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迷子編_2話



「キュー、へんな姉ちゃん、本当にこんなところに用事キュ?」
「うん、こんなところに用事なの。道案内してくれてありがとね」
「キュ、前に姉ちゃんがくれた、ぱ……ん……ぱんきぷんクッキー? のお返しキュ」

 くりくりとしたつぶらな瞳が低い位置から私を見上げ、ぱちぱちと瞬いた。
 その瞬きに微笑みを返しながら、そういえばこんな目を向けられるのは大地に落ちて以来滅多になくなってしまったなと思い至る。
 この目の持ち主が私のことを魔族だと認識していないからというのもあるが、それ以前に魔物以外と敵対せず話す機会がほとんどないからだ。

 眼下でキョロキョロと忙しなく視線を巡らせているのは、柔らかな体毛に全身を覆われた丸っこい生物。体長は私の身長の半分にも満たないくらいで、両手で抱き上げられる可愛らしいサイズだ。種族名はキュイ族というらしい。

 非常に臆病な性格の一族らしく、初対面の時も人間という生き物を知らなかったこの子には盛大に怯えられたものだった。
 が、たまたま巣の近くにいた下位の魔物の子たちを追い払ってあげると(離れるよう指示しただけだけど)、すぐに心を開いて打ち解けてくれた穏やかな種族だった。

「へんな姉ちゃん、またねキュ」
「うん、ばいばい」

 フィローネの森の奥地にたどり着くと、ここまで案内をしてくれた彼に別れを告げる。
 出会ったのは偶然だったが、彼のおかげで迷うこと無く目的地にたどり着くことが出来、ついでに柔らかな毛並みをモフモフ出来て大満足だ。

「たしか、ここを真っ直ぐ進んだところ……」

 一人になった私は朧げな記憶を頼りに目印のない森の中を彷徨う。
 探し求めていた景色は程なくして見つかった。

「ん、間違いない」

 長い枝葉が屋根を作り、日差しを遮る道の果て。淡い陽光が円形に降り注ぎ、照明を当てられたようにも見えるその場所。
 あったのは他に比べ二回りほど大きな大木──それが折られた後の切り株だった。

 元々はこの辺りで頭一つ抜けた背丈を誇っていたその木は、今では私の膝下ほどの高さとなってしまっている。
 一見既に命を終えた後のようにも見えるが、その断面からは薄緑色をした小さな新芽が見て取れた。

 私はその芽を踏んでしまわない位置を選び、切り株の上に腰を下ろす。
 ところどころささくれ立った木の断面にお尻がちくちくと痛んだが、その感触に目を瞑れば爽やかな陽気に満ちたこの場所はとても居心地が良い。
 風が運ぶ樹皮の匂いを嗅ぎながら辺りを見回すと、以前ここに来た時のことは殊の外すぐに思い出すことが出来た。

 ──主人との思い出の地を巡ると決めて、選んだ場所。
 私が座るこの大木が折られたのは、数年前の落雷が原因だった。

 普段は温暖なフィローネの森だが、雨季になれば天候が急に崩れる頻度も増え、森全体を浸す大雨の日も多くなる。
 それだけたくさんの雨が降っている光景も、急激に変わってしまう空模様も、天から光の軌跡を残し落ちる稲妻も、大地に降り立ち生まれて初めて経験したものだった。
 ……ちょうどその時、主人に騙され足まで舐めさせられたという記憶は出来れば早めに忘れたかったけれど。

「────」

 暖かな森の温度と記憶の中に残る濡れた土の匂い。私はそれらを手繰り寄せ、二つ目の記憶の海へと沈んでいった。

 *

 *

 *

 相変わらずの分厚い雲が広がる安穏とした曇りの日。私が空から落ちて数ヶ月が経ち、徐々にこの無表情な空合いも見慣れてきた頃。

 一人拠点を発ち森の奥へ進む私の耳に届くのは、木々の騒めきと自身が立てる足音。加え、

『──お前のような間抜けな考えナシは、いくら物事を教えようとその場から抜け落ちてしまうしね?』

 頭の中でねちっこく残響するのは、数十分前に聞いた我が飼い主──ギラヒム様の嘲り声だった。

「……ふん」

 脳内で再生されたその声に一度鼻を鳴らし返し、私は草木を荒く踏みしめ森を突き進んでいく。
 その足の行き先は知らない。目的もない。言い渡された命令もない。──つまり、ちょっとした脱走だった。

 とはいえ、今が稀にある職務と職務の間のわずかな自由時間であり数時間で拠点へ戻ることは最初から決めていたため、脱走ではなく散歩と称した方が正しかったのかもしれない。
 本格的な脱走をしてしまえば、その先に命の保証がない身分だという自覚は当然持っていた。

 そうありながらわざわざ危険も多い外の世界へ飛び出してきたのは、ひとえに我が飼い主への一時の反抗心が理由だった。

「はぁ……」

 それも一人で振り返ってみればなんともしょうもないきっかけで、自身に対する嘆息がこぼれ落ちる。

 先日彼に教えられた『雷は人間だけを狙って落ちてくる』という話が真っ赤な嘘だったと発覚して、そんなお戯れだけならまだしも足まで舐めさせられて、それを言及したら心からの嘲り顔で先程から脳内で反芻しているその言葉を告げられた……というだけの話。

 飛び出た当初はそこまで言われるくらいなら自分から知識をつけてやろうと息巻いていたが、今思えばそれは建前で、単純にこの鬱憤を晴らしたかっただけなのだと反省した。

「はぁ…………、」

 再びの嘆息と共に肩を竦め、天上を見遣る。
 吹く風は少し冷たいが朝から変わらぬ平和な晴れ模様だ。あの日以来若干トラウマになっている雷もやってこないはず。

 ギラヒム様は私が拠点を発つ少し前に出掛けており、今日は日没まで帰ってこないらしい。
 ならばせいぜい気の済むまで持て余した自制心を自由にさせてやろうと心に決め、私は森のさらに奥へと踏み入ったのだった。

 *

 ──なんて子供じみた感慨をひどく後悔したのは、森に押し入り小一時間が経過した頃だった。

「またここだ……」

 いつのまにか湿気を孕み始めた風に、不安に彩られた声が落ちる。
 不穏な兆しもなかったはずの空は今やどこからか流れ着いた灰色の雲に覆われていて、逃げるように引き返し始めた私を思わぬ障壁が阻んでいた。

 眼前には一見何の変哲もない木々が立ち並んでいる。が、私は数分前にも全く同じ光景を目にしていた。
 注意深く観察しなければ、森のささいな景色の変化など気に留めるものでないはずだった。違和感を覚えたのは歩いても歩いても森の出口にたどり着かないと自覚し始めた時だ。

 私の足はどこをどう歩いても、どう曲がっても、同じ場所に行き着いてしまっていたのだ。

「おかしい……」

 その呟きに滲む焦燥を顕現するように森は薄暗く染まっていき、体の奥底の血が意志を持って疼く感覚に揺さぶられる。
 自分の方向感覚に自信があるわけではない。けれど起きている現象の不自然さを鑑みるに──この森が異質なのだと考える方が自然だった。

「……!」

 その時、巡る思考を途絶えさせるように頬に冷たい雫が落ちてきた。それをきっかけとして、森全体が雨音の合唱をし始める。

「絶対、呪われてるッ……!」

 これが誰かの悪意によるものなのかただの自然現象なのかわからないが、ともかく散々な目にあっていることは確かだ。悪態をこぼし、私はケープのフードを目深に被り雨に打たれながら森をひた走る。
 出口を探すのは後にして、雨をしのげる場所を必死に探した。

 途中森の中を流れるせせらぎに目を遣れば、通常の何倍にも川幅が膨れ上がり水の色が茶色く濁っていた。あれに飲まれたが最後二度とこの森から出られなくなると戦慄し、大回りをして遠ざかった。

「……っ、」

 少し前に比べ表情を一変させた森は、私の中で巡る血と恐怖心を煽り、追い立てていく。
 どこでも、何でもいい。この雨の猛威から逃れられる場所に駆け込みたかった。──そして、

「あ……」

 木々が連なる獣道の果て。ふと顔を上げた私の視線の先に、壁のように立ち塞がる何かが現れた。
 瞼を濡らす雨粒を拭いながら目を凝らすと、それが周囲に比べ一際大きな木なのだと理解する。
 あれだけの大木ならば、少しだけでも雨露をしのげるはずだ。

 私はぬかるんだ土を蹴りつけ縋る思いでその大木へ駆け寄る。湿気って張り付く前髪を除けて、ついに大木の全貌を目の当たりにした──その時だった。

「──!」

 愚かな来訪者を待ち受けていた、天に伸びる大木。足元に張り巡らされた巨大な生き物のような根。
 その中に佇んでいた存在に、私は目を奪われた。

「女神像……?」

 大木の根に守られるようにしてあったのは、私と同程度の大きさの女神像──女神の封印だった。

 今さら私は、自身の内側の血が告げていたのは不安でなく警鐘であったことを理解する。この大木が抱える女神の封印の存在を、私の血はずっと訴えていたのだ。

 壊さなきゃ、と直感的な命令を頭が下し、腰の魔剣に手が伸びる。だがその手が魔剣の柄を握ることはなかった。

「────ッ、」

 私が動き出す前に、頭が割れるような轟音と目の前の世界を白一色に塗り替える凄まじい光が襲いかかってきて。
 それがあれだけ警戒していたはずの雷だということと、その雷に叩き折られた大木が今まさに私を押し潰そうと迫っていることを遅れて理解する。

 その光景に動くことも目を閉じることも出来ず、やはり私は主人が言った通りの間抜けな考えナシなのだとひどく冷静な納得感だけが頭を満たす。
 後は、何も考えられないまま──、

「──これで能無しが矯正されるなら、良かったのだけれどね」

 思考が停止した私の脳に響き渡ったのは、一つの声と風切り音だった。

「────」

 それは見惚れるほど、呼吸が止まるほど、鮮やかで研ぎ澄まされた一閃だった。
 たとえ断ち割られたのが味気のない大木であったとしても、剣を一度でも握ったことのある者なら誰であれ魅入ってしまう乱れのない太刀筋。

 押し開いた視界にそれだけを映し──その人が自身の窮地を救ったのだと、そしてその人が誰なのかを察したのは、鷹揚とした冷笑を見せつけられた時で。

「……ギラヒム、さま」

 その名を口にして、私の四肢からは全ての力が抜け落ちた。


「本当に救いようのない馬鹿犬だね。手間をかけさせた仕置きは帰ってから存分にしてあげよう」
「……ごめんなさい、でした」

 地にへたり込んでしまった私を一瞥し、彼は大木ごと真っ二つにした女神の頭へトドメとばかりに魔剣を突き立てる。
 完全に魔力の供給が潰えたこの地からは女神の気配が立ち消え、ざわざわとした血の巡りにも安寧が訪れた。

 と、内心でため息をこぼしていた私を背にギラヒム様が再び唇を開く。

「──まあ、能無しの馬鹿犬でも餌の匂いは嗅ぎ分けていたようだが」
「へ?」
「情けなく同じ森の景色を彷徨い歩いているうちに餌の場所にたどり着くなんて、お前を迷わせた女神も予想していなかっただろうね?」
「…………」

 ものすごく迂遠な言い方をされたが、おそらく何度も同じ場所に行き着いてしまったあの現象は、先ほど彼が破壊した女神像の仕業だったのだろう。詳細はわからないが、侵入者を封印から遠ざけるための罠か魔力が敷かれていたか。
 いずれにせよそれを聞かされ私の体からは二重の意味で力が抜けていった。お仕置きは嫌だけれど、早く拠点に帰りたい。

 あの天候に女神の力が作用していたのか否かは定かでないが、雨は既に小降りになっており、空を見上げれば灰色の雲も途切れ途切れになっている。
 そうして複雑な感情を含んだ吐息を落とし、項垂れた頭と重い体を持ち上げようとした瞬間だった。

「…………え?」

 私が立ち上がるその前に、腰へ不自然な引力がかかり両足が地面から遠ざかる。端的に言うと、体が浮いてお腹がぐえってなった。
 そして何が起きたのかと混乱する私の求める答えはすぐ隣にあった。

「わ、わ、え、ぎ、ギラヒム様!?」
「喚くのなら地面に叩き落とすよ」

 私の体は彼の小脇に抱えられていて、彼はそのまま帰路をたどって歩き始めていた。お互い雨で体が濡れているはずなのに、傍らの彼からはいい匂いが漂ってくる。
 驚愕の眼差しを真上に向けると、呆れ混じりの視線と単純明快な答えを返された。

「お前の鈍足に付き合っていたら日が暮れる」
「……ありがとう、ございます」

 予期せぬ彼の行動に面食らいながらも、感謝の言葉はなんとか喉を通り抜けた。

 変な緊張感に苛まれながらも彼に身を委ねていると、あんなに必死に探した森の出口は呆気なく私たちの前に現れた。
 この頃には雨も完全に止み、雲海を越え穏やかな光が大地に足を下ろしていた。
 雨に流され空気が澄んでいるせいか、普段は薄いはずの日差しが今は色濃く明瞭なものに見える。

 ──と、そんな世界の中に、これまで見たことのないものが存在していて私は目を丸くした。

「ギラヒム様、あれ……」

 抱えられたままそれを指差し、彼もその方向へ視線を移す。

 指し示す先。曇り空の下にあったのは、赤と黄と青と──さまざまな色で弧を描く、薄い光で出来た大きな橋。
 初めて目にする名前も知らないその光景。何がきっかけでどうやって出来ているのか全くわからないのに、あれが悪いものだとは一切思わない。むしろ、何かを祝福されているような気さえする。

 ──そう思ったのは単純に目の前の光景が美しかったからなのか、それとも彼と共に目にした光景だったからなのか。結論を出すことは出来なかった。

「あれ、何て名前なんですか……?」

 同じ光景を見遣っていた彼に問いかけると、返事はすぐに返されなかった。顔を窺っても、私を抱える腕と反対方向に首を捻っていてその表情は見えない。

 数拍置いて、彼は空に視線を縫い留められたまま無感情な言葉を告げた。

「……お前の空っぽな頭にもう少し中身が入ったなら、教えてあげるよ」


 それ以来、私があの光景を見ることは一度もなかった。故に数年経った今でも名前はまだ知らない。
 もしかしたら空の世界で文献を探せば簡単に見つけられるかもしれない。言葉が通じる他の魔物に聞けば教えてくれるかもしれない。

 それでも私がその名を探すことはしない。
 彼の口から、その名前を聞きたかったからだ。

 彼の隣でもう一度──何度でも、その景色を見たいと思ったからだ。



雷初見の部下の話はkobako4/16投下分にて