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迷子編_3話



「ギラヒム様、まだ追ってきてます……!」

 危機感に喘ぐ呼吸に混じえ、前を走る背に叫んだが返事はなかった。それどころかいつも返される冷たい視線も嘲りも今はない。
 地面はじっとりと湿気を孕み、踏みしめるたびに泥の飛沫が散る。足裏に不快な感触が残るが、それに気を取られて転んでしまえばまず命はない。

「──ッ、」

 不意に息を呑む音がこぼれ、視線を上げると主人の手には一振りの魔剣が召喚されていた。
 何事かと私が問う前に、彼は大きく前に出て横一閃に剣撃を放つ。
 行く手を阻んだ亜人たちはその身を上下に分かたれ、地に骸を晒した。

 だが、向かう敵を斬り伏せたところで私たちの足が止まることはない。
 むしろ障壁に阻まれた分生まれた数瞬の遅滞は、迫る追っ手との距離をさらに狭めてしまう。
 背後に視線を走らせれば魚と人間を足して二で割った見た目をした亜人たちが、槍のような武器を手に獲物を猛追している。数はそう多くはないが戦闘に慣れた種族らしく、奇襲をかけられた後は反撃をすることすら叶わなかった。そして、

「チッ……!」
「あ……、」

 憎々しげな舌打ちが耳に届いたその時、私はギラヒム様と同時に足を止め、目先の状況に息を詰める。

 待ち受けていたのはここで魔族を討ち取るという強靭な意志を眼光に宿した亜人たち。身を突き刺す敵意に剣先が震え、気をしっかり保たなければ今にも膝が折れてしまいそうだ。
 戦力として数えられていない私が怯えを見せたところで主人からの反応はないが、それは同時に現状の余裕の無さを物語っていた。

 それでも、これまでの戦いで彼の圧倒的な実力を目の当たりにしてきた私は、無意識下で油断をしてしまっていたのだろう。あまりに浅慮で、愚かなことに。

「……え?」

 亜人たちと剣を交わしていた主人が刹那目を見開いた時、私が出来たのは喉をわずかに震わせることだけで。

 ──槍に貫かれ、無数の黒い欠片を散らしながら倒れた彼の姿に、思考の全てが奪われた。

「ぎら、ひむ……さま?」

 彼の名を紡ぐ唇の感覚がない。生気のない自身の声が遠く彼方で反響する。
 地の感触が朧げなまま、私はその場に跪いた彼の元へふらふらと歩み寄る。まだ敵が武器を構えているのに、なんて他人事のような認知が頭を過ぎるが、私に出来たのは目の前で起きたことの理解だけ。

 ──ギラヒム様が斬られたという事実を、理解することだけだった。

「──ッッ!!」

 その認識に突き動かされ、反射的に魔剣を構えた私は彼を背にして前線へ飛び出ていた。

 追撃のため穿たれた槍を間一髪受け止め、けたたましい金属音が迸る。刃を隔てて真正面に迫る亜人の鬼気に気圧され、歯の根が合わず胸が握り潰されてしまいそうな緊迫感が襲う。それでも剣だけは手放してしまわないよう柄を握りしめ、槍の圧力をなんとか耐え切った。
 対する亜人は一旦身を引き、槍を構えなおして再度の刺突を試みる。

「うっ……!?」

 その時、地を踏みしめ再び魔剣で受け止めた槍の重みは予想していたよりも軽いものだった。

 違和感を覚えて咄嗟に視線を走らせると、亜人の腕の付け根には見覚えのある短刀が突き刺さっていた。
 主人が槍で貫かれた瞬間、死角から召喚された短刀が亜人へと放たれ自由を奪っていたらしい。

「──!!」

 彼が残した短刀は亜人の動きに一瞬の隙を生む。
 私が刃を弾き返した瞬間、その痛みに気を取られた亜人の攻勢が緩んだのだ。
 時間にしてみればほんの数瞬の出来事だった。だがそれは戦場における無限の時間であり、私の目にも決定的な隙として映った。

 亜人が攻撃を防ぐ手立ては何も存在しない。剣閃を走らせるべき道筋が見えて、それが今しかないとわかって。

 命を奪うべき時なのだと、わかった。

「────あ、」

 やがて凍て付いた時間が動き出した時。
 私が為していたのは剣を振るうことではなく──腑抜けた声音を肺から押し出すことのみだった。

 刀身を持ち上げることすら叶わず、眼球を動かした私の視界には痛みから持ち直した亜人が槍を構え直す様だけが映って、あとは何も出来ないまま──、

「……馬鹿犬め」
「──!!」

 次の瞬間。私の体は唐突に首根っこを掴まれ背後へと引きずられた。
 低く落ちた声に続き、耳に残ったのは指を弾く軽やかな音。

 亜人たちの怨嗟の視線と怒号を全身に受けながら、私は起き上がった主人の魔術によりその戦場を何とか逃れたことをようやく理解した。


 *


 何度か瞬間移動を繰り返した後、不意に首根っこの拘束を解放され辺りを見回す。
 私たちを取り囲むのは背の高い木々のみで、敵の気配はない。水辺から離れたこともあり、あの半水生の亜人たちも簡単には追ってこられないようだ。

「……はッ、」
「あ……」

 深い呼吸音につられて振り向けば、ギラヒム様が大木に背を委ね片手で胸を押さえつけていた。
 私は彼の傍らに屈み込み、様子を窺おうとして──その手に覆われた“傷”の存在に凍り付く。

「────、」

 彼の体を穿った刺傷痕は、人の体に刻まれるものとはおよそ違った見た目をしていた。
 人間でいう鳩尾の箇所。そこには槍で貫かれた穿孔が痛々しく開いている。……が、血は流れていない。かわりにその肌にはガラスに走るような亀裂が刻まれ、砕けた表面からは黒い欠片が剥がれ落ちていた。胸部が最も痛むのか、彼は庇うようにそこを抱え込んでいる。

 初めて目の当たりにした主人の傷。人間どころか他の魔物たちとも性質の違うその光景に私は目を奪われ、数拍の後、震える手が自身の腰元へ運ばれた。しかし、

「……無駄だよ」
「……!」
「お前たち人間が使う治療法は、何の効果もない。この体を治すことが出来るのは、ワタシ自身と……魔王様だけだ」

 視線が交わり、彼の瞳の中には携帯している治療薬に手を伸ばそうとしていた部下が映り込む。その瞳は皮肉げに歪み、淡々と続けた。

「お前が出来ることは、何もない」
「────」
「……少し時間が経てば、すぐに回復する。お前は……あの亜人どもの気配でも、探っていろ」

 投げ出すように一息で言い切り、続く息継ぎは痛みに呻く掠れた吐息へと変わった。深いところにまで傷が至っているのか、彼の細い指は肌に食い込むほどに握りしめられている。

 けれど彼の言う通り、今の私に出来ることは何もない。
 そうわかっていながらその場から離れることだけは憚られて、私は彼の傍らに寄り添い続けた。


 *


「──随分、都合のいい顔が出来ているじゃないか」
「……?」

 その言葉に顔を上げたのは、地面に座り込んだまま彼の回復をひたすら待っていた時だった。
 感覚はとっくに失われていたが、不規則な呼吸音と苦鳴を聞き続けた時間はそう短くはなかったと思う。
 多少痛みが凪いだのか、彼の横顔には幾分かの余裕が戻ってきていた。

 告げられた言葉の意味が呑み込めていない部下へ彼は冷たい視線を寄越す。
 私が小さく肩を震わせると、表情に呆れを浮かばせ彼は続けた。

「拘束者が負傷をして動けずにいるんだ。正常な判断をするなら、大抵は見捨てて逃げ出すものだろう」
「…………」

 告げられたのは考えてもいなかった発想で、私は思わず目を見開いた。
 拘束者とは彼自身のことを指すのだろう。未だ彼の中で、私は自由を奪われている身分なのだという認識があるらしい。
 それに対する否定も肯定も持ち合わせておらず、私は複雑な感情に視線を下ろす。

「私は異常、ってことですか」
「ああそうだ。……もっとも、お前の判断は間違っていない。負傷の身でも、逃げるお前を追って縛り付けるか殺すくらいならば容易く出来るからね」

 負傷しているからなのか、普段以上に歯に衣着せぬ物言いで吐き捨てられる。端正な顔立ちに浮かぶ感情は読み取れないが、私の行動を首肯する彼の言葉に含みはないように思えた。
 純粋に、下位の者の生存戦略として私が正しい判断を取ったと思っているらしい。

 下ろした視線の先には、痛々しく開いた傷口がある。
 自然治癒が可能なのか、彼自身が治療を施すのかは不明だが、完治するまで短くない時間を費やさなければならないのだろう。 

 唇を結んだままの私に対し、彼は瞼を伏せて言葉を継いだ。

「使われるモノとしての表情の作り方は満点だよ。……お前の自由を奪う拘束者が負傷していて、逃げ出すという発想が出てもおかしくないこの状況で。何が出来ずとも尽くす姿勢を見せていることは評価しよう」
「────」
「だが、その表情通りの献身をいくら見せたところでお前に出来ることは何もない。……だから、とっととその表情をやめて生き長らえた安堵にでも浸ればいい。それくらいは、許してあげる」

 突き放すように言い切られ、閉口する。
 人間的な尺度で見ればなんてひねくれてるのかと思ったことだろう。しかし、強者による支配が絶対である魔族にとってはむしろそれが普遍的な考え方なのだと、私は魔族として生きた数か月間で理解していた。

 ──それに、彼の言うことは正しい。
 彼が動けなくなったなら、もしくは死んでしまったなら。私はどういう形であれ“自由”になるのだ。
 私が大地に落とされてから、まだそう長い時間は経っていない。が、既に戦いの場には何度も立たされ、何度も負傷し、命の危険に曝されたこともある。

 昔と今、どちらが幸せかと言われればきっと昔の方が幸せで、平穏で。それはこの先も変わらない可能性の方が断然高い。
 そう、わかっている。それが運命なのだと理解している。──だが、

「……腑に落ちない顔をするものだね」
「……!」

 不満げな声を漏らし、彼の手が私の頬に添えられた。
 輪郭をなぞる指先の感触は優しげではあるが、慈しみの感情はそこにない。どちらかというと私の表情を観察し、その内側に潜む真意を引きずり出そうとしている手だった。

 正面から私を射抜く彼の目は、何故そんな顔をするのかと言外に問いかけている。
 私は口を噤んだまま、数秒の逡巡を見せ、

「──わからないです。自分がどうしたいのか」

 やがて喉から絞り出した答えは、自分が思っていたよりも弱々しいものだった。
 胸中を巡る迷いをそのまま押し出した声音を聞き、さらに呆れられてしまうとも思ったが彼が口を挟むことはない。

 少し悩み、頬に添えられた彼の手におそるおそる自分の手を重ねると、冷えた指先には微かな温度が生まれた。熱と言うには程遠い、離せばすぐに消えてしまう淡い温もり。
 ──体のつくりは全く違うけれど、彼がたしかに生きているという感覚。

「ただ──貴方に死んでほしくないと、そう思いました」

 瞠目した彼が得た驚愕は、もっともなものだった。
 自由を奪われた者が、自由を奪う拘束者の無事を祈る。事実だけを客観視したならどうかしていると自分でも思う。

 それは彼も同じだったらしい。
 一拍置いて逸らされた視線には、今度こそはっきりとした呆れが浮かんでいた。

「お前は見た目よりも、中身が狂ってしまっているようだね。──ッ、ぐ、」
「……!!」

 言い終わりに不自然な呼吸が続いたと思えば、再度痛みの波が押し寄せてきたのかギラヒム様は両手で胸を押さえつけ、呻き声を上げた。

 その噛み殺した苦鳴を聞いた刹那、反射的に手を伸ばしかけた私の頭に先程の彼の言葉が過ぎる。私は宙に手を浮かせたまま数瞬迷い、そして、

「ギラヒム様、失礼します」
「は……、」

 名前を呼び、視線が寄越される前に彼の腕を掴んで引っ張る。部下の予想外の行動に彼は抵抗する間もなく引き寄せられ──そのまま彼の頭は、正座した私の膝の上に収まった。いわゆる、膝枕の状態だ。

「ね、ねてた方が、楽だと思って」

 何のつもりだという無言の訴えに返せたのはたどたどしい言い訳だけだったが、ため息を一つ落とし、後は何も言わず身を委ねられた。

 自分でやっておきながら、太腿に乗る重みと感触にそこはかとない緊張感が走って全身が強張る。
 堪え切れず顔ごと目を背けたが、逃げられると追いたくなる性質なのか彼は下からじっと部下の表情を見つめてきた。

「前々から思っていたけれど……お前は他の人間以上に愚かな考えの持ち主なんだろうね。その顔通りの」
「……そんな顔、してます?」
「しているとも。愚かで、間抜けで、目も当てられないほど無鉄砲な考えナシの顔だよ」
「すごい言う……」

 さすがに拗ねたくなってしまうほどの言われようだが、反論をするための心の余裕もない。せめてものの抵抗に口を尖らせてみせたが、嘲るように鼻を鳴らし一蹴された。

 その表情を目だけで一瞥し、私は唇を解く。

「……考えナシは、否定出来ないですけど」

 そこで区切った私の横顔に、再び視線を注がれる。
 ここまでで目にした様々な光景を思い巡らせながら唇を噛み、私は小さく告げた。

「出来れば、貴方が苦しむところはもう、見たくないと思います」
「────」

 その呟きに、返事も反応もない。
 けれど一つの沈黙を生んだ後、不意に伸びてきた大きな手が私の手首を掴み、それは彼の額へと導かれた。

「……ギラヒム様?」
「……ワタシとしたことが、見誤っていたよ。お前のような馬鹿な部下に作り物の表情なんて不可能だったね」

 私の手の甲が彼の額に宛てがわれて、そこに熱が生まれる。
 それきり彼が口を開くことはなくそっぽを向かれたが、私の手は彼の額に押しつけられたままだった。

 そうして、二人の間を満たした静寂はいつしか溶け消えて。
 私は膝上の静かな寝息を聞きながら、傷に苦しむ彼が見せた表情を反芻し続けていた。



「──あの時、剣を振ってたら、」

 穏やかな寝顔を見守りながら、胸に浮かんだ一つの仮定を口にする。

 ──剣を振るったとしても、今の私ではあの亜人に太刀打ち出来ないとわかっていた。
 あの時剣を振っていたとしても、他に控えていた亜人たちにやられていたとわかっていた。
 結果的に二人とも助かったのだから、良かったと思いたかった。

 そんな自己防衛の言葉たちが浮かんでは消えて、縋るように彼の寝顔に視線を移す。が、それは苦しんでいた時の彼の表情と重なって、浮かんだ感情は自己嫌悪と後悔へ姿を変える。

 牽制だけが出来たところで、女神の一族は魔族に対し容赦ない攻勢を仕掛けてくる。
 今回は助かった。でも、次はないと思った方がいい。

「────」

 この熱を失いたくないのなら。彼に安寧を与え続けたいのなら。傷つく瞬間を見たくないというのなら。──生きる意味を果たすためなら。

 次の戦いで、私は──。


 噛み締めた奥歯を離し、私は膝上に乗る白髪を柔らかく撫でた。

 *

 *

 *


「……相変わらず、歩きづらい地面」

 水分を大いに含んだ地面の感触に文句を垂らし、この地で辿った記憶の旅路に終止符を打つ。
 手繰り寄せた三つ目の思い出は、今でも鮮明に思い描けるほど衝撃的で、苦々しいものだった。

 場所はフィローネの森の奥地に広がる湿地帯。
 かつてこの地で戦い、私と主人を窮地に追い遣った魚のような亜人たちは、ここから南東に位置する巨大な湖、フロリア湖に住まう者たちだった。
 他の種族と同様、彼らはこの地に隠された女神の封印を守るために私たちと対峙した訳だが、統治者である水龍の性格に影響されているのかひどく気性の荒い種族だった。

 ──そして、主人が亜人の槍に貫かれ、その痛みに苦しんでいた光景は今でも脳裏に焼き付いている。
 あれから幾度となく彼が負傷する瞬間は目にしてきたが、いつだって慣れることはなかった。その光景を目にする度に自身の無力を嘆き、後悔を重ねてきた。

 だが、最も深い後悔を抱いたのが先程思い出したあの時だったのだろう。
 戒めとなった記憶は、後の私に一つの決意を与えることとなったのだから。

「────」

 私は少し悩み、ここからそう遠くはないもう一つの記憶の地、フロリア湖へと足を向ける。
 思い出すのは辛酸を嘗めさせられたあの亜人たちとの二度目の争いの記憶。
 態勢を立て直し、再び赴いた敵地で私はある覚悟を決めることとなる。


 彼の傍らで戦って、彼の力となるための、
 ──役目を果たすための覚悟を。




サブタイをつけるならば“Stockholm syndrome”です。この主従には恐らく影みたいに引っ付きまわる名前です。
ちなみに出てきた亜人はパラゲ族ではないのでご安心(?)下さい。