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導入編10_ただそれだけの生き方で



 ──数年前。空に浮かぶ女神の島、スカイロフトにおいて一つの小さな事件が起きた。
 突如本島の周辺で発生した巨大な竜巻に、一人の少女が飲み込まれたのだ。寄宿舎に住まう騎士学校の生徒だった。

 人々は雲の下に世界はないと信じていた。

 数ヶ月に渡り捜索がされたが少女の行方は未だ不明。
 雲の下には誰も行くことが出来ないから。そこに世界はないはずだったから。

 空から落ちた少女の末路は、誰も知らない。


 * * *


 その強引な浮遊感は、深い水の底から引き上げられ急激に酸素が回る感覚に近かっただろう。本日何度目か知らないけれど、間違いなく最悪と言っていい目覚めだった。

「──主人の手を煩わせておいて、随分可愛げのない顔をするものだね、リシャナ」
「…………マスター?」

 だが、これまでの目覚めの中で一番頭が冴えていたのも今回だった。
 目の前には整った顔立ちで私を睨む主人、ギラヒム様がいる。自身の体を抱える彼の腕の温度が伝わり、私は束の間の『悪夢』から戻ってきたのだと思い知った。
 その確信は触れた主人の肌の感触が普段と変わりないという自身の根拠に基づいたものだ。しかし間違いはないだろう。

「マスター、なんでここに……」
「お前にそれを話すのは置かれた状況を理解してからだ」

 低く返し嘆息をこぼした主人。言われるまま周囲へ視線を巡らせると、辺りには黒ずんだ墓石が主従を取り囲むように立ち並んでいた。
 悪夢に陥る前に私が見た廃村はどこへ行ったのかという疑問が浮かんだけれど、それよりも目を引いたのは墓石の間を縫い地面に描かれている禍々しい文様だ。

「……なんですか、この趣味の悪い呪文みたいなの……」
「お前に幻覚と呪いをかけていた魔法陣だよ」
「呪いっ!?」

 予想外の単語を聞き反射的に声が裏返る。どうやら私は墓石群の中心に描かれた魔法陣の、さらにその真ん中で寝かされていたらしい。呪いの効力があってもなくても高確率で悪夢は見られそうな配置だ。

 主人はそれ以上語らず、詳しくはアレに聞けと言わんばかりに視線を正面へと寄越す。従うようにそちらへ首を向けると思わず「あっ」と声が漏れた。

「あの白装束……」

 彼の視線の先にいたのは、先ほどの悪夢の中で穴を指差していた白の人影だった。夢の中では機械のように最低限の動作のみ見せていたその人物は、少し距離を取った墓石の傍らで唖然と口を震わせていた。

「な、何故……あと少しだったのに……!」

 顔は夢の時と変わらず半分しか見えないが、動揺を隠しきれていないその声質から衣装の中身が男なのだと知る。
 同時に悟ったのは夢の中で私があの真っ暗な大穴に落ちていたなら、二度とこうして目が覚めることはなかったということだ。

 私の横顔を一瞥した主人も同じ理解をしたのか、付け加えるように口を開く。

「あの呪いは外から解けない術式だったらしいね」
「……本当に私、生死の淵を歩いてたわけですね……」

 青ざめた顔で冷や汗を流す私に対し、どこまでも主人は冷静だった。
 けれど──大穴に落ちてしまう寸前、私の名を呼んだ声と突如発生した巨大な竜巻に彼の気配を感じたのは、たぶん気のせいではないだろう。

 私は口元を緩め、自身を抱える主人を見上げる。

「……マスターの命令通り、帰って来られました」

 小さく笑みを向けると主人は微かに驚いたように目を見開く。が、すぐに呆れ混じりの嘲笑を向けた。その表情にすら心地よさを覚えてしまうのは、仕舞い込んでいた過去の記憶を拾い上げたからだろう。

 ギラヒム様は気を取り直すように再び白装束に向け視線を寄越す。今から私たちがすべきはただ一つだ。

「……やれるか」
「え」

 不意に向けられた主人の問いかけに、私は驚きを隠せなかった。普段なら問答無用で「やってこい」で済ます主人が、滅多にない気遣いを見せたからだ。
 もちろんですという言葉が喉から出かけたが、口にする前に天邪鬼の思考がそれを制してしまった。

「えっと……少し体がだるいのとあともうちょっとでいいのでマスターの温もりを感じていたいかなって……」
「戦えるらしいな。最前線で。何なら鉄砲玉として」
「調子乗ってすみませんでした」

 返された声色から有言実行される空気を察し、私は早々に謝罪を口にする。そうして名残惜しさを感じながらも渋々彼の手から離れ地に足をつけた。

 頭を切り替えて真正面から白装束と対峙する。
 主従がふざけたやり取りをしている間に白装束も幾分か平静を取り戻したらしく、衣装で隠された視線には静かな敵意が満ちていた。

「──女神の子」
「……!」

 一つ落とされた声音に私は小さく息を呑む。無機質な声音で告げられた呼称は、その瞬間脳の片隅にあった記憶と結びつく。

 封印の地の石柱のもとへ主人が出向いた、あの夜。螺旋の上から主人を見下ろしていた私の耳に聞こえてきた声と、それは全く同じものだった。
 ……どうやらこの地に来る前から、私は目をつけられていたらしい。腑に落ちた感覚と共に自身の警戒心の無さを呪った。

「何故、魔族に加担する」

 白装束は私に剣呑な視線を向けたまま問いかける。
 女神側の者からすればそれは当然の疑問だ。今だけでなく、これまでも女神側の亜人や意思疎通の出来る精霊に幾度となく同じ質問をされてきた。
 唇を結んだままの私に、白装束はさらなる疑問を投げかける。

「空の者に虐げられたからか。もしくは女神の寵愛を受けなかったからか」

 ぴくりと肩が反応し、私の視線はわずかに歪む。おそらく、あの夢を見せる過程で私の記憶を覗き見たのだろう。
 その証拠に大穴の前で降り注いだ声は、過去実際に聞いたそれを忠実に再現してくれていた。……再現度の高さを賞賛する気には全くなれないけれど。

「混血だとは言え女神の血を持つ貴様がこの魔族に仕える理由は、」
「ごめんなさい、聞き飽きた」

 耳障りな白装束の訴えは、低く発したその言葉で遮られる。私は腰の魔剣を片手で抜きながら、温度の下がった視線を目の前の“敵”へと向けた。

「……私に理由を与えてくれるのは、一人だけでいい」

 ──なぜ魔族に尽くすのか。
 空には嫌な思い出もある。生きづらかったこともある。ロフトバードに刻まれ消えずに残った傷も、ある。

 復讐はヒトの原動力だと、嘯く者がいる。ならば私がこの地上で生き抜く理由は空への憎しみが源泉なのだろうか。

 そう考えた時、私は気付いた。……自身が空の住人や女神に対し、憎しみの感情を全く抱いていないことに。
 
 ならば何故、敵対するのか。
 答えは全て──空から落ちたあの日に、帰結する。

「私はギラヒム様のために生きて、ギラヒム様のために死ぬ。──ただそれだけ」

 わたしが空から落ちた日。彼の手により引き摺り下ろされた日。
 何もないと信じていた雲の下には、広大な世界が存在していた。誰もいないと思っていたはずの大地には星の数ほどの命が在った。

 そして目印なんてない無限の大地に落ちたわたしを見つけ、貴方はたった一言告げた。

 ──「おかえり」 と。

 自分でも理由のわからないまま、止め処なく涙が溢れた。生まれて初めて言われた言葉という訳でもなくて、彼が何故そう告げたのか理解すらしていなかったというのに。
 ──それでも、わたしの過去と未来は全て彼の手の内にあるのだと、それだけは理解した。

 この人のためにわたしは生まれたのだと、教えられた。
 曖昧だったわたしが、主人のための私になった。

 だから──それだけが、私の生きる理由だ。


「……ならば、眠れ」

 私の宣告に対し返されたその声には、もはや純粋な敵意しか残されていなかった。
 白装束は長い裾から枯れ木のような手を出しコキ、と鳴らす。その音に呼応し、白装束の周りには無数のナイフが浮かんだ。差し出された手が翻り、その指揮に合わせてナイフの切っ先が全て主従の方へと向けられる。

 表された明確な殺意に私は顎を引く。
 ふと、傍らの主人に目線だけを向ければそれに気付いた主人からはいつもと変わらず嘲るような微笑が返ってきた。たったそれだけで私の胸の奥は仄温かさに包まれる。

「──行ってきます」

 その笑みに対し、一言告げる。
 そして小さく息を吸い一歩大きく踏み出し──その勢いのまま一直線に戦場を駆け出した。

 前方からナイフの雨が放たれれば体を捻ってそれらを躱し、着地した片脚をバネに白装束との距離を一気に詰める。
 飛び込んだ私に対抗すべく振りあげられた白装束の手を空いた片手で払い除ける。そのまま、

「──ッ!」

 横一閃に、魔剣を薙ぎ払った。
 ……が、血飛沫が散るどころか固体を裂いた感触はそこになく、空気だけが揺れる曖昧な手応えだけが残る。

 そいつに実体が無いと理解した頭はすぐさま体を後退させる指令を送った。体勢を立て直し飛び退いた後を辿るようにナイフが追撃を仕掛けてきて、それを躱し魔剣で弾きながら一旦主人のもとへと退く。

「マスター、あいつ切れないです!」
「見ればわかる」

 淡泊な返答をしながら傍らの主人にもナイフは放たれ、彼も彼自身の魔剣でそれを弾く。
 私が切ったはずの白装束は体の上下が離れていることもなく、何事もなかったかのようにナイフの雨を降らせ続けている。どう生み出しているのか、刃の数は無限のようだ。

「実体は無いようだね、武器は本物だけれど」
「えーと……つまり、」
「魔力で作られた、部分的に実体のある像といったところだ」

 主人が最小限の動作でナイフを払いながら答える。
 よくわからないけど、直接切っても意味がないということなのだろう。魔力を注いで作った人形のようなもの、なのだろうか。
 理解をしきれていない部下へ呆れの視線を向けながら主人は続ける。

「この地にも女神の結界の核がある。そいつを壊せばあれも消える」
「核……って、どこに……!」
「お前が探せ。ワタシもこの地は気分が悪い」
「か、かしこまりました……」

 そこまで答えた主人は本当に気分と、おまけに機嫌も悪そうだった。夢の中で名を呼んだ声が不機嫌そうだったのはこのせいかと今さらながら理解する。

 飛ばされ続けるナイフを捌きながらそれを探すとなると限界がある。が、実体のない白装束を止める方法は今のところそれ以外思いつかない。

「キリがな……っうわぅ!?」

 あまり女の子らしくない悲鳴をあげ頭を貫きかけた刃を弾いた。どうやら考える暇も与えてくれないらしい。
 当たれば血を見る雨を弾きながら必死に周囲へ視線を巡らせる。目に映るのは気味の悪い魔法陣、古びた墓石たち、半壊した聖堂。──そして、

「……あ、」

 小さく声が漏れると同時に、心臓を狙い飛んできたナイフを間一髪弾いた。そうしながらも思考は回し続ける。

 ここに初めて訪れた時。私が目にした廃村は幻覚が作り出したものだった。
 しかし意識を失う前後で一つだけ変わっていないものが私の目に留まった。そこに意識を向けたと同時に、体の奥底で奇妙な感覚が蠢く。

 私の中にある血。その片側を占める──女神の血が、ざわめいている。

「……マスター、見つけたかもしれないです」

 背中合わせでナイフを弾いていた主人に、静かに声をかける。
 それはどこなのかと問われることはない。寄越された視線に促され、私は続ける。

「一個だけ、お願いしていいですか?」

 部下の場違いだとも言える問いかけに、主人からの返事はない。
 だが答えを告げるかわりに彼の魔剣が大きく振るわれることによって取り囲んでいた刃が一掃され、束の間の静寂が訪れた。

 そうして私は振り向かぬまま、唇を解く。

「『命令』、してほしいです」

 それを与えられたなら、必ず私はやり遂げる。

 その続きは口にせずとも主人に伝わる。
 故に彼もまた振り向かず、笑みをこぼしてたった一言を告げた。

「──いっておいで、リシャナ」

 胸の奥にじわりと熱が灯る。心地良くて温かで、私の命そのものとなり得る感覚。
 対する答えも、一言だけ。

「──イエス、マイマスター」

 短く呼吸をし、私は一直線に走り出す。向かう先は、再び白装束の元。

 行く手を阻む刃を片手の魔剣で弾く度、一つ一つの重みが肩へとのしかかってくる。
 そして何度目かの刃の豪雨をしのいだ瞬間、私は走っていた勢いを殺さぬまま地面を蹴り、方向転換をする。その視線が捉えるのは白装束ではなく──高くそびえる、半壊した聖堂。

「なっ……!」

 飛び込む私の迎撃に備えていた白装束が、私の突然の方向転換に呆気に取られる。
 しかし彼も即座に手を翻し、ナイフの向きを転換させる。視界の端にそれらを映して走りながら、自らの魔剣を握り直した。その時、

「!?」

 ナイフの軍勢は私が剣を振るう前に、唐突な横風に吹き飛ばされたかのように散っていく。背後を窺えば、主人が持ち替えた大型の魔剣を構えていた。
 私は道をこじ開けてくれた主人へ心の中で一礼し、聖堂へと走り続ける。

「させぬ……!」
「! ……っう、」
 
 ナイフによる遠距離攻撃が無意味だと理解した白装束が、見かけから想像のつかない素早さで私の前に立ち塞がった。
 すかさず足を止め、魔剣を構える。すると、それまで感じていなかった猛烈な吐き気が体に襲いかかってきた。

 結界に近づけば近づくほど、体の底から這い上がる嫌悪感と拒絶心。普段壊す小規模な封印と違う、鋭利なほどに澄み切った空気。

 やはりあの聖堂はスカイロフトの女神像と同じ、魔の血を否定する──聖域の中心のようだ。
 半端者の私ですらこの気分の悪さなのだから、純粋な魔族のギラヒム様はここに近寄ることも出来ないだろう。

 私はふらつく足元を踏みしめ、真っ直ぐに白装束と対峙する。骨のような指が再度鳴らされ、獲物を串刺しにするための無数のナイフが私を囲んだ。

「ここで諦めろ。私を切っても意味はない」
「お断りします……!」

 言いながら私は白装束の懐へ飛び込む。
 が、片手の魔剣は白い体躯へ真横に走らせるための刃を向けない。かわりにそれは垂直に立てられ──自重を乗せながら枯れ木のような手へと、突き刺さった。

「──!!」

 魔剣が貫いたそこには先ほど胴体へ刃を走らせた時と同じ感触はない。正真正銘、実体を持ち肉を裂いた感覚が手に残る。
 私は勢いのまま白装束の体を地面に蹴飛ばして馬乗りになり、自由なもう片方の手を片足で踏みつけた。白装束は魔剣により左手を、私の足により右手を押さえつけられ地面に張り付けにされる。

「ちょっと乱暴だけど……これでナイフ、飛ばせないよね……?」

 答えを聞く前に浮かんでいたナイフがバラバラと地に落ち、それが証左となった。
 予想通り、この白装束は手のひらにだけ実体があるようだ。最初切り込みに行った際、私が振り払ったその手にはっきりとした感触があったのを頭の片隅に記憶していた。

 白装束は抵抗を見せながらも、まだ勝算があると言うように皮肉な笑みを見せる。

「フン、貴様が私を拘束したところで、ここから動けなければ結界はいつまで経っても維持されたままだ……!」

 確かに、この体を抑えつけている限り封印の中心である聖堂には近づけない。そして拘束を解けば、その瞬間私は蜂の巣にされてしまうだろう。

 そんなことは走り始めた時から理解できている。だから私は、その体勢のままで腰に納められたもう一本の魔剣を抜いた。

「そろそろ帰ってマスターに褒められたいので……終わらせます」

 そう宣告し、私は抜いた魔剣を白装束でなく真っ直ぐに見上げた視線の先──女神が描かれたステンドグラスへと向ける。すると足元で白装束の双眸が見開かれた気配が伝わった。
 それを無視し、私は魔剣を持つ手を振りかぶって、そして──、

「一剣……入、魂ッ!!」

 たった今思いついた言葉を叫びながら、魔剣をステンドグラスへと投げつけた。
 魔剣は風を切り裂きながら小さな円を何度も描き、その勢いは衰えぬまま、

「ッ──!!」

 ガラスの中で微笑む女神の心臓部分に、深々と突き刺さった。
 途端、墓地に満ちていた女神の気配が大きく揺らぐ。その光景を白装束が目にし、声にならない悲鳴をあげた。

「ッあ──」

 ──瞬間。
 魔剣を投げ無防備になっていた私の右肩へ、一本のナイフが突き刺さった。
 最後の足掻きと白装束が指を捻り放たれたものだ。

 鮮血が散って、熱を帯びた痛みに苦鳴が漏れる。
 白装束を拘束していた魔剣と足の力が同時に緩み、私の体は振り払われるように横殴りにされた。
 そのまま体を放り出され、墓石か聖堂の瓦礫に体を打ち付けることを予期して身を固める。本能で骨の何本かは持っていかれることを覚悟しながら──。


「……あれ、」
「最後まで美しくやれたなら完璧だったね」

 けれどその痛みはいつまで経っても襲って来ず、体を受け止めた柔らかな感触に閉じていた目を見開く。
 視線を上げれば薄い嘲笑を浮かべた主人が私の体を抱えていて、細い指が弾かれたと思えば私の肩のナイフが灰のように消え去った。

 そうして私をその場に下ろし、見ていろと言うかのように背を向けゆっくりと歩き出す。

「だが──封印を壊したご褒美は与えてあげよう。リシャナ」

 天啓のように、戦地に声が響く。
 私が魔剣を突き立てたことによりこの地を包む女神の力が薄れ、白装束は力を使い果たしその場で這いつくばっている。

 一筋の亀裂が刻まれたステンドグラスに主人が近づくほど、周囲に彼の魔力が満ちていく。
 私はもちろん、敵である白装束も見入ってしまうほど圧倒的な空気の変化。

「久しぶりに見せてあげようじゃないか。──本当のワタシを」

 彼の細い指先が鳴り、一対の剣が姿を現す。
 両手に握られる二本の魔剣は目に見えぬ一閃を放ち、ステンドグラスを覆う最後の結界を切り裂く。

 その勢いのまま高く飛び上がった彼の体を、黒い光が覆う。──そして、

「────」

 そこに在るのは一振りの漆黒の魔剣。

 誰の手にも握られていないその剣は自らの意志で剣先を天に掲げ、

 微笑みをたたえた女神を、真っ二つに切り裂いた。