導入編9_きおくつあー 終点
「──ッあ、」
再び目が覚める。
半覚醒状態の意識がどれほどの間揺蕩っていたのかはわからない。が、閉じた瞼に柔らかな光が差し、地に放り出されたままの手が短い草を撫でた感触に、眠りの淵から引き上げられた。
そしてその認識を得た瞬間、私は飛び起き胸に手を当てる。そこが血に濡れていないか、もしくは穴が開いていないか、何度も手探りで確認した。
しかし手で触れた箇所は何事もなかったかのように傷も汚れもない。意識を失う前、あの鳥の影に心臓を貫かれたことは鮮明に覚えているのに痕跡はどこにもなかった。
「…………」
やや混乱が残る頭を一旦落ち着かせて、私は眼球だけで視界を巡らせる。私が座り込んでいるのは先ほどと変わらない青い空と陽光の下、平坦な砂地と芝生に囲まれた広場だ。あの黒いヒトと鳥の姿はない。胸の傷が無かったことよりもそのことにひどく安堵している自分に気づき、頭の片隅で違和感を抱いた。
だがその違和感の正体を探る前に視界の端へ奇妙な人影が映り込み、咄嗟に首を捻る。
「……?」
私の傍らにいた人物は、黒い影ではなく……むしろその逆の姿をしていた。
真っ白な装束を全身に纏い、同じく白いフードを目深に被ってそこに立ち尽くしている。
黒いヒトと違いその顔は塗りつぶされていなかったが、衣装に覆われた表情を窺うことはできない。背格好だけなら男にも女にも見える。……実体化している人影、という印象だった。
その人物はすぐ隣にいる私の視線に応えることもなく静かに佇んでいる。呼吸音すら聞こえず一瞬人でないのかと訝しんだが、フードの下の視線が何かへ向け一直線に注がれていることに気づいた。
私もつられるようにその視線を辿り、そこにあるものにようやく気付く。
「──穴?」
視線の先にあったのは、一つの巨大な穴だった。
いつからあったのか、何故今までその存在に気づかなかったのかはわからない。真っ暗でぽっかりと大きな口を開き、何でも飲み込んでしまう奈落が、そこにはあった。
ゆっくりと立ち上がり全貌を見遣るが底は見えない。
同時に、今の私の周囲にはその穴しか存在していないということに今更気づいた。倒れる前に存在していたはずの建物は背後から消えていて、穴だけを抱えた地面は四方を青い空に囲まれている。穴のために用意されたような島に、私と白の人影は立ち尽くしていたのだ。
「…………」
ただただ暗闇が広がる穴を遠目に覗くと、得体のしれない恐怖心が全身に纏わりつく。普通に考えたのなら空の島に開いた穴へ落ちれば、島の底から空に抜けるはずだ。しかしこの穴の奥底で蟠る暗闇は必ずしもそうではないと物語っている。
あの穴はどこに繋がっているのか。そもそも何故私はこんな場所にいるのか。
尽きぬ疑問に閉口したまま思考を巡らせていた、その時。傍らの白い人影がゆっくりと片腕を持ち上げた。
何の音もたてず、見入った私の視線だけを受けていたその手はやがてぴたりと止まる。静止したその手は──あの大きな穴を指差していた。
それだけだ。続く動作も言葉もない。──だが、
「──ここが、」
再び穴を目に映した私の唇は静かに解かれ、
「私の、帰る場所?」
一つの問いが、こぼれた。
何故そんなことを聞いたのかわからない。けれど向けた問いの答えをこの白い人物が知っているのだと、希望にも似た予感を私は抱いていた。
問いかけに対する反応はない。それでも沈黙を保ったまま穴を指差し続けている白の人物の行為は肯定を示しているように思える。
私はゆっくりと穴に近付き中を覗き込んでみる。
……ここは、誰が帰る場所なんだろうか。私が帰るべきこの穴は、どんなヒトが帰っていく場所なのだろうか。
穴を見つめながら、とりとめのない疑問が浮かんでは消える。
──不意にその思考の渦へ、一つの声が落とされた。
『──鳥ナシ』
「……!」
それは白い人から発されたものではない。外から聞こえているのか頭の中だけで響いているのかそれすらもわからないが、耳を塞ぐことを許さないという攻撃性を孕んだ声だった。
私は抵抗するようにその場にしゃがみ込み、耳を覆って目を瞑る。声はその行為すら嘲笑うかのように降り注ぐ。
『鳥ナシ』『鳥ナシ』『トリナシ』『ロフトバードに認められなかった』『鳥無し』『鳥ナシ』『異端児』『鳥ナシ』
──『女神に愛されなかった子』
滂沱の雨のような音の中に、一際目立って響く声があった。
私は思わず目を見開いて、顔を上げる。白い人は微動だにせず穴に向かって指を向け続けていて、声の主の姿は変わらずそこにない。
だが一拍置き、再び声は紡がれる。
『ロフトバードがあの子に攻撃をする理由は』『もし女神の子ならロフトバードが導いてくれる』『親もいない』『あの子はどこから来たのか』『ロフトバードは女神の使い』『ロフトバードは守護鳥』『あの子は』『ロフトバードに愛されていない』『あの子は』『女神に』『あいされていない』『あの子には、』
「──魔族の血が、入っているから」
最後のそれは、自身の口からこぼれ落ちた。
そう。私の見た目がスカイロフトの人間と同じで、女神の子と同じで。でもその人たちと同じ暮らしをしていないのは。
私の体の中に──魔族の血が入っているからだ。
魔物と全く同じ、というわけではない。
日の光が苦手で、その分夜には少し活動的になって、他は人間の女の子と何ら大差はない。魔力はほんの少し持っているらしいけれど、魔法が使えることもなければ寿命が延びるなどの恩恵を受けることもない。
しかし。スカイロフトにおいて守護鳥──ロフトバードは、私の姿を認識すると決まって襲いかかってきた。
それが与えられた使命と言うように。爪を、クチバシを、いかなる時でも私に向ける。
いつの頃からか、それを哀れんでいた人も私のことをこう呼ぶようになった。──『鳥ナシ』と。
ひねりのない呼ばれ方だと思う。だがスカイロフトにおいてその呼称は大きな意味を持つ。
鳥ナシとはつまり、女神の祝福を受けていない人間であることを意味する。この世界においてそれは、女神の敵である魔族側に立つという意味に他ならない。
大昔の世界で争いを繰り広げていた一族に対し、小さな島に住む力ない少女。そんなちっぽけな縮図であっても世界の摂理に変わりはなかった。
それでも私の物心がつくまで何の不自由もなくスカイロフトで生きてこられたのは、周りの大人の良心というやつだったのだろう。幸か不幸か私は一人で生きられるようになるまで育てられた。
「……でも、」
いつか。……もしかしたら、今。
私が帰るべき場所は眼下で口を開く大穴なのかもしれない。
白い人物は気づけば隣からいなくなっていた。
私は立ち上がり、もう一度穴を覗き込む。すると、真っ暗に見えていた穴の中に無数の何かが落ちていることに気付き目を凝らす。そしてその正体に気づいて、小さく息を呑んだ。
──四肢だ。
腕と、足……よくよく覗き込めば胴体や他の部位もあるのかもしれない。無造作にばら撒かれた何かの体の部位が穴の底を埋め尽くしていた。
加え同時に気づく。穴の中の四肢たちがおよそ人とは違う色や形をしていることに。長い爪を持つものや固そうな鱗を纏ったもの。濃い赤や青など禍々しい色をした肌。あれは──魔族だ。
「────」
やはりこの穴は、私の帰るべき場所なのだ。
そしてここには、自ら飛び込むべきなのだ。
私は一度穴から目を背け、深呼吸をする。そのまま真上に広がる空を仰ぎ見た。
空の真ん中にあるこの島は、日差しが容赦なく降り注いで私にとっては居心地が悪い。それに、翼を持たない私にはここから脱出する術がない。早く……落ちてしまわないといけない。
私はおそるおそる足を踏み出す。
穴の中の四肢たちに手招きされ、導かれるように。
私も、あの中に──。
「──リシャナ」
その足を、呼吸を、世界の時間さえも。一つの声が、止めた。
私の名を呼んだその声は、何故か怒っているように聞こえた。声の主の姿は見えなかったが、不思議と抱いたのは恐怖ではなく安心感だった。
ふとやわらかな風が背後へ吹き抜け、私は振り返る。
先ほどまでこの島の周りには空だけが存在していたはずなのに、そこには島ごと呑み込んでしまうほどの巨大な竜巻が現れていた。
あの大きさなら、私の身体はこの地もろとも食われ、どこかに攫われてしまうだろう。しかし少しも怯えることはなかった。
「……怒ってます、よね」
苦笑と共に呟く。
いくら無意識だったとはいえ、見事にしてやられてしまったのだからあの人が怒る……もしくは呆れるのも当然だろう。
きっと“帰った”後には手間をかけさせたお仕置きを食らうことになる。何をされるのか、今のうちから覚悟をしておかないといけない。
──だから、この穴は私の帰る場所じゃない。
私は竜巻に向かって一歩、また一歩と足を進め、やがて走り出す。踏み締める大地が途切れる瞬間、足に力を込めて勢いよく地を蹴った。
巨大な竜巻は、飛び込んだ私の体を丸ごと呑み込んでいく。
「──おかえり」
あたたかな安息を抱く声を耳にしながら、私の意識はその深層へと引き摺り下ろされていった。