Novel
ただ一言あなたへ伝えたい
煙弾を空へ打つ音がした。
「待ってろ、医療班が直に来る」
信じられない。今、兵長の腕の中にいるなんて。
力の入らない身体で必死にすがると遠ざかっていた痛みが全身に走った。激痛でまともに呼吸が出来なくなったけれど構わない。だってこれが夢じゃないとわかるから。
もう悲しくない
もう寂しくない。
あなたがいてくれるから。
「兵、長……」
自分の声がかすれていて、喉が悲鳴を上げている。それでも伝えずにはいられなかった。
「わたし、を――」
殺して欲しい、と途切れ途切れになりながらやっと口にすれば、
「耐えろ、気弱になるな」
一蹴された。当然だと思う。介錯を頼まれたんだと考えるのが普通だ。
「でも、もう……」
「ふざけるなよ」
「そうじゃ、なくて……」
顔をしかめる兵長に、私は首を振る。
違う。苦しいからこんなことを頼んでいるんじゃない。
目の前が暗くなって、思わず目を閉じた。
どうしよう。どうしよう。
説明する時間がない。そもそも私だって理解しきれていないことを納得してもらえるまで話せない。
「お前を生かす。死なせてやらねえからな」
兵長がベルトで止血して、長銃を分解して添え木代わりに私の足へ固定する。休む間もなく、応急処置が施されていく。
私を、生かすために。
私は生き続けても、意味がないのに。
「…………」
わかっていた。
わかっていた。
この人が、私を殺してくれないことなんて。
この人が尊いと思ってくれた私は、もうとっくの昔にいなくなっているのに。
だから、生き続けても意味のない私は――意味もなく、死ぬしかない。
「…………」
でも、そのことに対して嘆きも哀しみもない。後悔は数え切れないけれど、この人と最期を過ごせることに感謝したい。
そんな気持ちでいられることは幸福なことだと思う。
それはこれから死ぬことだけじゃなく、これまで生きた時間についてもそう思う。
「……兵長」
意味がなくても、あなたと一緒にいられて嬉しかった。
意味がなくても、あなたと一緒にいられて楽しかった。
意味がなくても、あなたと一緒にいられて幸せだった。
だから、生まれて、生きられて、良かったと思う。
「ぐ、っ……げほっ」
大量に吐血して、悟る。
もう時間がない。私に残された、時間が。
話さなきゃならないのに。この世界のこと、巨人とは異なる敵のこと、レイス家の正体について、他にもたくさん伝えなきゃならないのに。
「…………」
ごめんなさい。ごめんなさい。
結局自分のことしか考えていない、こんなどうしようもない人間は兵士失格だとわかっている。今まで散った仲間たち皆に顔向け出来ない。
だけど、それでも。
私が伝えなくても、この人なら間違いなく世界の真実にたどり着ける。それがわかるから。
だから、どうか、どうしようもない私でいさせてほしい。
『せっかく俺が殺してやらねえんだから誰にも殺されるな。お前は生きてこの世界をひっくり返せ』
ケニーも、ごめんね。せっかく殺さずにいてくれたのに、私にはそんな大それたことが出来なくて。生き続けることも出来なくて。ただ、死ぬことしか出来なくて。
いつか、こうした選択を後悔するかもしれない。
でも、もう、後悔する時間も残されていないから。
それなら、こうしたい。
私なんかを好きになってくれた、この人のために、生きること。
最後の最後くらい、そうしたい。
最期に、この人へしてあげられることは何だろう。
「……っ」
応急処置を続ける手は止まることがない。キリがないからだ。私の身体はぼろぼろで、兵長が顔を歪めるのがわかった。
「……前に言った通りだな。やっぱり俺は、お前を――」
「そんなこと、ありませんよ」
隠れ家で吐露していた、この人の言葉を否定する。
私の心をいつも大切にしてくれていた。
私の自由をずっと、守ってくれていた。
だから、
「もう、充分、です」
その上で私が聞きたいことは、ただ一つ。
「どう、して……」
苦しくなる呼吸の中で言葉を紡ぐ。
自分でも聞き取りづらい声になってしまうのを、兵長は耳を傾けるように顔を近づけてくれた。
「何だ」
「どうして、教えて、くれなかったんですか?」
ゆっくりと、問いかける。
「私――ずっと昔に、あなたと、出会っていたのに」
兵長がはっと息を呑むのがわかった。この人はずっと過去を覚えていたんだと確信する。
『俺と最初に会った日を覚えているか』
だから隠れ家であんなことを口にしたんだと今になってわかった。
「ごめんなさい……私、ずっと……思い出せなくて」
記憶操作に抗う術を私は持たないから。
『私は思い出します。あなたのことを』
『無理だ。この世界の真実と同様に感情や意思で覆せる類ではないのだから』
ウーリおじ様が言った通りだ。
この世界の理に抗えない。
私はとても、無力で。
「お前が過去の何もかもを忘れていても関係ない」
優しい声に首を振る。
「私……謝らなきゃ、いけなかったのに」
「違う。謝るのはお前じゃない。――俺は、怖かったんだ」
「何、が……?」
手を伸ばすように少し持ち上げれば、すぐに力尽きた。でも、すぐに兵長の手で包み込むように握られる。その温もりに震えてしまう。私はこんなに冷たくなっているんだと。
それと同時に、こんなに血で汚れた手を躊躇いもなく触れてくれる優しさに胸が詰まった。この人を汚したくないのに、それでも縋ってしまった自分の弱さに情けなくなっていると、兵長が言った。
「お前が眩しすぎて、まともに向き合えなかった。俺は、ガキだったんだ」
「……違、う」
私がどうしようもない子供だった。無知で、何も考えていない子供だった。
「あなたは、教えて、くれたのに」
「教えられたのは俺だ。地上なんざ、ろくでもねえ人間の巣窟だと思っていた。ずっと地下にいるつもりだったんだ。だが、お前は教えてくれた。空の下にある地上が、そう悪いもんじゃねえことを」
「私、そんなこと……してな……」
「最後に別れてから二度と会うことはねえと思っていた。エルヴィンの誘いで地上へ出て兵団で生きることにしても、お前とはもう会えねえと思っていた。それで良かった。同じ地上にお前がいると思えたら、それだけで。だが――見つけた。地上でやっとお前を見つけたんだ。壁外調査の帰り、もうすぐ壁の中だって時に、訓練兵の命知らずが援護班の増援に加わっていると思ったら……その中にお前がいた。空の中に、お前はいたんだ」
あれは、兵士となった理由と目的をナイルさんに見透かされて自暴自棄になっていた時だった。
固定砲整備班が同じだった同期も一緒に参戦してくれたおかげで巨人との戦闘を乗り切ることが出来たとはいえ浅はかだったと思う。もしも仲間のうち誰かが命を落としていたらと思うと恐ろしい。あの頃の私は自分のことしか考えていなかった。
でも、今だって自分のことしか考えてないけれど。
だからずっと、私を苛んでいたのは、私自身だったんだ。
根拠もない、信じるに値しない殺人鬼の言葉を信じた私。
真実なんて、私の手に届く場所にあるはずないのに。
その程度の人間だから、ここで死んでしまうのも当然だと思う。むしろここまで生きていられたことが奇跡みたいだ。
思考が途切れ途切れに、そして入り混じる中でふと疑問が浮かんだ。
もしも――私が私自身を殺したら、どうなるだろう。試そうか考える以前に、指先さえもう動かせないけれど。
まとまらない思考の中で、兵長の声に引き戻された。
「俺から初めて会いに行ったのはお前の配属兵科が決まる時だった。見つけた時……いつも上を向いて笑っていたお前は、うつむいていた」
あの日だ。私だけが憶えていると思っていた日。記憶を取り戻す前までは、この人と初めて出会った日だと認識していたあの瞬間。私だけが覚えているんだとずっと思っていたのに、違った。
『お前か。援護班に紛れて巨人を討伐した訓練兵は』
兵長は覚えていてくれた。忘れずにいてくれた。
こんな、私を。
こんな、私なのに。
どうして――
「どうして、私を、好きになってくれたの……?」
言葉が勝手に口をついて出た。
何を訊いているんだろう、私。
こんなの、困らせてしまうだけなのに。
だけど、兵長は少し笑ってくれた、そんな気配がした。
「きっかけは――そうだな。お前、入団してもしばらくはミケの班で燻ってただろ」
そうだった。あの頃は新兵だったのに分隊長の班へ配属されて、一人で足掻くだけのどうしようもない日々を過ごしていた。東方訓練兵団からは私以外の調査兵志願者がいなくて、ナナバさんやゲルガーさんとは最初全く意思疎通が図れなくて、他の訓練兵団から来た同期とは関わる前に最初の壁外調査でほとんどいなくなって――そんな頃の私をこの人は、
「……見てて、くれたんですね……そっか……それじゃあ、毛布、かけてくれたり……あの紅茶も、あなただった……」
記憶の欠片の答えが埋められていく。どうしてもっと早く知ることが出来なかったんだろう。
それと同時に、最期にこうして知ることが出来て嬉しかった。
「三ヶ月くらいかかってたな。やっと顔を上げたと思ったら、俺の前にお前が来た。淹れたての、紅茶と一緒に」
「団長から……頼まれて……」
「お前の紅茶を飲めた時に思ったんだ。――こんな風に俺が求めていた味を淹れられるようになったんだと。俺じゃ、決して淹れられない味を」
だから、と彼は続けた。
「お前に許されるなら、そばにいることを諦めたくないと思った。今度はもう離れたくないと思った。これからは一緒にいたいと思った。こんな風に紅茶を淹れてもらえる存在になりたかった」
私の手にはもう力が入らない。
だけど、その手を兵長が強く握ってくれていることはまだわかった。
「おいしい、紅茶の……淹れ方、教えてくれたのは、あなただった、のに」
ウーリおじ様の記憶操作に、それだけがなぜ掻い潜ることが出来たのかはわからない。だけど、忘れることがなくて、本当に良かった。
目の前がまた暗くなってきた。まだ、兵長の顔を見ていたいのに。
そういえば、もう血を吐くこともない。身体の中から吐くほどの血液がなくなってしまったのかもしれない。
「もう、はなれたく、ない、です」
「いつも離れてどこかへ行くのはお前だろ。昔も今も。お前が望めばいつだって、一緒にいられるんだ。だから――選んでくれ、俺を」
「…………こんな、私で……いい、の?」
感覚が、薄れていく。
今、自分がどんな表情になっているのかさえわからない。
うまく笑えていたらいいけれど。出来るだけ、綺麗な笑顔で。この人に覚えていてもらいたいと思う顔で。
「お前がいい」
力強い声に言葉を返そうとした時、ふいに意識が暗いどこかへ沈むのがわかった。抗おうとしても、無駄だった。止められない。
「…………」
ここまでらしい。
もっと話したいけれど。
もっと伝えたいけれど。
ちょっと、もう難しい。
「リーベ……!」
強く抱き寄せられて、顔を寄せられるのがわかった。
「あなたに、こうしてもらえる、時間が……いちばん、幸せ」
「っ、いくらでも、してやるから」
何も見えない。目蓋を上げているのに。そのことが怖くて、目を閉じた。水滴が頬に当たるのがわかった。雨? さっき空を見た時には雲なんてなかったけれど。雨が降るなら、この人をこの場所に留めるわけにはいかない。風邪を引いてしまう。私のことは置いて木の下へ行って欲しいのに、そう促す言葉はもう声にならなくて。
「兵、長」
意識が途絶える前に――あと一言くらい、伝えられるかな。
この言葉だけは、きちんとあなたへ届けたい。
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