Novel
命の限り離さない
エルドさんが恋人のためにお土産を選んでいるのを待っている間、私はぼんやりと道を行き交う人々を眺める。
腕に抱えているのはアルト様から兵長へ渡すようにと言われた青い小箱だった。中身は何か知らない。
優雅に巻かれた白のリボンへ視線を落としていると、目の前を憲兵団が通過する。街の見回りだろう。今の私は戦闘服ではなく街に溶け込んでいるので、調査兵だと彼らに目くじら立てられることもないはずだとぼんやりしていれば、視界の端を綺麗な金髪が横切る。目を向ければ、見覚えのある横顔だった。
「アニ!」
思わず呼びかければ、彼女は振り向いてくれた。私は駆け寄って、その前に立つ。
「あの、覚えてるかな? あなたが訓練兵だった時に炊事実習に行った――」
「リーベさん。覚えてますよ」
「良かった! 久しぶり!」
アニ・レオンハート。
青の瞳が印象的な104期兵士の少女だ。彼女の綺麗な顔立ちはそのままで、身長は私よりほんの少しだけ高いくらいになっていた。
炊事実習で何度か彼女の隣に座っていた時のことを思い出していると、私はアニの胸にある兵団マークに気づいた。
「憲兵団? じゃあ十番内に入ったんだね」
「四番でした」
「四番!」
すごいすごいと連呼する私に、アニは首を振る。
「――私は自分が助かりたいだけですから」
「何言ってるの。アニのおかげで助かった人はたくさんいるでしょ。ほら、トロスト区奪還作戦でも活躍したって話を聞いたんだから」
「いえ……」
その時、アニは何かに気付いたようにわずかに顔つきを変えた。
「大丈夫ですか。少し、顔色がよくありませんが」
「え?」
ぺたりと自分の頬に触れてみる。もちろんそれだけじゃわからない。
「そうかな?」
「はい。――憲兵団の本部で良ければ休まれますか?」
「ううん、ありがとう。平気だよ。アニと会えて元気が出たから」
思わず彼女の白い手をぎゅっと握って、そこで私は少し離れた場所からこちらの様子をうかがう前髪を切りそろえた黒髪の青年に気づく。彼も憲兵団だとすぐにわかった。
仕事の邪魔をしてはいけないと即座に判断して、
「いきなり呼び止めてごめんね。私のことは道を聞かれて捕まっていた、ってことにしておいて。――じゃあ、またね」
小さく手を振り、私はアニから離れた。
そうして元いた場所へ戻れば、エルドさんがきょろきょろと首を回していた。
「どこへ消えたかと思ったぞ」
「ごめんなさい、懐かしい人がいて」
「無事ならいい。ーーこれをリーベに」
「私?」
見れば、手に置かれたのは綺麗なお菓子の包みだった。小さな飴玉が詰まっている。
「わあ……!」
「今日頑張ったご褒美だ」
綺麗な青の包みは何かに似ていて、すぐに気づいた。アニの綺麗な瞳の色と同じだった。
本部にいるエルヴィン団長にアルト様からの返事を報告し、私たちは旧本部へ戻った。その頃はもうすっかり夜更けだった。食事は本部で済まして来たので、今日はもう休むだけだ。
「戻ったことは私が報告しておきます。エルドさんは休んで下さい」
「悪いな。頼むよ」
エルドさんと別れ、私は兵長の部屋の扉をノックしたが返事はなかった。気配もしないのでどうやら無人らしいとわかる。どこへ行ったのだろうか。
仕方ないので後でまた来よう。そう思い、本部から取ってきたばかりの衣服を手にそのまま浴室(旧本部にも複数あったので、せっかくだし男女で分けて使用している)へ向かうことにした。
途中でエレンに会った。彼はすでにお風呂上りのようで、さっぱりとした様子だ。
「お帰りなさい、リーベさん」
「ただいま、エレン」
嬉しげに近づいて来てくれた少年を私は仰ぐ。
「お土産のおいしいパン、買って置いてあるから食べてね」
「はい、ありがとうございますっ」
「ところで今日はどうだった?」
「何事もありませんでしたよ。――ああ、でも、兵長が……」
そこでエレンは少し考える素振りをした。
「いつもと少し、違ったような」
「兵長が?」
「はい、うまくは言えないんですけれど」
「ふうん?」
疑問に思いながらも地下へ向かうエレンと別れ、私は浴室で身を清めて夜着に袖を通した。
「そういえばエレンにアニのこと話せば良かったな」
そして改めて兵長の部屋へ行く前に自室へ荷物を置きに戻ることにして、違和感に気付く。
「あれ?」
扉の隙間から灯りが漏れているのだ。無人のはずなのに一体誰がいるのだろうと扉を開ければ、
「遅い」
兵長だった。どこにいるのかと思えばここにいた。兵服ではなく、もういつでも休めるような服装だ。
そして機嫌が悪そうだった。エレンが言っていたのはこのことだろうか。
「兵長? どうされました?」
「別に」
理由もないのに私の部屋にいる理由がわからない。
首を傾げていると、椅子から立ち上がった兵長に強く腕を引かれて部屋に入れられる。
扉が閉まった。
「下にお土産ありますよ、おいしいパンが売っていて――」
「お前が」
「え」
「戻って来ただけで良い」
荷物を置いて部屋を出ようとすれば、そのまま後ろから抱きしめられる。ぎゅっと腕に力を込められたかと思うと、髪に顔を埋められるのがわかった。
戻るに決まっているでしょうと言いかけて、今日の出来事が頭を過ぎる。
過去の闇から突きつけられた――逃れようもない現実を。
「……兵長」
「何だ」
「私が、例えば……兵長の部屋の掃除を出来なくなったらどうしますか?」
「……何を言ってやがる」
私が死んだらどうしますかなんて聞けるはずがなく、そう訊ねたら案の定訝しげな反応だった。
「いや、あの……と、とにかく答えて下さい」
「……自分で掃除する」
「洗濯も?」
「だろうな。基本的には」
「それなら」
私は言った。
「私がいなくなっても、問題は――ぐあっ」
問題はありませんねと続けようとした次の瞬間、私の身体は兵長に抱き潰されて、奇妙な声が漏れた。
力の入り具合がこれまでの比ではない。人類最強を相手に内臓が悲鳴を上げている。
目を白黒させていると、耳元で低い声。
「何があった。いや――あの男に何を言われた」
「兵長、くるし……!」
「どうせまた屋敷に戻って来いだの下らねえこと聞いただろ。あのクソ野郎、次に会ったらただじゃ置かねえ」
兵長は勘違いしている。原因はアルト様ではない。彼に屋敷へ呼ばれたことは無関係ではないけれど、そうではなくて、しかし呼吸困難に陥る私には訂正する余地がなかった。
「う、うぅ……」
「いいか、よく聞け」
兵長は力を緩めることなく囁く。
「相手が誰だろうと関係ない。たとえ人類すべての奴らが、お前を内地だの壁外だの……どこか遠くへ連れて行こうとしても――俺はお前を離さない」
呼吸が止まってしまうかと思った。
それは今、強く兵長に抱きしめられていることとはまた違った意味で。
触れることの出来ないくらい深くにある胸の奥底が苦しくて――思わず息が震えた。
そんなことを言ってもらえる資格なんて、私にないのに。
「へい、ちょ……」
力なく彼を呼んで、ようやく腕の力が緩んだ。まともに呼吸が出来るようになって足元が少しふらつけば、軽々とベッドへ乗せられる。靴は簡単に払われて脱がされた。
そして次の瞬間には部屋が暗くなる。兵長が灯りを消したのかと思っていると、暗闇の中でぎしりとベッドが揺れた。身を固くすれば、
「俺だ」
「わ、わかってますよ。じゃなくて、あの」
「何もしねえ。――今は黙って抱かれろ」
今度は正面からぎゅっとまた抱きしめられる。このまま眠れということらしい。
「兵長……?」
そう呼べば、腕に力が込められる。さっきよりは緩いものだけれど、それでも少し息苦しい。
どうしたんだろう、いつもの兵長と違う。どこか余裕がないみたいだった。
「兵長……苦しい、です」
「……それはお前だけじゃねえ」
「だったら、離して」
「言ったはずだ。――離さない」
あれは言葉の綾でしょうと私は言いかけて、相手が誰でも関係ないと口にした兵長の言葉を思い出す。
「それが、私自身の……意思でも……?」
こぼれた言葉で、兵長の腕がわずかに強張ったような気がした。
「どこへ行くつもりだ」
「……どこにも」
少なくとも、今は。
「だったら、そばにいろ」
離れるな、と願うような声だった。
(2013/11/15)