Novel
地獄の底で逢い見えて

『わたしのすべてを忘れてもかまわない
 あなたにあふれる愛だけは憶えていて
 わたしはそれを抱いて生きていくから』

 落ちる。落ちていく。
 ゆっくり、ゆっくりと。
 違う。落ちているのではなくて――沈んでいる。

 どこへ?

 記憶の海を。

 海? 海って、何だっけ。

 私は知らない。でも、知ってる。

 禁書で、或いは記憶の底で知ったから。

『彼女』は海を越えて、この土地へ来たから。




 目の前に、鏡があった。『私』がいる。

 でも、おかしい。今の私は昔みたいに髪を伸ばしていないのに。どうして目の前の『私』は髪が長いんだろう。

『私』がこちらへ腕を伸ばしたかと思うと、私の頬を両手で包んだ。

「ふふふ、あたしに似て可愛いわね!」

『私』は私じゃなかった。つまり、この人は――

「ここは……天国……?」

 私の言葉に彼女は声をあげて笑った。そこまで笑う必要がないと思うくらいに笑った。

「面白いこと言うわね、自分が天国に行けると思うの?」
「…………」

 そんなことは思ってないけれど。

 彼女はにこやかに続けた。

「ここは単なる死後の世界の始まりの一つ――つまり地獄みたいなものね。あなたが正しいとか間違ってないとかは関係なく、やっちゃったことはやっちゃったことなんだし色々と報いは受けないと」

 ああ、そうか。例えば私はたくさん人を殺した。

『お前が殺せるのは――お前を殺そうとするヤツだけだろうが!』

 ケニーが言った通り、私を殺そうとした人や巨人を、たくさん。

 そうすべきだったことであっても、報いを受ける。それは平等な裁きだと思う。

「…………」

 それはそれとして。

「あなたは……」

 すると彼女は何度か瞬きして、

「あら、名乗るべき? あたしたち別に『初めまして』じゃないのよ? ほら、あなたが訓練兵だったかの時にお酒を飲んで死にかけた時もこっちに来たじゃない?」

 そうだった。『精神の限界は計り知れなくても身体の限界は知っておくべき』という教官の方針で、兵士らしからぬ訓練や鍛錬も多かった。まだウォール・マリアが破壊される前の頃だったから自由が利いたんだと思う。お酒を飲むこともそうだった。後から教官に聞いた話だけれど、私はあの時、死にかけたらしい。
 だからあれ以来お酒は飲まないようにしていた。ゲルガーさんにどれだけ勧められても絶対に。

「……覚えて、ない」
「あっそ。ま、あの時は話も出来なかったけどね」

 彼女はどうでもいいことのように言ってから、ひらひらと手を振って続ける。

「今も特に話すことはないし、さっさと戻ったら?」

 その言葉を理解するのに、時間がかかった。でも、結局首を傾げることしか出来ない。

「でも……私はもう、死んだから……」
「は?」

 すると、睨まれた。ものすごく。

 そして、

「そんなの、ずるーい!」

 かなりの声量で叫ばれた。

「最期の時は話したいことを伝えた上で愛する人に看取られて? 満足に人生の幕を閉じました? そんな最期はずるい、許せないわ、許さない。この世界でどれだけの人間が凄惨で唐突でどうしようもない絶望と計り知れない恐怖に後悔と哀しみと痛みと辛さを抱えて死んでいるか知らないの? 知っているでしょう? あなたの仲間たちがそうだったんだから。そんな中で、あなただけが満足して死ぬなんて、他の誰が許してもあたしは許せない。神様も悪魔も許してもあたしは許してあげない。満足に死なせてあげるもんですか! あなたの死を、あたしは否定する!」
「そう言われても……あの……」
「あなたがここに来ていいのは、どうしようもなく酷く惨めに死んだ時よ、さあ、帰った帰った」

 追い払うように手を振られても困る。

「で、でも、そんなの、どうやって……」

 すると彼女は自分の頭を示して、

「あたしはあたしを殺したわ、だから叡智の力はここにある」
「エレンのお父さんに殺されたんじゃ……」
「いくらあたしのエレンの跡を継いでカルラの旦那だからってあんな男に殺されてやるもんですか。自分で喉を掻っ切ってやったわよ」

 誇らしげに胸を張った。そして続ける。

「だから『わかる』わ。あなたがどうすればここから離れられるのか。あたしは全能ではないけれど、全知の力が今はある。だから『わかる』。そしてこの程度なら特別な力なんていらない。――こうすればいいのよ!」

 ぱちんと彼女が指を鳴らした、その瞬間――

「え……!?」

 私の身体が崩れ始める。ほつれていくような感覚だった。足先から、少しずつ。すぐに足首までなくなった。

「何をしたの……!?」
「今はあなたの肉体と魂が離れてしまっている状態だから、それを繋ぎ直したの。肉体がもう器として機能していなければ流石に不可能だったけど、無事みたい」

 理解が追い付かないけれど、つまり――

「……私、死んでなかった?」
「死んだわよ? 肉体だけが生き続けるなんて屍と変わらない」

 そうしているうちに膝まで消えた。怖い。これからどうなるのか。

 でも、もう、目の前にいるこの人と話せなくなるのはわかる。それなら、聞きたいことがたくさんある。

「《預言の巫女》の血筋は何? 全知の力ってどういうこと?」
「訊けば何でも教えてもらえるなんて大間違いだからね。あなたも殺されるか自分で死んだらわかるわよ」
「どうすればエルディアが世界に生き続けることが出来るの?」
「そんなこと知りたいの? エルディア人でもないのに――あ、ウーリがエルディア人だからあなたの半分はエルディア人だものねえ。そっかそっか、なるほど。――ま、教えてあげないけどね?」

 何を訊いても何も教えてもらえなかった。

 挫けそうになった時、

「――でも、そうね。ひとつだけ、あたしから教えてあげたいことがあったわ」

 手を伸ばされたかと思うと、そのまま頬を撫でるように包まれた。

 私と似ているけれど、似ていない彼女の手は白くて、柔らかくて、ひんやりとしていた。

「泣いてもいいのよ」

 優しい声で、私を安心させるように彼女は言った。

「あなたは泣いてもいいの。泣くことに意味がなくても、何も変わらなくても、誰にも顧みられなくても――泣きたければ、泣けばいい」

 心の奥底へ溶け込んでいくような響きだった。

「……意味がないのに、何も変わらないのに、誰にも顧みてもらえないのに、どうして?」
「あなたの涙には意味があるかもしれないし、何か変わるかもしれないし――誰かが気づいて振り返ってくれるかもしれないからよ。何度だって、泣けばいいじゃない」

 彼女は笑う。私には出来ない表情で。

「あなたは単に信じることを怖がってるだけ。『助けて』って、いくらでも叫べば良かったの」
「……それで助けられるなんて、大間違いなのに」
「一回助けてもらえなかったからって、二度と助けてもらえないと思う方が大間違いよ」

 困ったような声だった。まるで聞き分けのない子供に言い聞かせるような。

「でも私、もう子供じゃない。……そんなこと、出来ない」
「あなたはずっと、あたしの子供よ。だから、泣きたければ泣けばいいの」

 だって、と彼女は続ける。

「あなたを助けたいと思ってる『誰か』はいるんだから、少しは信じてあげたら? 一人でどうこうしようとするのやめた方がいいわよ。あなたは強がってるだけでそこまで強くないし、出来ないことも多いし」

 不思議だった。わけがわからなかった。今、何を言われているのか。
 だって――

「……どうして、そんな風に言うの? あなたにとって、私は――」
「あたしを理解出来ると思わない方がいいわ。あなたとは生まれた場所も育った環境も違うんだから。……ああ、そっか。あなたは理解したいんじゃなくて納得したいのね」

 彼女は何度か頷いてから、小さく笑う。

「あたしはケニーを想ってあなたを産んだ。だからケニーにあなたが殺されて欲しいのと同じくらい――あなたが生まれて嬉しかった、ずっと」

 あなたはあたしの『愛する心』、と私の頬をなぞる。

「そして、ケニーはあなたを殺さなかった。こうなると――あなたのすべてはあなたのものよ。さっきあたしが伝えたことを忘れずに、好きに生きなさい」

 身体のほとんどが消える中、私は叫ぶ。

「母様……!」

 初めて呼びかけた声は少しおかしな発音になってしまって、そのせいか彼女は笑った。

 その笑顔を最後に、何もかもが真っ白になった。光に包まれたような感覚で、何もわからなくなる。




「……………………」

 瞼が、重い。身体も、石になったみたいだった。

 ぼんやりしていると小気味好い咀嚼音に気づく。すぐ隣から。顔を向けようとしたら、その動作すら億劫でままならない。油の切れた機械になったような気分で、ゆっくり首を横へ向ける。

 サシャだ。頭に包帯を巻いている。怪我したのかな。でも元気そう。窓の外を眺めながら林檎を手に齧っている。私も食べたい。

「おなか、すいた……」

 自分でも聞き取りづらい、掠れた声だった。でも、それ以上は声にならない。何とか喉に意識を集中していると、サシャがこっちを見た。

「…………」

 サシャが手にしていた林檎がぽろりと膝に落ちる。それをすぐ拾わないなんて、この子らしくない。どうしたのかな。ものすごく驚いている。目をこれでもかと見開いていた。そして大きく口を開けて、

「………………リーベさんが起きたああああああああああ!」

 とんでもない声量だった。おかげでぼんやりしていた頭がやっと少し鮮明になる。

 どこからか複数の足音が近づいて来る。ものすごく、急いでいることがよくわかる。

 その時になって、理解した。

 私はあの地獄の底から、地上まで戻って来たんだと。




「良かったのか」
「あら? もうウーリとのお話は終わったの? 積もる話もあったでしょうに」
「いつまで経っても終わる気がしねえから、気分転換にろくでもねえ女と話がしたくなったんだ」
「……ごめんなさいね」
「あ? 何がだよ」
「あたし、あなたに何も遺してあげられなかった」
「何言ってやがる。お前に何かしてくれって頼んだ覚えはねえよ」
「……あたしがそうしたかったのよ」
「お前は『とっておき』を遺したじゃねえか」
「どうしてあの子を殺さなかったの」
「わからねえか?」
「そうね、あなたがあたしの想いを受け取ってくれなかったことくらいしか」
「怒ってんのか?」
「自分でもよくわからないのよね、この気持ちが」
「…………」
「あたしはあなたに、どうして欲しかったのかしら」
「愛してる」
「…………」
「そう、言われたかっただけだろ」
「……言ってくれる?」
「言っただろ、たった今」


(2017/08/09)
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