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フィンスターニスから声がする
「似合う似合う。これでばっちり」
後ろに流した髪をペトラが綺麗に整えてくれた。
「悪くない」
オルオさんが私とエルドさんを眺めながらにやりと笑った。
「エルド! リーベをちゃんと守るんだぞ」
強い口調でグンタさんが言った。
「お二人とも、お気をつけて!」
エレンが力一杯手を振って見送ってくれた。
「…………」
兵長は――何も、言ってくれなかった。
この日、私はエルドさんとストヘス区にやって来た。
次の壁外調査のための資金がかなり必要らしく、その交渉をエルヴィン団長に頼まれたのだ。
幹部クラスの仕事をなぜ一兵士でしかない私に任されたのかと言えば、出資者の一角であるゲデヒトニス家――当主のアルト様が私と顔見知りであるためだった。
ゲデヒトニス家はかつて私が使用人見習いとして仕えていた家だ。
「最初は兵長と行く予定だったんだろう?」
きっちりとした服装に身を包んだエルドさんが言った。ちなみに私はシンプルなフォーマルワンピースだ。貴族の家へ行く訪問着としてハンジ分隊長が用意してくれた。
「ええ、でもよく考えたら今はエレンの監視で基本的に離れられませんから。それでエルドさんを指名したと思います」
「あとは俺に恋人がいるからだな」
「内地で恋人にお土産を買ってやれってことですね。兵長ってばお優しい」
「……どうかな」
曖昧に笑うエルドさんに私は訊ねた。
「恋人さんはどんなお方ですか?」
「髪が長くて、少し儚い感じだな。綺麗な人だよ」
「美男美女ですねえ」
華やかな想像を巡らせていると、貴族の家々が並ぶ通りに着く。
「ところで今から行くゲデヒトニス家なんですけれど」
「ああ、その家がどうした」
「実は以前こんなことがありまして……」
当主であるアルト様には、私と兵長が恋人同士だという嘘を本当だと思わせていることを説明しておいた。
それを聞いて目を丸くするエルドさん。
「リーベは兵長と付き合っているんじゃないのか」
「何を言っているんですか、エルドさん。私なんかが――ひゃっ」
ぺち、とエルドさんの指が私の額を弾いた。痛くはないが、私は驚いて目を見開く。
「こら。自分を卑下することはやめるべきだ。お前は立派な兵士で、可愛い女の子なんだからな」
「エルドさん……」
私はうつむき、頭を下げる。
「ごめんなさい」
「よろしい」
私たちは笑い合って、目的地に到着した。
連なる家々に恥じぬ、立派な門構え――私はゲデヒトニス家の前に立つ。
「…………」
案外、平気だった。
昔を思い出してもっと心が乱されるかと思ったけれど、そうでもなかった。
きっと、今の私にはちゃんと居るべき場所があるからだろう。
調査兵団という組織、そして兵長の傍ら。
「ここから先はリーベ・ファルケ様のみとさせて頂きます」
アルト様のいる部屋へ通される直前。そう言ったのは、若い執事の男性だった。
ちなみに私の知らない人である。私が去った後に仕え始めたのだろう。
彼の言葉にエルドさんは厳しい顔つきになる。
「……話が違う。我々は二人で当主に会えるよう手配したはずだ」
「こちらの要望に従って頂けぬのでしたらお帰り下さい」
「エルドさん、私は大丈夫です」
「リーベ……」
わずかな時間で、エルドさんは決断した。そして小声で私に告げる。
「少しでも異常を感じたり、不自然に長くなれば、俺は問答無用で扉を蹴破ってお前を連れて帰る。いいな?」
心配しすぎだと思ったけれど、有難い。私は頷いて、ひとり扉をくぐった。
「やあリーベ、久しぶりだね」
「お久しぶりです、アルト様」
流れるような金髪に、貴族的な顔立ち。アルト・ゲデヒトニス様――色々なことがあったけれど、私の恩人のひとりであることには変わらない。
「巨人化するという少年が調査兵団に入ったそうじゃないか。そんな恐ろしい話を聞く度に君のことが心配でたまらなかった……」
切なげに眉を寄せるアルト様にエスコートされ、よく手入れされた庭を歩くことになった。瑞々しい緑が眩しい。
「リーベが大切にされていることはわかるよ」
「え?」
「出資の関係で兵団本部へ行っても毎回、君に会わせてもらえなかった。リヴァイ兵士長に断られてね」
「え!」
そんなことは初耳だ。
驚いていると、アルト様は柔らかく微笑んだ。
「君は愛されている。もちろん、そうされるべき女性だから。そして――そんな君をここへ来させなければならないほど、人類と巨人の戦いは重大な局面へ向かおうとしていると推測できるよ」
あまりにずばりな考えに私がまた驚いていると、アルト様は穏やかな口調で続ける。
「だから出資のことは気にしなくても良い。協力させてもらうよ。僕はリーベと会うことを条件に示しただけだからね。――せっかく君が来てくれたんだ、もう少し話をしても良いだろうか」
「アルト様……」
私たちは鮮やかに咲く花々の中を歩く。とても、美しい。記憶の中にあったものよりも、ずっと。
「懐かしい。あの東屋で文字を教えて下さいましたね」
「覚えているかい?」
「もちろんです。舞踏会のワルツステップだって忘れてません」
笑ってそう答えれば、ふとアルト様が顔つきを変えて、
「そういえば君は知っているのかな、リヴァイ兵士長の過去について。少し気になる話を聞いたけれど」
「聞いているのは有名な噂くらいですね。でも、知らなくても構いません。――私だって話していないことはありますし」
考えながら言葉を選び、紡ぐ。
「お互いに知らないこともあります。分かり合えないことも恐らくあるでしょう。――対立することだってあるかもしれません」
未来は、わからない。
「でも、それで構いません」
ただ、ずっとそばにいられたら。
それで充分だ。
『お前にそんなことが出来ると思うか?』
前触れもなく、突如として脳内に響いた声にはっとした。
誰だと戸惑っていると、視線が吸い寄せられる。
ゲデヒトニス家の屋敷の二階、隅にある小さな部屋の窓――かつて私がいた部屋だ。
小さく、そして暗い部屋。
そうだ、今の声は。
あの冬の日の夜に聞いた声だった。
同時に――思い出す。
自分が、どんな人間なのか。
ああ、そうだった。
私は今まで自分の命を対価にして相手と渡り合うことで、ここまで生き残れた。
例えばそれは十二歳の夜や、巨人に捕食されかけた時とか。
その命を守ろうとすれば、きっと弱くなるだろう。
死ぬのは嫌だ。
でも――死よりも恐れるものがある限り、私は死に甘んじるべき人間だ。
『約束をしよう、リーベ』
『やく、そく?』
『巨人を絶滅させ、壁の外を自由に見に行くことだ。――だからそれまで、死ぬんじゃねえぞ』
兵長との約束、嬉しかった。泣きたいくらいに。
『リーベ、返事は?』
『――はい、喜んで』
だから頷いてしまった。ただ当たり前に生きていける人間のように。
そんな生き方は出来ないのに。
黙り込んでいると、アルト様の声がした。
「リーベ?」
「……あ、いえ。何でもありません」
私の表情に何を見たのか、アルト様が顔つきを厳しいものへ変えた。
「君に、ひとつだけ頼みがある」
そして片足をついて、私の前にひざまずく。
戸惑っていると、さらにそっと私の手を取った。
「お願いだ。どうか、死なないでくれ」
まるで心の内を読まれたようで目を丸くすれば、
「たとえ今後何があったとしても、自分自身が生きることを一番に考えていてほしい」
「アルト様……」
真摯な言葉は心からのものだとわかって、強く胸が打たれた。
でも、もう頷くことは出来なかった。
心臓を捧げた兵士――いや、身勝手な人間として。
私は私の命を守れない。
何を犠牲にしても守りたいものがある限り。
私の自由を――。
ああ、兵長。私の、自由そのもの。
あなたのために死ぬことは出来ても、あなたのために生きることは出来ない。
だから――
『約束をしよう、リーベ』
「ごめんなさい」
約束は、守れない。
フィンスターニス…暗闇、暗黒
(2013/11/03)
(2013/11/03)