Novel
個人間の効用比較の不可能性

 誰かと同じ床に就くのはたとえ同性でも苦手だった。果たして眠れるだろうかと考えたものの、杞憂に終わる。兵長から伝わるぬくもりで徐々に意識がほぐれたのか、いつしか深く寝入っていたらしい。

 そして、朝。

 頬にやわからかなものがそっと触れたような、そんな気がした。

「ん……」

 そこからゆるゆると意識が浮上して、やがてゆっくりと目を覚ました時、部屋にはもう誰もいなかった。




 時間を確認すればまだ早朝だ。朝食前に身体を動かそうと身支度を整えて外へ出ると、馬舎でオルオさんと会った。

「おう、リーベか」
「おはようございます。どこかへ行かれるんですか?」
「悪い夢見ちまってな。ちょっと馬で走って来る」
「お気をつけて。前は派手に舌噛んでましたね。そっちの方も気をつけてください」
「ひとりでべらべら話すか!」

 私が笑っていると、オルオさんが私の首元を注視した。
 それからなぜか顔を赤くしたかと思うと、巻いていたスカーフをいくらか乱暴に取ってしまった。そしてそのスカーフを私の首に慌てた様子で巻く。
 突然のことに私はもちろん驚いて、

「ちょ、オルオさんっ? う、苦しい……!」
「うるせえっ、黙ってやがれ!」

 一体何事だ。オルオさんの迫力に負けて、私はされるがままになるしかなかった。
 昨日から窒息の危機にばかり見舞われているなあと思いながら訊ねる。

「あの、どうされました? これは、一体――」
「いいから巻いとけ! 貸してやるから外すなよ、絶対!」

 そして顔を赤くしたまま、オルオさんは捨て台詞のように言った。

「兵士でもお前は女なんだからな! 自分を大事にしろバカヤロー!」
「は、はいっ」

 わけがわからないままに頷けば、オルオさんはさっさと馬に乗って行ってしまった。

「ええと……」

 私は首に巻かれたスカーフへ視線を落とす。
 どうしたものかと思ったが、オルオさんのよくわからない好意でも無下にすることは憚られる。

 困りながら自主訓練を手短に終えて自分の部屋へ戻れば、途中でぺトラに会った。

「リーベ、おはよ」
「おはよ、ぺトラ」
「……それ、何」

 不審なものを見るような視線の先にあるのはもちろん先ほどオルオさんによって巻かれたスカーフだ。
 その経緯を話すと、ペトラは訝しげな顔をする。

「変なやつね。……ちょっと外してみていい?」
「いいよ」

 しゅるりと外されるスカーフ。
 首元が楽になったと思っていると、ぺトラの動きが止まった。

「……ああ、わかった。鏡をちゃんと見たらリーベも自分でわかると思うわ」
「そう?」

 何だろうと言われた通りにペトラの部屋を借り、中にある鏡に映してみる。
 改めてよく見れば、シャツから覗く鎖骨や首元あたりに赤いものがいくつも散っていた。

「虫さされ? 別にかゆくないけど」
「キスマークでしょ」
「…………あ」

 我ながら気づくのが遅い。
 さっきのオルオさんみたいに鏡の中にいる自分の顔が赤くなる。 

「消去法で相手はわかるけど、うん」

 ペトラの言葉に記憶を巻き戻して、私も犯人がわかった。昨夜はこんなものがなかったんだから。

 兵長だ!
 いつの間に!
 何もしないって言ったのに!
 全然気づかなかった私も私だけれども!

 胸の内で言葉を暴走させながらも、口に出しては何も言うことが出来なかった。

 赤くなった顔で立ち尽くす私に、やれやれとペトラは肌色の化粧クリームを小さな瓶ごと渡してくれた。今は無垢な少年も一緒にいるんだからしばらくは塗りなさいと一言添えて。

 大人しく鏡を見ながらぺたぺたとクリームを肌に馴染ませて塗って痕を隠していると、誰かに手紙を書き始めたペトラが言った。

「ちゃんと付き合ってたんだ? ずっと両片想いだと思っていたんだけど」
「ううん、違う。……私がはっきりしてないの」
「ふうん? じゃあしっかりはっきりしなさいよ」

 その言葉を聞いて、ずんと胸が重くなる。同時に手が止まってしまった。

「それは……」

 いつか、私の想いも兵長に伝えたいと思っていた。

 あなたが何より大切で、誰より必要なこと。
 あなたのことが――私も欲しいということ。

 でも――。

「ねえ、ペトラ」
「何?」
「約束したことを守れなくなったら、どうすればいいのかな」

 私の言葉に、ペンの動きを止めたペトラが首を傾げる。

「そんなの、考えなくてもいいんじゃないかしら」

 今度は私が首を捻る。

「どうして?」
「守るとか守れないとか、それ以前に――どんな約束だって、果たされるかどうかは誰も保証出来ないものでしょ。ただでさえ明日も知れない身の上だし。特に兵士は」
「…………」

 ペトラの言いたいことはわかった。

 確かに、この先の未来がいつどうなるのかなんて誰にもわからない。わかる方がおかしい。例えば死はこちらの意思なんてお構いなしに近づいたり遠のいたり、今までもずっとそうだった。当たり前のことだ。
 だから『守れない』という断定ではなくて『守れないかもしれない』の方が近く、正しい。『守る』と決めても『守れないかもしれない』ように。

 それが、約束というものだ。

「だから後ろ向きに考えても仕方ないし、リーベはリーベで力を尽せばいいだけじゃない? 相手もそれくらいわかってると思うし」

 不確定で不安定で曖昧で――それでも人は誰かと約束を交わす。
 未来のために、希望のために、心を通わせた、誓いを。

「う、ん……」
「何よ。まだ冴えない顔ね」
「そもそも私が――約束をしても良かったのかな、って……だって私は……」
「聞かせてもらうけど、リーベはその約束を守りたくないの?」
「そうじゃない、違うよ。私だって守りたい……!」

 私が強くそう言えば、ペトラは綺麗で優しい笑みを見せてくれた。

「だったらそうなれるように、出来ると強く思わなきゃ。最初から諦めたら守れるものも守れないじゃない」
「それは……」

 ああ、本当だ。
 十二歳だった冬の夜も。巨人に補食されかけた時も。
 命を懸けて、諦めなかったから――私は私を守れたのに。

『お前にそんなことが出来ると思うか?』

 思い出せ。
 あの男が決めつけた『出来ない』はずのことを、あの時の私は『出来た』。

「…………」

 今度も、出来る。

 私はそんな風に考えるべきで――諦めようと思うべきではないのだ。
 胸がいっぱいになるくらいに幸福な約束を後悔すべきではないのだ。

 ふと、指先で胸元にある痕へそっと触れた。それ自身が熱を持っているように、熱かった。

「……そっか」
「そうよ」
「うん」

 兵長の話した未来を、私も心の奥底から望んでいるのなら。
 私の心すべてを、あんなにも慈しんでくれる人がいるのなら。

「…………よし」

 深呼吸をして、私は鏡の中にいる自分と向き合う。

 自由も、約束も――たとえ矛盾があっても、守りたい意志はどうしようもないほどに存在している。
 それは『守れないかもしれない』けれど『守れない』と思う必要はないのだから――やはりこの想いは大切にしていよう。

 それでいい。少なくとも、今は。

 そうして私は肌へクリームを塗る作業を再開する。

 ところで――。

「多い……」

 キスマークつけすぎです、兵長。




 胸元に散った痕をどうにか全て隠し終えた頃、ペトラが満足気に声を上げた。

「出来た。後は送るだけ、と」
「誰への手紙?」
「父親よ。連絡しろってうるさくて。リーベはこういうの書かないんだ?」
「私、みなしごだし。――ところでペトラ、そこに置いてあるスカートはどうしたの」

 私が示したスカートを見て、ペトラは顔をしかめた。

「あー、これね。裾引っ掛けて破いちゃった。気に入ってたのに」
「ふうん……」

 縫い合わせてはいたが、破れた跡が消せていない。これでは着られないと判断したのだろう。
 私はベッドへ投げ捨てられていたスカートを拾い上げて、

「花の刺繍」
「え?」
「破れた跡をうまく隠して、全体的にぐるっと花の刺繍を散りばめるの。ペトラに似合うと思うな。……良ければ私、やらせてもらうけれど」

 裁縫も使用人には必要な技術だった。あまり取り組む時間がないだけで、私は針を持つのも好きなのだ。

「いいの?」
「もちろん。――わっ」

 頷けば、ペトラに飛びつかれた。

「すごく素敵! ありがとうリーベ!」

 こんなに喜んでもらえるとは思わなかったので、まごつきながら背中を抱きしめ返すと、

「リーベ」
「何?」

 ペトラが言った。

「約束だからね」
「――うん」

 未来のために、希望のために、約束を。

 またひとつ重ねて。

 強く、私は頷くことが出来たのだった。


(2013/11/27)
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