長編4-2_彼と、でぇと前夜
「──巫女の行方が断たれた今、我々が次に取るべき策は一つ」
目先に立った、一本の指。美しい肉体を持つ者は、指の一本ですら見る者を釘付けてしまうのだろうかと刹那の感慨に捉われる。
声もなく魅入られる私の目線の先で、形の良い唇が口火を切った。
「魔王様のお姿を完全なものにするための方法を探すことだ」
「完全なもの……」
彼の言葉を繰り返し、私は机上の地図と文献の山へと視線を下ろす。
主従にとっては珍しい、二人膝を突き合わせての話し合い。完全──つまり黒い怪物の姿をした魔王様を、ギラヒム様が知る姿に戻すための作戦会議だ。
「魔王様を完全なお姿にするためには、巫女と同等の力を供えなくてはならない。その場合、何故唐突にあの存在が現れたのかを考える必要がある」
続くギラヒム様の言葉を聞いて、私も当時のことを思い出す。
先日、封印の地に顕現した異形の怪物。それは膨大な魔力を食らう獣のような姿をしていた。
器を持たず、魂だけが生き物の形を成した、欠落した存在。私は魔王様の本来の姿を見たことがないけれど、あれが不完全なものだったとわかる。魔力を与え続けなければ今にも消えてしまいそうな、不安定な存在だったということも。
「これまで封印に異変が見られたのは三度。一度目は巫女が目覚めた直後。二度目は時の扉が開いた瞬間だ」
つまり、オルディンとラネール、それぞれの争いが終結した直後。
どちらも見た目だけでは何もわからない些細な変化だったけれど、何千年の時を超えてようやく訪れた瞬間だった。しかしそれに対して、
「腑に落ちないのは三度目。あの時だけ、封印が緩むに至った決定的な理由が見当たらない。にも関わらず、これまでに比べ異質な変化を見せた」
「……たしかに、そうですね」
唇に指を当ててギラヒム様は考察をする。彼の話によると、私たちがラネールから帰還し、魔王様が現れるまでの数日間、封印には全くと言っていいほど変化が見られなかったそうだ。
彼の言う通り、あの怪物の出現が自然発生的に訪れた変化と言うにはあまりにも異質すぎる。
「ゼル……巫女がこの時代にいなくなったから、封印が緩んだとか」
「その理屈で言うなら、巫女が時の扉を使って逃げる必要性がなくなるだろう。そのような馬鹿な思考を働かせる連中だったなら苦労はしていないとも」
「むー……遠回しに私も馬鹿にされた……」
唇を尖らせる部下を当然のように無視し、ギラヒム様は自身の前髪を弄りながら思考に耽る。
相変わらず扱いがぞんざいだけれど、彼の意見に反論はない。巫女の目的が何であるにせよ、あれだけ危険な目に遭いながらも時の扉に逃げ込んだのだ。この時代から巫女の存在が失われることで及ぶ影響を考慮していなかったとは考えづらい。
数秒唸りながら考えを巡らせ、私は再び口を開く。
「そういえばあの時って、マスターが封印の地に到着する前にリンク君と魔王様が戦ってたんですよね?」
「ああ、そうだよ。……どうせ、彼は魔王様が封印から放たれた理由が何なのか知っているのだろうね。あるいは、彼自身がそのきっかけを生み出したのか」
リンク君の足取りは現状不明だ。フィローネ、オルディン、ラネール。各地に配置された魔物たちから姿を見かけたという報告は一切上がっていない。
おそらく魔物たちが立ち入ることのできない場所──空の世界に帰っているのだろう。
ラネールで負っていた深い傷がどこまで治っているのかわからないけれど、彼も魔王様消滅のために何かしらの行動を起こしているはずだ。
憎々しげに目を細める主人の横顔を見遣り、旧友の姿を思い浮かべていると、ふとある言葉が私の脳裏に過ぎった。
「……必ず、きっとまた逢える」
浮かんだ言葉をそのまま口にすると、ギラヒム様が視線で問いかけてきて、私はそれに応えるように顎を引く。
「ゼルダちゃんが言ってたんです。時の扉をくぐる時、リンク君……に向けて」
不自然な間へ、彼からの指摘はない。沈黙を促しと捉え、私は言葉を続ける。
「その言葉がゼルダちゃん自身のものなのか、女神のものなのかはわからないですけど……、それを聞いたリンク君なら、ゼルダちゃんにもう一度逢うための方法を探す気がするんです」
「ふむ」
ギラヒム様は鼻を鳴らし、片目を瞑ったままもう片方の黒目で部下をじっと見つめる。
色香漂う眼差しに射竦められて続く言葉を見失った私に、主人は「フ、」と吐息して、
「希望的推測にすぎないけれど。馬鹿部下にしては珍しくこのワタシと同じ結論にたどり着いたようだね」
「……光栄でーす」
その考えには彼も行き着いていたらしい。少しだけ馬鹿にするように肩を竦めると、ギラヒム様はその眼差しに険しさを滲ませた。
「『勇者』を追えば、我々が求める魔王様御復活の手がかり──あるいは、答えそのものにたどり着けるかもしれない。現状、『勇者』の足取りは不明だ。だが彼は必ず魔族の前に現れる。……それまでの間、お前はワタシと共に手がかりが残る場所に向かう」
「手がかりが残る場所……って、どこですか?」
そう問いかける私にギラヒム様の視線が再び注がれる。束の間の逡巡の気配を漂わせ、彼は薄い唇の端を持ち上げて、
「後々のお楽しみだよ。せっかくの“でぇと”なのだから、ねぇ?」
「あう……」
……やっぱり、そこは当初の予定と変わらないらしい。
どこまで本気なのかわからないけれど、整った微笑をたたえる主人に安心したような、恥ずかしいような何とも言えない心地になり、私は最後まで顔を上げることが出来なかった。
* * *
「──そんなわけで。明日から少しの間、私とマスターはお留守になっちゃうから、魔物の子たちのお世話と見張り番お願いします。リザル先輩」
「そりゃあいーケドよォ」
ぴしっと敬礼をしてみせた私に、爬虫類特有の大きな目が向けられる。リザルは手入れを終えた片手剣を武器庫に放り、長い爪で頬を掻いた。
「逆に二人でいーのかよ。途中で勇者と出会す可能性もあンだろ?」
「調査って言っても心当たりのあるところの様子を見に行くだけらしいし。……あと、この間の傷が癒えてない子もまだ多いからね」
「……まァな」
付け加えた私に、リザルが声色を曇らせる。
ラネール砂漠での一件から数週間が経つけれど、未だに魔物たちの状況は万全ではない。
予想を超える『勇者』の成長。雷龍の奇襲。命を食う黒い怪物の存在。それらは主従のみならず魔族全体に大きな打撃を与えた。
それもあって今回は軍を率いることはせず、主従二人きりで調査に出ることに決めたのだった。
懸念を抱いていたリザルもその意志は汲んでくれたようで、短く吐息し隻腕を振った。
「お嬢たちがいーなら俺ァ何も言わねェよ。せいぜい楽しンでデートして来いや」
「…………でぇと」
「ンだよ。そーゆーことだろ?」
「そ、そそそう、でゃけ、ど」
盛大に言葉を噛んで動揺する私に不審者を見る視線が注がれる。
デート。主人にそう言われたことなんてリザルは知らないはずなのに。やはりこれは、傍から見てもそういうことなのだろうか。
「……でぇとなら、やっぱりちょっとくらい可愛くしてくべき?」
「まずはその挙動不審な動きをやめるとこからダナ」
苦悶の表情で顔を上げる私に適切な突っ込みをしてくれるリザル。彼は嘆息を一つ落とし、顎をしゃくって武器庫の外を示す。
「おら、明日からイチャつく分、今日はキリキリ働けや。次は獣連中の餌やりだかンな」
「はーい……」
争いの前日だろうとでぇとの前日だろうと、魔族長の部下の一日は早い。
部下としてのお仕事に追われ、武器のお手入れをして、魔族長様のお世話をして、彼の腕の中で泥のように眠る。
そうして待ちかねる暇もなかったでぇとの朝は訪れて──。
*
いつもと変わらぬ果てしない曇り空。待ち合わせ場所は森へと続く道の始まり。
身支度を整え、主人に先んじてたどり着いた私は一人そわそわしながら彼の到着を待って──、
「………………帰りたい」
……いるわけではなかった。
内臓をぢくぢくと痛める緊張。体の強張り。今の自分の姿を自覚すればするほどこの場から逃げ出したい衝動に駆られる。
主人と会うことが嫌な訳では当然ない。そう、これは“でぇと”という言葉の響きに捉われ、身の丈に合わないことをしてしまった私のせいだ。
──普段の戦闘装束を着ずに、空で買ったとっておきの一着を着てしまった私のせいなのだ。
結局、私はギラヒム様から誘われた“でぇと”に相当浮かれていたのだろう。昨晩は全力でお仕事を終えた後に内緒で手に入れていた服を引っ張り出して、今朝はいつも以上に早起きをした後に鏡の前で衣装合わせをして、あろうことかいつもと違う髪型に挑戦までしてしまったのだから。
とは言え、敵と出くわす可能性はゼロではないため二本の魔剣と魔銃は腰に装備してあるし、戦いやすいよう履いているのはハーフパンツだ。これが魔族長の部下が出来る最大限の“可愛い格好”だった。
「マスター、まだかな」
今の自分の格好に後悔があるわけではない。けれどいざ一番見て欲しい人を待つとなると、途端に逃げ出したくなってしまう。自分のハートがこんなに脆弱だなんて思わなかった。
「…………やっぱり、むり」
引き返すなら今かもしれない。この姿のお披露目は次の機会にしよう。
一人訳のわからない葛藤の果て、心が折れた私はスッとその場で立ち上がる。主人が来ないうちに早いところ自室へ着替えに戻って、
「あれだけ不満げな顔をしておいて、遊ぶつもりでしかないようだね」
「!!?」
──と、情けない決意を固めた私の背に、大きな手が回された。
完全に固まった私の体はその手に引き寄せられ、温かい場所に収まると同時に艶やかな目線が真上から注がれる。そして、
「……勝手にこんな姿になってしまって。お前は毛先までワタシに支配される運命にあると言ったのにね?」
「ま、マスター……!」
「まあいい。……不器用なりの努力は褒めてあげようか」
体を抱えられたまま、後頭部に落ちてきた唇の感触に私の頭は真っ白になる。
音もなく現れた主人──ギラヒム様は意味深に目を細め、私の髪の一房を長い指で弄っていた。
「う、あ、え……」
「風情も何もないのは、せっかくの格好に見合わない反応をするお前のせいでもあると思うけれど?」
「こ……心の準備が、出来てなかったんです……いきなりすぎて……」
呆れ混じりに鼻を鳴らして私の体を手放すギラヒム様。解放されても主従の距離は近いままだ。
彼は私に背を向けながら、艶然とした流し目で微笑を浮かべて、
「ほら……いつまでも呆けているなら、置いていくよ」
「……!」
差し出された手に、私の両目が一杯に見開かれる。
心のどこかで期待していた言葉を与えられた訳ではないのに、まだまだ心臓は早鐘を打っているのに。
こうして彼の背を追って、同じ道を歩けることが何よりの幸せで。
「行こうか。リシャナ」
「……はい、マスター」
ほんのひと時の“でぇと”の始まりを噛み締めながら、私は大好きな人の背を追いかけた。