series


導入編8_きおくつあー 途中下車



「おはよう、リシャナ」

 曖昧で真っ白な、茫洋とした空間を漂っていた。自分が眠っているのか起きているのか区別がつかないほど、頭の中はぼんやりとしている。それでもその声はたしかに耳へと届き、自身の体が反応したことがわかった。
 自分は起きようとしている。ということは今まで私は眠っていた。そんな単純なことをまるで理論を組み立てるようにつなげて、つぎはいで、私は目を覚ます。

「────」

 そこは暖かな日差しが差し込む小さな部屋だった。上体をゆっくり起こすと自分が横たわっていたのは簡素なベッドで、先ほど声をかけてきた人物はすぐ隣で佇んでいるとわかった。
 その人物に返事をしたのか否か、自分でも記憶は朧気だ。まだ眠り足りないという子供のような不満を抱きながら、それでも目が覚めてしまったので仕方なく私は起きることにした。

 ……二度寝しようとすると、どうせ怒られるし。
 緩慢な動きでベッドから抜け出すとぎしりとスプリングが悲鳴をあげる。そういえばこのベッドのマットレスが固くて夜中目が覚めてしまうと文句を言おうと思っていたんだった。が、今は気分じゃないのでやめておく。
 片手で目を擦りながらベッドから降り立ち、導かれるように部屋の外へと続く扉に向かう。取っ手に触れるとひやりとした感触が指に伝い、軽い力で捻るとそれはすんなり開いてくれた。──その瞬間。私の脳裏に一つの疑問が過ぎった。

 ……誰に?
 私は二度寝をすると誰に怒られるのだろう。誰にマットレスが固いと文句を言うのだろう。
 ふと浮かんだ疑問の答えは、出ない。

「────」

 少しの間悩み立ち尽くしたが、数秒を置き私は扉を押して部屋の外へと出た。
 結局、私は目覚めの瞬間隣にいたその人の顔を一度も見ることはなかった。

 *

 扉を出た先は広いとも狭いともいえない廊下だった。視線を巡らせると今しがた押し開いたものと同じような扉が等間隔で並んでいる。その表面には金属で出来たプレートがぶら下がっていたり、脇に観葉植物が置かれていたりと、どこも自身の敷地を精一杯に彩らせていた。

 私は何気なく振り返り、背後へと視線を寄越す。そこには無機質で空疎な扉だけがあった。


 ゆっくりと廊下を歩き出す。私はどこに向かうのだろう、と他人事のような疑問を抱いたが、対する自身の足取りは答えを知っているかのように迷いがない。
 途中、いろんなヒトとすれ違った。背丈は私と同じくらいだったり、大きかったり小さかったり。二人連れ添って歩いていたり一人忙しなく早歩きをしていたり。唯一共通していたのは、皆、塗りつぶされたように顔が真っ黒だったということだ。

 ならば、目覚めた時隣にいたあの人の顔も黒く塗られていたのだろうか。
 また一つ新しい疑問を抱え、それを口に出すことはなく廊下をひたすらに進む。すれ違うヒトビトに声をかけようとは一度たりとも思わなかった。

「────」

 そうして終に辿り着いた廊下の果て。そこにはそれまで目にしてきたものとは違う、観音開きの大きな扉があった。
 私はその扉の前に立ち、迷い無くそこを押し開く。ここが目的地だったんだと、どこか遠くで自身を眺める自分が呟いた。

 開いた扉の隙間からは暖かな風が吹き込んでくる。隙間から陽光が漏れ出て、この扉の先は外の世界なのだと理解した。

「────」

 一歩踏み出し、まばゆい光に包まれた視界。やがて目が慣れると、そこには大人が複数人で充分に走り回れるほどの広さの庭があった。
 もともと草が生い茂っていたであろう場所を円形に刈り取り整備された砂地だ。その他のものは何もない。私が今出てきた建物を除けば、ここに存在するのはその広場と一面の空だけだった。まるですぐにでもここから飛び立てるよう全ての障害物を取り去ったように。

「────、」

 その光景を目にし、私は初めてわずかに顔をしかめる。同時に、こんなところに来ても意味が無いと本能が拒絶を示す。降り注ぐ眩しい日差しはその気分をさらに憂鬱なものにさせた。

 嫌悪感に促され、私はすぐさま踵を返す。しかし扉へ手をかけ、逃げるようにその場から立ち去ろうとした私の視界は──突如として何かの影に覆われた。

 私の真上に、何かがいる。
 それが何なのか、知って良いことはないとわかっていた。だが私はその気配に誘われるままゆっくりと顔を上げ、小さく声をこぼした。

「──ぁ、」

 ──鳥だ。
 見上げたその先で、四方に広がる真っ青な空を泳ぐ巨躯。暖かな風を全身で受けるように目一杯広げられた翼。その姿は先ほどのヒトビトと同じように真っ黒に塗りつぶされているが、空にくっきりと浮かぶシルエットは私に充分すぎる認識を与えた。
 自身の真上を旋回するその存在に、日差しが苦手な私へ影をつくってくれているのかと現実逃避すらしてしまいたくなる。が、広い空を気ままに飛び回る鳥にその意志は欠片も見られない。影は気付けば二つ、三つと増えていき、仲間と踊っているようにも一つの巨大な生き物のようにも見えた。

 ……こわい。敵意は向けられていないはずなのに、本能がここから逃げなくてはならないと警鐘を鳴らしている。
 それに反して何かが足に絡み付いたようにその場から動けない。……逃げられない。

「──!」

 助けを求めるように視線を彷徨わせると、広場には私以外にも数人のヒトの影が現れていた。黒い影のヒトビトはまるで物乞いをするかのように一人、二人と両手を広げる。顔ごと黒く塗りつぶされその目に映る物が何なのかはわからないが、両手は空を舞う鳥へと真っ直ぐに掲げられている。

 そして、空を泳ぐ鳥の群れのうち一羽が大きく翼をはためかせたと思えば、吸い寄せられるように影のヒトに向けて進路を変えた。
 鳥は私の真正面で立ち尽くすヒトへと首を向け、そのまま一直線に飛び込んでくる。ぶつかる、と思った瞬間、影同士は一つに混ざり合って空気に呑み込まれるよう消えていった。
 それを皮切りに、他の影たちも次々と合わさって、混ざり合って、溶け消える。

 帰っていく、帰っていく。
 目の前の光景に視線は縫い止められ、頭の中でそれだけを思う。
 気がつけば、広場には私と空を泳ぐ一羽だけが残された。

「────」

 ……あの鳥は私と溶け合うために、飛び続けているのだろうか。
 おそるおそる両腕を広げる。黒の影たちと同じように広げたつもりの腕は情けなく震えていて、遠くの空を飛ぶ鳥に気付いてもらえないのではないかと懸念を抱いた。

 しかし予想に反し、鳥は間を置かず鎌首をもたげて私の存在を認識した。……のに、顔がないはずの鳥の視線に対し、びくりと私の肩が跳ね上がる。
 真っ黒に塗りつぶされたはずの鳥の目に、鋭い敵意を感じたからだ。加えこうも思った。──“また”だと。

 鳥はくるりと空中で円を描くと、ゆったりとした動きで大きな体躯を傾ける。次いで空気を切るように翼を一度扇ぎ、一直線に私のもとへ向かう。先ほどの黒いヒトビトが受け取っていたような温かみはない。獰猛なクチバシはその凶悪性を隠そうともしない。

「ひっ……!」

 情けなく小さな悲鳴をあげて、今さらながら私は建物の中へ逃げようとした。しかし先ほどすんなり開いたはずの扉は押しても引いても虚しい音を立てるのみ。そこにあるのは扉ではなく壁だとでも言うように。

 帰りたい、帰りたい。安心出来る場所に。あのクチバシを、目を、向けられないところに。
 それが悲鳴になることも涙になることもなかったが、四肢の震えとなって焦燥感を駆り立てる。

 ──そして一度、巨大な羽音が耳元で聞こえた瞬間、

「──あ」

 鳥の影は、私を心臓ごと貫いた。

 痛みはない。意識だけがその場から切り離され暗闇へと引きずり下ろされていく。強引に眠りの世界へ引き込まれる直前、私の耳には一つの言葉が残されていた。


『──鳥ナシ』


 ひどく、懐かしい響きだった。


 * * *


 永年の眠りを保っていたはずの墓地に、“二つ目”の足音が響いた。
 忘れ去られたように閑散とした、寒々しい光景。くすんだ墓石の群れ。整然と並んだそれらの向こうには半壊した聖堂が見える。

「…………」

 張り詰めた空気は長きに渡る静寂を絶ったことに対しての怒りを孕んでいるようにも思える。得体の知れない魔力が焼け付くように肌に纏わり付いた。
 しかしこの墓石群の奥で、ずっと手元においていた慣れ親しんだ魔力の気配が眠っているということも同時に理解する。

「相変わらず……面倒事を拾ってくる」

 嘆息と共に指を鳴らし、現れた漆黒の魔剣を握る。その刃を間髪入れず何もない空間へと突き立てて、

「……手のかかる犬め」

 墓地の冷え切った空気に、ガラスが砕けるような破壊音が響き渡った。