Novel
リーベを殺せ

 私を呼ぶ声がする。

 どうして?

 私にはわからないのに。

 私が『誰』なのか。

 私が『何』なのか。

 何もわからないのに。

 優しい声が、私を呼んでいる。

 それだけが、わかる。




 見えない力で意識が引っ張り上げられた。深い眠りから強制的な覚醒を強いられた感覚に似ている。
 目を開ければ、

「――え?」

 身体が浮いていた。違う。正確には落ちていた。瞳を見開くエレンを見て理解する。さっきの電撃で意識が飛んだ拍子に自分の身体が落下していることに。
 反射的に受け身を取る。間に合ったけれど左肩を強めにぶつけてしまう。だけど、そんなことがどうでもいいくらい頭の中が痛い。

「う……」
 
 強く目を閉じてうずくまる。そのまま頭を押さえた。呼吸もままならない。

「わ、たしは……」

 何が起きたのか理解出来なかった。自分が何を忘れていて、何を思い出したのか。同時にそれが受け入れられなかった。頭が拒否して、否定している。

 あと、それから――

「リーベさん! 大丈夫ですか!? 一体何が……」

 ヒストリアに駆け寄られて、顔を上げる。似ているとぼんやり思った。フリーダ様と。髪の色はウーリおじ様。

「…………」

 どうして忘れていたんだろう?

 思い出したのに、もう会えないの?
 こんなに、会いたくて仕方ないのに。
 教えて欲しいことがたくさんあるのに。

「っ……!」

 静かだった感情が目覚めたように胸の奥底から込み上げる。

 寂しくて、悲しくて、孤独と不安に震えた時、理解した。

 圧倒的な力を前に私は抗えないこと。
 どんな想いも――無力だということ。

 それなら私はどうすればいいんだろう。

 頭の中にある記憶と情報で気持ちがぐちゃぐちゃにされて、自分がどうしたいのかさえわからない。

「おいおい……レイス家がエレンを食わなきゃ真の王にはなれねえのかよ?」

 そこでケニーが対人立体機動装置のワイヤーを緩めて上から降りてきた。隠れて話を聞いていたらしい。

「じゃあ、俺が巨人になってエレンを食っても意味ないのかよ」

 打ちのめされたような表情から一転、睨むような視線を私へ向けて、

「それならお前が巨人になれ! お前の父親はウーリ・レイスだ! お前なら王になれる!」
「え? リーベさん……?」

 ケニーの言葉にヒストリアが動揺した瞬間、

「阿婆擦れの産んだ娘だ。ウーリは父親ではない。これだけあの不愉快な女に似ていれば父親が誰かわかったものでは――」

 ロッド・レイスが言い終える前にケニーはもう動いていた。その胸ぐらをつかんで一気に吊るし上げる。ロッド・レイスの身体は簡単に宙へ浮いた。さらにケニーは目元を抉るように容赦なく銃口を押し当てる。

「言いてえことはクソほどあるが――俺の気持ちに気付いておきながら俺を散々翻弄し……利用してくれたもんだな、この色男がよお……」
「感謝する。お前のような野良犬を引き入れたのは女でとち狂った弟の気まぐれに過ぎないと――」
「それ以上ウーリとあいつを侮辱するならお前の頭が半分減るぜ? 俺は構わねえがな!」

 ケニーがさらに銃口を押し付けた時、ヒストリアが動いた。

「やめろ! 父を……放せ!」

 小さな身体でケニーの銃をつかみ、ほんの一瞬だけ動きを封じた。でも、すぐに力の差から払われてしまう。

 この期に及んでも父親に追従する彼女を哀れむケニーに、ヒストリアはそれを否定する。そして自らが巨人となりエレンを食べることになっても、ヒストリアはそれが自分の使命だと答え、その上で「巨人を駆逐する」と宣言した。

 ケニーは吊るし上げていたロッド・レイスを一度下ろして、向きを変えてまた抱える。

「おいおい、ヒストリア? この父親がお前にした仕打ちを忘れたのか? まずお前が生まれた理由が悲惨だったよなあ?」

 そのままケニーはヒストリアを苛む事実で追い詰め始める。領主であるロッド・レイスと使用人だった母親の戯れに彼女が生まれたこと、あわよくば領主の妻となれると母親が彼女を産んだこと、王政議会にとっての不名誉な存在であること――尽きることなく言葉は続く。

「…………」

 私は全部、見ていることしか出来ない。

 このままじゃ、駄目なのに。今はこんなことをしている場合じゃないのに。
 だけど、何が駄目なの? じゃあ、今は何をすべきなの?

『もしもいつか思い出す日が来たら考えて。この壁の内側と、外の世界の行く末を――』

 フリーダ様。
 私は何も考えられないし、何も出来ません。
 だって、何をしたところで私は、それにこの世界は――

「リーベ」

 名前を呼ばれた。冷たい声だった。

 誰に呼ばれたのかと思って顔を向ければアルト様だった。重心がおかしい。片手で首を押さえてつらそうだった。さっき拘束を解いた際の行いを思い返してもう少し加減をすべきだったかと申し訳なく思った矢先に気づいた。――銃口がこちらへ向けられていることに。

「…………」

 状況を理解することが出来ない。今、何が起きているのか。わかるのは、そんな悠長なことを言っていられない状況だということ。

 視界の端、いくらか離れた場所にいるケニーたちの会話している声が遠い。きっとこちらのやり取りも向こうには届かないだろう。自分一人で切り抜けるしかない。

「……銃を、下ろしてもらえますか」
「先に話してくれ。エレンへ触れた時のことを」

 浅く呼吸をしながら、自分に言い聞かせる。

 落ち着け。今の私はゲデヒトニス家の使用人じゃない。臆する必要はない。

「……この状況で正確に申し上げることは難しいです」
「――そう、わかったよ。君がすべてを知ったこと」

 冷たい視線のまま微笑むアルト様が続ける。

「今こそ教えよう。いや、その前に問おうか。リーベ、すべての答えと絶望が壁の外にあるこの世界で、ゲデヒトニス家の野望は何だと思う?」
「…………わかりません」

 揺るがない銃口を見据えながら答えれば、

「前にヒントは出したけれどね。――そう、初代が冠したこの名前、ゲデヒトニス。望みは全世界人類の記憶を操作することにある。それはかつてレイス家が行ったような壁の内側に限られた、しかも血統に縛られた中途半端なものじゃない」

 声は淡々と、静かだった。

「記憶を、どうするんですか」
「忘却を超えた消去を行う。誰も何も知らなかった、原初形態へ戻るんだ。巨人のことも、エルディアやマーレといった人種や思想が異なることも、過去の行いも、神々の時代の出来事も――すべてを無に帰すことで世界の絶望を葬る」

 言葉の意味を把握するのに時間がかかった。それでも理解しきれない。

「すべての記憶を、すべての人が……? どうやって、そんなことを」
「それを知るためにリーベ、君の力が必要だ」

 緑の瞳は変わらず冷たい。底知れない色をしていた。

「人間は無能ではないけれど全能には決してなれない。だが全知へ至ることは出来る。僕は知りたい。かつて神がとある女性の魂によって世界の終焉を知ったように」
「それはただの神話です」
「マーレがどうやって強大な支配力を持っていたエルディアの勢力を瓦解させたと思う? それはかつて《神々の黄昏》を告げた君の一族――《預言の巫女》の人々を殺して知識を得続けたからだ。愚かなマーレ。エルディアを弱体化させた頃にはもう一家系しか残らなかった」
「よげんの……みこ……」

 私は首を振って、

「……私に同じことは出来ません。だって……何もわからないのに……」
「出来るさ。血は受け継がれるものだからね。――だけど、まだしばらくは何も知らずにいて欲しかった。君が自分の命と死の価値、その使い方を考えて決めてしまうのは困るんだ」

 私はゆっくりと思い返す。これまで生きてきた日々の中で――この人の優しさ、寛大さ、生きていて欲しいと私に望んでくれること。
 それらはすべて、

「……私の力が目的だったんですね」
「同じだよ。君は力、力は君だ。以前話したはずだよ。『この世界で僕だけは無条件に君を想う』と。――僕に殺されるその時まで」

 そこで肩をすくめた。

「君が調査兵団へ入ったと聞いた時は心底参ったよ。壁外調査の度に気が気じゃなかった」
「…………」
「君が生きていることは必要であっても生き続けていることに意味はない。殺されて死んでこそ、君のすべてが意味を持つ」

 当たり前のことのように向けられるその言葉が、強く頭に響く。

「『王家の力』を継承してもらうことも可能ではあるけれどね。父親はウーリおじさんだから、リーベにもレイス家の血が流れているんだし。でも、そんなことをしても歴代の継承者と同じ、終焉を待つ者となるだけだ。何も意味はない」

 そこでアルト様は銃の撃鉄を上げた。同時に自分の身体が強張るのがわかった。

「動かないでくれ。君に苦痛を感じて欲しくない。僕は君の命も死も無意味にしない」
「…………」

 このままだと撃たれる。殺される。死ぬ。

 それでいいの?

 わからない。

 だって、わからないことだらけだ。頭に溢れる情報をまだ理解しきれていない。エルディアとか、マーレとか。だから何も考えられない。そもそもこんなの一人じゃどうすることも出来ない。唯一知識を共有している人は私を殺そうとしているし。

 私が生きていても仕方ない、意味もない存在であるのなら。
 死ぬことに価値と意味があるのなら、甘んじて受けるべきだけれど。

「…………」

 思い出す。私が兵士として生きてきた日々を。

「たとえ私が無様に、無益に、何の意味もなく生きて死んだとしても――」

 言葉は、力は、自然と込み上げてきた。

「それでも死んだ意味は、誰かが作ってくれる。生きた価値は、誰かが見つけてくれる」
「誰もそんなことはしないよ」
「調査兵団は、それを行う組織です」

 無意味な死だったと言わせない。誰一人。それは最後の一人になる時まで。

「虚しいと思わないのかな、それ」

 呆れたような声だった。

「人類へ心臓を捧げるなら死ぬべきだ」
「私の心臓の捧げ方を決めるのはあなたじゃない」

 たとえ誰に命じられたとしても、それに従うか決めるのは自分の意思だ。
 死にたくて死んだ兵士は、私が知る限り一人もいなかった。

「忘れることで得られる救いもあるでしょう。でも、それでも、忘れることがすべての絶望を葬るとは思いません。――かけがえのない時間を忘れていたから、私は『あの夜』の寒さに耐えられなかった。忘れていなければ、こんなに長い間『あの夜』に囚われることはなかった」

 家族や友人がいて孤独でなかったとしても、ウーリおじ様もフリーダ様も独りだった。

 彼らを思えば私は乗り越えられたかもしれないのに。あの寂しさと、寒さを。

 アルト様がため息をついた。

「あの夜、僕は間違えたね。手を離さなければ、君のすべてを僕のものに出来たのに。きっと僕のために殺されてくれたはずなのに。無知な父親のせいだ」
「――いいえ」

 私は断言する。

「違います。『あの夜』がなくても、私はあなたのものにならなかった」

 そしてゆっくり立ち上がる。

「君は自分が正しいと思っている?」
「いいえ。私は正しいと思いたいだけで、正しくない。――人間が正しいことなんて、きっとありません」

 エルディアがマーレにしたことも。
 マーレがエルディアにしたことも。
 初代レイス王が人類の終焉を望んでいることも。
 私が生まれて生きてきた、その生き方も。

 何もかも、誰かにとって正しいと思うことは、別の誰かにとって正しくない。

『「正しさ」を決めるのは誰ですか?』
『誰でもねえよ。生きていることが、正しい。生き残ったヤツが正しいんだ。この世界はそれで成り立っている』

 エルミハ区で兵長も言っていた。そう、強いて言えば生き残った誰かが正しい。

「唯一、誰だって最期まで足掻くことはきっと間違っていないと思います」

 これが、答えだ。

「――そう。ならば何が最善なのか、君の魂に問おう」

 死ぬのは決して怖くない。
 だけど、私は――

「いつか死ぬべきだとしても、今ここであなたに殺されるわけにはいかない」

 手元にあったナイフはさっき落ちた拍子に離れていたので、残していた反対側の靴底から最後のナイフを手にした。

「ナイフで銃に勝てると思う?」
「《切り裂きケニー》でもなければ無理でしょう」

 勝算はない。でも、成算ならある。

 手にある得物を意識する。ナイフにも色々ある。調理用、戦闘用はもちろん刺突用、切断用、専用のものもあればいくつか兼ね備えたものがある。そして今、私の手にあるナイフは――

『ハンジ班による兵服改造・補完編はここからですよ。まず「その1」にあったナイフ九種類の使い分けですね。中でも秀逸なのがこちらです』

 よみがえるのはニファさんの声だった。

 浅く呼吸をして両手で構える。ニファさんに使い方を教えてもらった時の一回しか試したことがない。――でも、私にはこの一週間ケニーに叩き込まれた教えがある。ナイフ投げの応用を今からやればいい。

「お別れだ、リーベ。君が死んだらまた会おう」

 ナイフの柄の一部を強く押した瞬間、刃が鋭く飛んだ。定めた狙い通り、空気を裂くように刀身が銃を弾いた。

『この発射ナイフは弾道ナイフとも呼ばれていて、最大の特徴は内部に仕込まれた強力なバネです。これを利用して刀身を飛ばすことが可能となります。 一度飛ばしてしまうと簡単には再装填出来ませんが、奇襲性は高いですよ』

 銃口が逸れたタイミングで距離を詰めて踏み込み、その勢いのまま蹴り上げた。拳銃は高く宙を舞う。
 そして次の瞬間には相手の腕を強く捻って地面へ倒して抑え込んだ。

「あなたを拘束します。そして所持する情報を地上ですべて話して頂きます」
「それは無理だね」

 掴んだ腕とは反対側の手に新しい拳銃があった。こんなに小型なら袖にでも隠せそう――いや、現に隠されていたようで、考えが甘かった。

 二発の弾丸がほとんど連続で撃たれる。単発式じゃなかった。一発目は躱せても、二発目が掠める。わき腹を抉るように、深く。

 傾く身体で踏ん張ったけれど拘束が緩んでしまった。そのまま身体が突き飛ばされる。

 相手が薬莢の排出と次弾を装填する姿に焦ったその時、

「何だ何だあ!? あっちばっか見てたらこっちも面白えことになってやがるじゃねえか!」

 頭上からケニーの声が飛び込んで来て、さらに続く。

「おいクソチビ! ぼーっとしてやがるんじゃねえよ! それで生きているつもりか? 何を喋ってたか知らねえがな、生ぬるいことやってんじゃねえ! ヒストリアを見てみろよ、面白いことになってるぜ?」

 ほんの一瞬だけ見れば、ヒストリアはエレンの拘束を解こうと躍起になっているし、ロッド・レイスは床で蠢いていた。明らかに身体の様子がおかしい。背骨でも折ったのだろうか。目の前の銃口に集中していたせいで、どうして彼らがそんな状況になったのかまるでわからない。

「お前は狡猾で自分勝手で嘘吐きで高慢で人殺しも出来るどうしようもねえヤツだろうが! 今更『まとも』になってどうする!」
「うるさい! わかってるから黙ってて!」

 叫ぶと同時に、さっき蹴り上げた拳銃が落下して来たことに気づく。歯を食いしばって着地点へ駆けた。

「相手が誰だろうと何を考えようと関係ねえ! お前が殺せるのは――」

 ほとんど飛び込むように腕を伸ばし、拳銃を手にして瞬時に構える。相手も私へ銃口を向けていた。

「お前を殺そうとするヤツだけだろうが!」

 引き金を引けば、撃った反動に耐えきれず身体が後ろへ吹っ飛んで転がる。体勢が悪かったせいだ。慌てて起き上がれば仰向けに倒れているアルト様が見えた。
 その胸は真っ赤に染まっている。心臓とは外れた位置を、弾丸が貫いたから。

 やがて掠れた声が耳へ届く。

「……ひどいね。どうして僕を殺してくれなかったんだい?」

 私は近づき、膝をついて言った。

「……あなたが――最後の最後で、私を殺そうとしなかったから……」

 その証拠に、私へ撃たれた弾丸は掠りもしなかった。

「僕は……どうして、君を……殺せなかったんだろうね……」

 血を吐きながら訊ねられる。
 いくら弾が心臓を外しても、どうしようもなく致命傷だった。今から地上へ運んでも、間に合わない。

「馬鹿野郎。んなこともわからねえのか。ゲデヒトニス家の野望は『初代の野望』であってお前自身の望みじゃなかった、それに尽きるだろうが」

 相変わらず上にいるケニーが言った。私たちの会話を大して聞いていなかった割に的を射ていて、アルト様が小さく頷いた。

「……初代の野望のためにゲデヒトニス家は血を繋いできた……レイス家とは異なる、これも呪縛だ……個人の意志ではどうにもならない……僕だけじゃなく、僕の母も。リーベ、君の母親と話した日で手記が終わっていた……きっと、解放されたかったんだろうね……」

 どうしてこの人がまだ話せるのか不思議なくらい血は流れ続ける。

「でも……アルト様……こんな、終わり方は……」
「……ゲデヒトニス家の野望を導く存在として、君が大切だった……やっと見つけた可能性だったから……それでも、君と過ごす時間が、あの夜で終わらなければ……一人の女の子として、僕は君を大事に出来たんじゃないかと時々考えていたんだ……きっと、道具扱いなんてせずに……」

 優しい緑の瞳は、昔からよく知るものだった。

「だから、最後の最後で、そんな僕で在れたこと――悪くないと思っているよ」

 震える手で、そっと頬を撫でられた。

「後悔がないわけじゃないけれど――君の娘でも産まれるまで時間があれば、また話は違っただろうしね」
「……私の、娘?」
「ああ、君の血筋に生まれるのは娘だよ。《預言の巫女》の役割は女性でなければ果たせない……母の手記にあった……君の母親から聞いたそうだ。……血は薄まっているはずだから、仮に男が生まれたなら、それは血の力が尽きて……《神々の黄昏》、が……」

 そこで大量の血が吐かれて、はっとした。

 もう、残された時間は、ない。

「あなたの、お父様に……お伝えすることはありますか」
「……ないよ。彼は今までと変わらず、何も知らないまま生きて死ぬべきだ……ゲデヒトニスの血は流れていないから、野望に縛られてもいない……だから、何も伝えなくていい。……君には他にやるべきことがある」

 そこでアルト様は私の首へ手を伸ばしたかと思うと、細い鎖に通された指輪を掴んだ。

「生きて前へ進むんだ。過去に囚われないで。どんなものであっても」

 そのまま引っ張られて、鎖は簡単に千切れた。

「君は優しいから……アニ・レオンハートや、つまりマーレを『敵』だと思っても『悪』だと決めることは出来ないだろう。それで良いんじゃないかな。――どんな選択も、すべての人に正しいと受け入れられることはないと知っている君なら、きっと大丈夫だ」

 そして穏やかに微笑んで、

「……さっきケニーはああ言ったけど……君が殺せるのは、自分を殺そうとする相手だけじゃないよね」

 そっと私に拳銃を握らせる。

「頼める、かな。苦しいんだ」
「…………わかり、ました」

 心臓へ狙いを定めて銃口を押し付ける。

 アルト様が穏やかに微笑んだ。

「さよならだ、リーベ。願わくば君が誰にも殺されないように――そして君がもう、誰も殺さずに済む世界になりますように」

 轟く銃声に、世界が無音になる。ケニーが何か言った気がしたけれど、何も聞こえない。

 何も、考えられない。

 ふと目の前が暗くなる。無意識に触れたわき腹が濡れていて、見れば血が広がっていた。そういえばさっき、アルト様を押さえ込んだ時の弾は掠めたんだっけ。命中しなかったとはいえ結構深い。
 視界が悪くなったのは失血によるものだと判断しながらハンカチを出して、傷に押し当ててから腰から外したベルトで強く締めていると、やっと何かが聞こえて来た。

「……父さん……ウーリ……フリーダ……」

 嫌な予感がした。理由はわからない。直感だった。

 振り返れば、ロッド・レイスが這っていた。何かを目指すように。

「待ってて……僕が今……」

 目的はわからない。わからないからこそ不安に駆られた瞬間、ロッド・レイスが床を舐めた。よく見れば、零れている何かの液体を――

「!」

 次の瞬間、私の身体は床へ強く叩きつけられていた。このとんでもない衝撃波には覚えがある。旧本部でエレンの一部が巨人化した時と同じ――つまり、巨人化によるものだ。

 ロッド・レイスが巨人になった。

 人間が巨人化する姿を目の当たりにするのは初めてで、茫然としてしまう。

「そんな……!」

 瞬間、強い熱風に襲われた。火傷しそうなくらい熱い。息がうまく出来ない。

 どうしてこんなことになったの?

 ヒストリアは? エレンは?

 状況が把握出来なくて焦る。

 凄まじい揺れに恐怖するしかない。心臓が強く握られているみたいに痛くて、割れ砕け始めた天井に短く悲鳴が漏れた。

「っ!」

 避けきれず、腕でも払いきれなかった大きめの落石が強く頭にぶつかる。倒れるように膝をつけば、尋常じゃない量の血が流れるのがわかった。

 まずい。

 このままじゃ落石の下敷きだ。

 どうしよう。どうすればいい。

 考えなきゃ。離脱するには?

 立体機動なしに切り抜けられる方法なんて思い付かない。

 だけど、このままだと死んでしまう。
 死にたくない。少なくとも今はまだ。

 こんな時に思い浮かぶ。
 こんな時、だからこそ。

「兵長……」

 会いたいです。声が聞きたい。私の名前を呼んで欲しい。

 それだけで、いいから。

 その時、

「リーベ!」

 反応が遅れた。

 一体誰に呼ばれたのか、わからない。だって、今までその声で名前を呼ばれたことはなかったから。

 振り仰いで理解した。

 ケニー。

 私の名前、知ってたの?




 見渡す限りの草原で、誰かの後ろ姿が見える。その女性は見たことのない服を着ていた。

 不思議な夢――或いは遠過ぎる、記憶。

『彼女』が振り返る直前に意識が浮上して、ゆっくり覚醒する。

「ん……」

 重い瞼を押し上げれば、外だった。空が広がっている。
 視界に違和感があると思ったら片目が開いてない。力の入らない、重い腕で擦って不器用な瞬きに似た動きを繰り返せば、少しずつ開いた。さっきの落石で頭から流れた血で固まっていたらしい。視力に問題はなさそうで安堵する。出血も止まっているようだった。
 だけど、足が痛い。違う。痛みと呼ぶより感覚が遠い。動かない。怖い。どうしよう。動かせない。そう思ったら右足はやっと動いた。左足は駄目だ。

「う、っ……」

 不意に込み上げるものをそのまま吐いたら血だった。身体の内側もかなり負傷しているらしい。苦痛以外に、熱にも苛まれる。自分の身体がどうなっているのかわからないのが怖い。

 でも、生きてる。それだけは確か。

 だけどわからない。何が起きてどうなったのか。

 それに――どこだろう、ここは。

 北にあるレイス領の地下礼拝堂から脱出したなら、その地上近く。オルブド区の外かもしれない。

 意識を周囲へ巡らせて、気づく。ケニーが木にもたれて座っていた。思わず息を呑む。私以上に出血も火傷も酷い。

「よお、目が覚めたか」

 ケニーが話している間にまた吐血してしまう。顔も全身も血塗れで、口の中にも広がる血の味に顔をしかめながら私は訊ねることにした。

「どうして……私を、助けたの……?」
「そりゃあ――」

 こつん、と額に何かが触れる。銃口だった。

「お前を殺すためだよ」


リーベ…愛情、慈しむ心
【上】(2017/01/17)
【中】(2017/02/25)
【下】(2017/03/12)
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