series


長編4-4_追想旅行 一つ目の夜



「マスター、すごい見晴らしですよ!」

 興奮を抑えきれずに駆け出して、視界一杯に広がる雄大な大地を見渡す。
 日没が近づき空を染めつつある赤色は、渓谷に鮮やかな色彩をもたらしていた。

 まだまだ目的地は遠い。けれど歩いてきた道のりを一望出来る絶景は、小さな存在である私を圧倒する。
 高いところに立つと無性にわくわくしてしまうのは、私が空の世界の出身だからなのか。

「わぁ、フィローネの森が見えますよ。こうして見ると本当におっきな森なんですね」
「大地に浅はかな人間どもがいない限り、あの森は広がり続けるのだろうね。実際、天地分離の時から広さは倍ほどになっている」
「そう考えると、植物って怖いですね……」

 森の緑は地平線を越え、どこまでも続いているように見える。日の当たらない世界でもあんなふうに一つの王国を築いているのだから、感動を超えて畏怖の念すら抱いてしまう。
 そして隣に立つギラヒム様はと言うと、今日は心なしか機嫌がよく、呆れ顔をしながらもはしゃぐ私に付き合ってくれていた。

「今日は夕焼けで雲が真っ赤ですねぇ。このままお天気、崩れないといいんですけど」
「崩れるはずがないよ。このワタシが歩く道なのだからね」
「おお……根拠不明の美しいドヤ顔……」

 美しい景色に美しい主人。浮かれてしまう環境だけれど、足を踏み外したら真っ逆さまだ。
 そのため進むのは明るいうちだけ。今日はここで休息を取るべきだろう。

 疲れた体に鞭を打ち、ついでに暇を持て余した主人にちょっかいを出されながらも私は野営の準備を進める。
 枯れ木を集めて火を焚く頃には月が昇り始めていて、渓谷は底の見えない奈落へと姿を変えた。

「あと三日くらいでしょうか。森もすっごく大きいですけど、この渓谷も負けないくらい大きいですね」
「どこかの馬鹿部下が脆弱な体力をしていなければもっと早く到着出来たろうにね」
「……そんなことしたらでぇとがすぐ終わっちゃうじゃないですか」
「ふむ。そういうことにしてあげようか」

 ラネールへの遠征は荷台に乗っての移動だったため、久々の歩き通しに体はクタクタだ。
 しかしその反面、一日でも長くでぇとの時間が続けばいいのにと思う自分もいる。疲れが溜まっているのにこうして夜更かししているのも、主人と共にいる時間を楽しみたいからだ。そして──、

「ところで、マスター」
「何」
「えっと、ですね……」

 今回のでぇとは前回と違って考えるための時間があった。だから、この機会に成すべきことを熟考してきたのだ。
 経験則は皆無。しかし私には空で集めた情報という武器がある。かつて見聞きした情報によると、でぇとの時、女の子は何をするかと言うと、

「せ、せっかくのでぇとなので、マスターに食べてほしいものがありまして」
「…………ふぅん」

 辛うじて短い相槌は返ってきたけれど視線すら与えてもらえない。これは予想の範疇だ。
 好きな相手の胃袋を掴め。それは女の子の間で囁かれている通説だ。私の好きな相手は体の構造も味覚も人間と違うけど、実行してみる価値はある、はず。
 以上のことから部下としての激務の合間を縫い、私が用意してきたものは──、

「唯一私が作れるお菓子、パンプキンクッキーですっ!」

 じゃじゃーんと取り出した小さなカゴ。中に入っているのは、愛情込めた手作りクッキー。
 自分でもベタすぎる作戦だと思うけれど、焼け野原並みに乏しい経験から捻り出したのだから後は当たって砕けるだけだ。

 ギラヒム様は表情を変えずに数秒部下を見つめ、鼻から抜ける嘆息と共に小さく肩を竦める。

「芸がない……とは、言わないでおいてあげようか」
「言ってますけど聞かなかったことにしますっ」
 
 慈愛と見せかけた嘲りも、鉄の心で何とか耐える。彼の魔物舌にも受け入れてもらえるお菓子が限られているのだからやむを得ない。
 作り慣れたお馴染みのレシピで出来たクッキーは私の分と主人の分、それぞれ用意してある。幸い形は崩れておらず、綺麗な菱形を保っていた。

 主人にカゴを差し出せば、思案げな表情を見せられながらも一つ摘んでもらえた。
 そして私も自分の分を摘み、彼が口にすると同時にひと齧りをする。舌に乗せると甘やかな味が口内に広がって──、

「んむ……?」

 口内に……広がらない?
 歯でクッキーを噛み砕きながら「あれ?」という疑問符がこぼれ出る。
 確かめるためにもう一口食べてみるけれど、やはり同じ。何回噛んでも舌で確かめてもそれは変わらず、どう考えてもこれは、

「味が……薄い……」

 何故、なんで、と惨めに慌てるけれど、だからと言って味が滲み出てくることはない。ちゃんと完璧な手順を踏んだはずなのに。しっかりと準備したはずなのに。

 さすがに傷ついた私は半泣きで肩を落とす。そんな私の様子を見ていたのかいなかったのか、とにかく黙ったままの主人から与えられるのは無慈悲な悪罵のはずで──、

「へ」

 そう思っていた私の背後。部下の体を抱えながら少しだけ身を乗り出し、ギラヒム様は私の手の中のクッキーをぱくりと咥えた。
 後に続くのはサクサクという単調な咀嚼音。放心状態になった私を抱いたまま、ゆっくりとクッキーを飲み下した彼は一言、

「……薄味だね、本当に」
「は、はい……そです……うすいです……」

 やけに色気のある表情でそれだけ呟いた。
 ……予想以上に、自分の作ったものを食べられるって、そわそわする。
 しかも続けて二口め、三口めと食べて下さったものだから、最終的に失態の恥ずかしさより食べていただいている気恥ずかしさが上回ってしまった。
 ──それにしても、

「なんでクッキー食べるだけでそんなに色っぽく仕上がるんですか、マスター……」
「ッフン、美の化身が成せる妙技だとも」

 整ったお顔で決め台詞を仰せになり、次なるクッキーを咥える主人。私は顔を真っ赤にしながら、ただただ彼の咀嚼音を聞き続けたのだった。


 ◆◇◆◇◆◇


 ──あの方の偉業を語る前に、無知なお前にタートナックという一族について教えてあげよう。

 武の奴隷。それがタートナック族を形容した言葉だ。
 姿はほぼ、お前たち人間に近い。鉄の鎧を纏い、武を極めるため用いたのは剣に限らず、槍、斧、鉄球、そして己の肉体。武器として使える物ならば何でも使う。
 あれらは獣型や半獣型の魔物どもに比べ、個体数はそう多くはない。さらに同族意識は持ち合わせておらず、本来ならば単一個体で生きる種族だ。

 それがあの地にまとまって居着くようになった理由は、単に“都合が良かった”からだと言えるだろうね。
 同じ志を持つ、なんて生温い仲間意識ではない。己の力量を確かめるために、あれらは互いを利用しあっていた。弱き者は淘汰され、敗北の代償は命で支払う。そんなふうにね。
 故に、あれらの力関係は争いの結果で決まる。より強い相手に絶対服従することが暗黙の掟だった。

 タートナックどもが棲みついていた遺跡群は灰と瓦礫に塗れながらも形が残っていた。かつてそこに住んでいた人間が聖地へ移住をしてから、そう時間が経っていなかったからだろう。
 祈りのための聖堂を中心とした建物群だけが存在する、何てことのない廃墟と言えた。……ある一点を除いては。

 その光景に、あの方は初めて足を止めた。
 ワタシも同時に目の当たりにしたよ。円形の砂地を囲うように瓦礫で高い壁を作り、さらにその中心に立つ者を見物するためのやぐらを立てた、彼らのための争いの場。
 あれはそう──闘技場と言うべき場所だった。

 タートナックたちはそこで真の武とやらを極めるために日々争いを行っていたようだ。……辺境の地でそんなことをしたところで、何も生まないというのにね?
 あの方もそうお思いになったのだろう。巨大な施設を映す目には皮肉が滲んでいたよ。しかし余計な口は利かず、あの方は闘技場の中へと足を進めた。

 到着した我々を出迎えたのはタートナックの中でも下位の者たちだった。
 一見して下位の者とわかったのは、彼らの鎧が思わず同情してしまうほどに粗末なものだったからだよ。力無き者は奴隷のような扱いを受けていたのだろうね。……これは今の魔族でもそう変わらないけれど。

 彼らは突然の訪問者に警戒して剣を抜いたが、目の前にしているのが誰なのかを理解した瞬間、剣を収めて道を開けた。どうやら下位の者でも、目先の御方がどういう存在なのか理解する脳はあったらしい。

 そうして我々が導かれたのは闘技場の最奥。待ち受けていたのは最上位──つまり、族長の証である緋色のマントと鎧を纏った一体のタートナックだった。
 後から気づいたけれど、あのマントは元々緋色であったのではなく、敵の血液を吸って染まったものだったようだ。趣味の悪いことだよ。血の赤色は、飛び出た瞬間が一番美しいのにねぇ……?

 さて、話を戻そう。
 緋色のタートナックは尊大なことに玉座から立つこともせず、この地に来た目的を我々に問うてきた。
 あの方は無駄な語らいはせず、単刀直入に仰せになったよ。魔王軍の傘下として一族で加われとね。
 そこで素直に従っていたなら、まだあの一族にも救いようがあったとも。これだから筋肉バカは面倒なんだ。

 ……ああ、口が滑ってしまったね?
 大丈夫、お前に言ってあげている“馬鹿部下”とは、与える意味が違うから、ね? どういうことかはその能天気な頭で考えてみるといい。

 あのお方が寛大なる御心を示したにも関わらず、愚かな族長は服従することを否定した。
 交渉は決裂。哀れな一族は魔王軍と敵対し、滅び行く運命。……そう、思われたのだけれど。

 あれらは無鉄砲にも、ある“条件”を提示してきた。その条件に従って彼らに力の差を認めさせれば一族もろとも魔王軍に加わる、とね。

 そうだよ、条件だ。ここまでワタシの話を聞いていたならわかるはずだ。
 ……フン、やはりお前は馬鹿部下だね? 何故わざわざあの一族について説明してあげたのか、わからないのかな?
 知りたくば足を舐めろと言いたいところだけど……今日のワタシは気分が良い。それに、可愛い部下が犬のように尻尾を振って喜んでいる“でぇと”だからね? 特別に、教えてあげよう。

 タートナックの族長は、あの一族なりの方法で認めさせろと宣ったんだよ。
 武の奴隷を従えたければ武で証明しろ。真の武に至った者が、長として認められる。──つまり、あの一族のしきたりに乗っ取り、圧倒的な強者であることを証明すれば、彼らは完全に服従するということだ。

 どうやら、あの緋色のタートナックはあの方の力がそこらの魔物どもとは桁違いであることに勘付いていたようだね。だから、愚かにも一族の武を試すためにそんな条件を提示してきた。

 しかし、あの方にはチンケな一族に費やすための時間などあるはずがない。
 何せ、いずれ世界の全てを手に入れられる御方だ。わざわざ手間暇をかけて何度も戦いに挑むなんて真似はしないとも。

 故に、あの方は出された条件を呑んだ上で、緋色のタートナックへ、こう告げたんだ。

 ──百体のタートナックをまとめて一人で相手をする、とね。