつしか終わりを迎え、今では岩肌や密生した植物が目立ち始めている。
 高低差があって、平原のように歩きやすい土地では決してない。けれど森のように背の高い木々が存在していないからか、地面のところどころに花々が咲き誇っている。主人と一緒にこんな景色を見ているという事実は現実味のなさすら感じさせた。

「そういえば私、女神の三大要地以外の場所ってあんまり行ったことがなかった気がします。こんなところがあったなんて……」
「女神の封印がない場所にわざわざ出向く理由がないからね。調査だけなら下位の者どもで充分だ」

 そう言いながらも主人と私がこうして足を運んでいるのは、その渓谷に“でぇと”以外のちゃんとした目的があるからだ。……主人からはまだ教えてもらっていないけれど。

 渓谷はフィローネ地方を北上し、オルディン地方とラネール地方のちょうど境目、小規模な火山が点在する地熱地帯にあるらしい。とは言えオルディン火山からは距離があるため、溶岩が支配する環境を歩く必要はないそう。

 私は主人に置いていかれないよう足を動かしながら、初めてづくしの景色にきょろきょろと視線を巡らせる。

「あ、湖がありますよ。ここからじゃ深さはわからないですけど、浅かったら水浴び出来るかな……」
「深くても出来るだろう? その方が楽しめると思うけれど?」
「突き落とす気満々じゃないですか……」

「マスター、あの水面の植物、何ですか?」
「藻」
「も?」

「葉っぱの色が変わるとこんなに景色が違って見えるんですね……綺麗です」
「……綺麗?」
「あ、えーと……一番綺麗なのはマスターです」
「ッフゥン! 当、然!」

 ──なんて具合に他愛もない会話をしながら、主従は色彩豊かな道を歩く。
 やっていることはいつもと変わらないのに、こんな話をしながら主人の隣を歩けることが楽しくて、愛おしい。

 と、すっかり浮かれてしまった自身に気付き、危ない危ないと自省する。
 遠方まではるばるやって来たのだ。目的を忘れてはいけない。部下モードに頭を切り替え、私は前を行く主人に水を向ける。

「ところで、渓谷に向かう理由はまだ教えてくださらないんですか?」
「……短慮なものだね。待つということを知らないようだ、この犬は」
「ワウ……」

 好奇心旺盛な犬をピシャリと一蹴するご主人様。
 しょぼくれる私を艶のある流し目が捉え、彼は唇を解いた。

「魔物どもの報告にあっただろう。今から向かう土地に、廃墟があったと」
「キースとスタルマスターたちが調べてくれた件でしたっけ? 結局、そこには何もなかったって聞きましたけど……」

 その報告はラネールでの一件が落ち着いた頃、私たちが留守にしていた間の調査結果をまとめたものだった。

 内容自体は特段珍しいものではない。人間が使っていた痕跡の残る廃墟があったという報告はよくある話だ。
 そういう時は大抵、聖域や女神の封印は存在せず、魔族にとっては何の価値もない残骸でしかない。──そう処理されたと思っていたのだけれど。

「昨日、続報があってね。廃墟群を越えた先に不自然な大穴と半壊した遺跡があったそうだ。半壊と言うより……“半分に分かたれた”状態の遺跡がね」
「それって……」

 大地に空く不自然な大穴と、無理やり引き裂かれたかのように半壊した廃墟。それを耳にした私の脳裏に、ある景色が過ぎる。

 螺旋状に抉り取られた大地。その底には古びた石柱が立っている。
 ……かつて主人に聞いたことがある。封印の地は、空に浮かんだ聖地がもともと存在していた場所なのだと。
 ならば──、

「天地分離の際、女神の島と共に空へ浮かんだ地がもともとそこにあった。……そう考えるのが妥当だ」
「なるほど……」
「我々が未だに至れていない手がかりは空に繋がる場所にある。……ならば、このワタシが直接その場所を確かめに行くべきだろう」
「────」

 ギラヒム様はそう言いきり、物思わしげな眼差しを虚空に浮かべる。いつも通り気丈に振る舞っているけれど、どこかで焦りが燻っているのだろう。
 私は唇を結び、何も言わないまま彼の隣に寄り添った。


 *


 半日をかけて歩き続け、道のりは次第に険しくなっていく。自然が作り出した様々な色の地層を横目に、山の間を縫うように伸びた道を抜ける。光の届かない場所のはずなのに、植物は負けじと岩肌を彩っていた。
 曲がりくねった道をしばらく歩けば、壁面に反響した水音が耳に届く。それは荒々しさを増していき、やがて開けた視界には、

「おおぉ……大迫力……」

 地上に降り注ぐ大量の水──巨大な滝が、私たちの目の前に現れた。
 水しぶきの冷たさを感じながら上を見上げれば、滝面ははるか彼方にある。スカイロフトにも滝は存在していたけれど、目の前の景色は比べ物にならないほど壮観だ。

 感動を抑えきれず圧倒されている部下を、主人は容赦なく置き去りにしようとして、慌てて後を追う。
 急勾配の坂を登っては下り、私の足がパンパンになる反面、前を行く主人の脚は今日も今日とて美しい。

「さすがに、息、あがって、きました……」
「軟弱者のお前には過酷だろうね? このあたりの土地は、魔王様が火山を噴火させて出来た時からほとんど変わっていないのだから」
「へぇー、さすが魔王様です……ね……」

 その言葉に私の思考が止まる。ついでに足も止まる。
 最後にギラヒム様も歩みを止めて、振り返った彼の視線が私に刺さり、

「……まおうさま、かざん、ふんか、ですか?」
「そうだとも」

 単語の意味はわかるのに言ってることの意味がわからず、カタコトで聞き直す私。
 誇らしげにフフンと胸を張る主人の姿が少しだけ可愛いと思ったけれど……一方で、さらっとすごいことを聞いてしまった。

「ふ、噴火って、そんなことまで出来るんですか、魔王様って……!」
「当然。我が主に不可能など存在しないのだよ」

 自身の前髪をぴらりと得意げに梳く主人。嘘みたいな話だけれど、魔王様のことで彼が嘘をついたことは一度だってない。
 つまりこれは、事実ということなのだろう。

「自然を支配するなどあの方にとっては造作もないことだ。その上、この地に蔓延っていた武人の一族を圧倒的な力を以て屈服させたのだよ。やはりあの方が大地を統べることは絶対なのだと、その背を目にしたワタシは激情に打ち震えて──、」

 呆気に取られた私を置き去りに、饒舌に魔王様のことを語り続けていたギラヒム様はふと我に返ったように口を止めた。そして部下を睨みつけるようにいじけた視線を送って、

「…………何」
「あ、いや、その、素敵な思い出だなって……」
「…………」
「痛い痛い! 耳引っ張んないで下さい!! 取れちゃう!」
「余計なことを聞く馬鹿犬の耳なんていらないだろう。もげてしまえ」
「そんな無慈悲な!! ……それに、余計なことじゃないですっ!」

 照れ隠しなんて可愛らしい表現では済まない技をかける彼の腕を叩きながら、声をあげる。
 後ろから羽交い絞めにするギラヒム様の顔は見えないけれど、ぴたりと止まった彼に私は続けて、

「もっと聞きたいです。……魔王様のこと」
「…………、」
「ま、マスターがっ、よろしければ、ですけど……!」

 主人にとっての頸木である言葉を聞かされた時のように、彼が魔王様と共にいた頃の話をこんなふうに聞くのは初めてで。だから、もっと聞いてみたいと思った。彼が幸せだった頃の記憶を。

 ギラヒム様は呆気にとられたようにわずかに目を見開いた後、何かを思案するようにじっと私を見つめる。
 一拍間を置き、やれやれと言ったように吐息して、

「ッフン、お前がどうしてもと言うのなら、特・別・に、聞かせてあげても構わないよ?」
「あ、ありがとうございます……!」

 鼻を鳴らして肩を竦める主人にほっと息をつく。
 そうして部下の眼差しを受けながら、ギラヒム様はどこか懐かしげに目を細めて語り始める。

 目的地にたどり着くまでの数日間。私は色褪せぬ彼の記憶を、耳にする。


 ◆◇◆◇◆◇


 ──ワタシがこの地に魔王様と赴いたのは聖戦が始まる以前。まだ魔王軍が確立されておらず、各地の魔物を軍に加えて回っていた頃だった。

 かつてのこの地は今と全く景観が異なっていて、オルディンと同じ火山帯に属する小規模な火山が点在していた。過去には人間が住んでいた時期もあったようだが、聖地を囲う城下町が出来る頃には一人残らずこの地を去っていた。
 残ったのは抜け殻となった廃墟と遺跡。熱が支配するこの地は人間どころか亜人にとっても魔族にとっても到底生きられない場所のはずだった。

 しかし、そんな僻地であったこの地に、ある魔物の一族が棲み着いた。
 種族名はタートナック。……ああ、お前は知らないだろうね。天地分離後、あの一族は魔王軍から離別をしたのだから。

 あれらは武に固執した、愚直な一族だった。他種族との馴れ合いを拒み、己の武を極めるためにあえて過酷な環境に身を置いていた。
 当時のこの地は、女神側にも魔族側にも属していなかったタートナックの一族が隠れ棲まうには都合が良かったのだろうね。

 我々はタートナックの一族を魔王軍に迎え入れるべく、この地に赴いた。
 武なんて曖昧なものに執着した馬鹿な一族だったけれど、あれらの力は充分に有用なものだったからね。

 そしてワタシは──いや、あの方は軍を率いず、一振りの剣だけを携えて訪れた。

 そうだ。あの方は魔物どもを魔王軍に迎え入れる時はいつもその身一つで相手を屈服させていた。
 あの方はワタシという剣のみを使い、己が“力”に選ばれた支配者なのだと、自ら証明をなさっていたのだよ。

 ……うるさいよ。ワタシが魔物どもを加える時にあの方と同じ行動をとっていて何が悪い。
 悪いなんて言っていない……ねぇ? やはりお前のこの口は縫い付けてあげた方が良いようだね?

 ッフン、なら、最初から大人しくしていろ。せっかくこのワタシがあの方との輝かしい日々を聞かせてあげているのだから。

 ……さて、どこまで話したか。ああ、タートナックの一族を支配しにこの地へ訪れたところまでか。

 存分に、聞き惚れるがいいよ。あの方が絶対的な支配者であり、世界を手に入れるべき存在であることを、お前は改めて思い知ることになるのだから──。