Novel
すべては大いなる夢のため?
「東方訓練兵団から憲兵になった私の同期って今はどうしてますか? ちょっと会いに行こうと思うんですけれど」
アルト様とナイルさんと三人で食事を終え、私は憲兵団本部の通路を歩いていた。隣にいるのはナイルさん一人だ。アルト様とはお店で別れた。
少しでも情報収集をするために訓練兵時代の同期を利用して動こうと訊ねれば、
「ああ、いたいた。あいつらな――全員が寿退団してもういねえ」
「寿退団? それって……結婚っ? えええっ!? ひとりもいないんですか? お、おめでたい……! けど、え!? 女子だけじゃなく男子も?」
「そうだ。婿養子ってやつだな。嫁さんの家の仕事を手伝うんだと」
「えええええー!」
あまりにも想定外だった展開と事実に戸惑って叫ぶと、
「そこまで驚くことじゃねえだろ。お前だって婚約してるじゃねえか」
「……そうですけれど」
本当のことを話せないのがもどかしい。
だが、確かにもう結婚が出来る歳なのだ。もっと言ってしまえば子供だっていてもおかしくはない。
「…………」
「あ、あー! ま、マリッジブルーってヤツか! あるよな! マリーも俺と結婚する時にちょっとなってたから気にするなっ。あれは時間が解決するもんだ! そういうもんだから大丈夫だ!」
黙っていると勘違いされたが、婚約した話の段階からして勘違いさせているのでそのままにしておいた。
何かしらの取っ掛かりに憲兵団に所属する同期の顔や名前を借りるつもりだったから誤算だと思っているうちに憲兵団兵舎に着いた。通路を歩くだけで調査兵団のものよりも設備や性能が高いことに悲しくも納得していると、
「そうだ。リーベ、お前の身分証が発行出来たぞ。ほら」
ナイルさんから渡されたのは手帳だった。憲兵になる手続きの際にこれだけ受け取っていなかったことを思い出しながら一角獣の表紙をめくれば私の所属と階級が――
「えええええっ!?」
「今度は何だ!?」
「ちょ、あの、私の階級おかしくないですか!?」
「お前の階級? ――ああ、それか。俺の下に就くなら妥当じゃねえか? そもそもジャケットにも書いてるぞ。気づかなかったのか?」
「あ!」
兵服の左胸には名前と所属が書かれている。当たり前のことなのでわざわざ確認していなかった。
「こんなに昇進して、分不相応だと思うんですが……」
「これから相応になればいい話じゃねえか。じゃあな、また明日」
「あ、はい、お休みなさい」
ひらひらと手を振って、欠伸をしながらナイルさんが行ってしまった。その背中を見送って、新しい自室へ向かう。
早く身体を落ち着けて一日のことを報告書に書かなければならない。宛先はもちろん調査兵団だ。秘密裏に届けるルートは決めてあるし、暗号文がどんなものであれ叡智の結集たるハンジ班なら解き明かしてくれるだろう。
まずは対人制圧部隊の存在。
次に、彼らが使用する対人立体機動装置。
欠点だらけの武器でも奇襲ならば大いに効果を発揮すると思う。有効射程距離があまり長くないとはいえ威力は高いし最初に対峙した際は圧されるかもしれない。
レイス家が真の王家であることも書き忘れてはならない。ヒストリアの身の置き方が変わるだろうし。
そう考えながら新しい自室の扉を開けようとして――その手が止まる。誰もいないはずの部屋に気配を感じたからだ。
「…………」
呼吸を整えてから銃を手に扉を蹴破ると、月明かりしかない暗い部屋の中には三人の憲兵が首から血を流して倒れていた。
「遅えよ、どれだけ待たせる気だ」
さらにその近くにいたのはケニー・アッカーマン。私は素早く銃口を向けた。
「……何してたの?」
「こいつら、お前と『遊ぶ』つもりだったみてえだな、うっかり鉢合わせちまった」
私は倒れている三人の男を眺める。どれも知らない顔だ。中央憲兵でもない普通の憲兵だと思う。
どこで恨みを買っただろうかと考えて、与えられたばかりの分不相応な階級を思い出す。次に血まみれになっている男たちの胸元を確認した。全員が今の私より下の階級だ。何となく原因がわかった気がした。
「『遊ぶ』仲間に入らなかったんだ?」
「ガキはお断りだ。こいつらみてえにお前を襲う気はねえよ。俺好みの女ってのは――」
適当に聞き流しながら届けられていた自分のトランクを確認する。鍵をこじ開けようとした痕跡はあったが開けられずに済んだようだ。さすがハンジ分隊長お手製の錠前。ほっとして力が抜ける。
「ああ、俺が来た時に連中が弄ってたな」
馴れ馴れしくケニーが近づいて来たので睨む。
「何しに来たの? 用がないなら――」
「よし、ロシアンルーレットでもするか」
「そんなに頭の中身を披露したいなら誰もいない場所で一人でやって」
「何で俺の脳みそ見せなきゃならねえんだよ。お前だお前。――ったく、仕方ねえな。ちょっと外に付き合えよ」
ばさっと頭に被せられたのは臙脂色のマントだった。私はそれを払いのける。
「行かない」
「お前は死体と寝る趣味があるのか?」
床にいる三人の男を示された。
「ない。だから宿探しに行く。兵舎では寝ない」
「連れて行ってやる。とっておきの場所にな」
「行かないってば。それより『これ』どうするの?」
出来立ての死体を放置するわけにもいかないと思えば、ケニーがもう手配済みだと言った。
「それじゃあ犯人として頑張って」
「ふざけんな、俺は捕まらねえよ。だから中央憲兵が捜査するんだろうが」
「……捜査を操作するってこと?」
「中央憲兵の十八番だ。それよりさっさと行くぞ」
やり取りを続けることに疲れて、仕方なくさっき被されたマントを羽織る。フード付きで、ミカサのマフラーを彷彿させる色だった。
これなら全身がすっぽり入るからわざわざ兵服を着替える必要もないのでその点は助かる。
「どこに行くの?」
「クソみてえな地下街だ」
「地下街?」
思いがけない行き先に戸惑いながらトランクを抱え、ケニーの後を追った。
兵舎を出て暗くなった外を歩いていると、すぐに地下へ通じる階段に着く。昔に計画されたらしい地下都市の名残でこういったものは王都地上にいくつか残されているけれど今まで足を踏み入れたことはない。
それよりも気になることがあった。
「ケニー」
「あ?」
「どうして私に構うの? 私は部下の人をたくさん死なせたのに」
「だから恨むだとか復讐しろって? それが何になる。酒が飲めるわけでも金になるわけでも連中が生きて戻るわけでもねえだろうが」
「そうだけど、そういう問題じゃなくて」
別に自分のやったことを後悔しているわけじゃない。
巨人の正体が人間だとわかった時だって、周りのように気に病むことなんてなかった。
私は最初から、人間と戦えるようになるために兵士になったんだから。
「――なあ、今からあいつら殺してみろよ」
唐突にケニーがぼろぼろの布を被った子供たちが座り込む路地を指差した。全員がやせ細っていて目には生気がない。靴も履いていない子も何人かいた。これが王都の現実らしい。
「何言って……そんなこと、出来るわけない」
「だろうな、お前は。――だから予言してやるよ。どこぞの占い師を気取るわけじゃねえけどな」
「え?」
「お前はそのうち死ぬ。お前はお前を殺そうとしないヤツに殺されるんだ」
「……意味がわからないんだけど」
「いつかわかる」
首を傾げながら地下への階段に足を踏み入れて、エルミハ区の夜を思い出す。
兵長は生きていることが正しいと言ってくれた。
決して人を殺すことが正しいとは言わなかった。
私はこんな人間だけれど、だからせめて、そのことは大切にしたい。
そう思いながらケニーを追って階段をひたすら降り続ける。周りは夜とはまた異なる暗さに満ちていた。
「ついでに教えてやる。俺の敵は、俺の夢を邪魔するヤツだ」
「夢?」
そこで考えたのはさっき聞いたアルト様の話だった。
『ゲデヒトニス家には初代から受け継がれる野望があるんだ』
アルト様が野望、ケニーが夢とはイメージ的に言葉選びが逆のように感じた。この人たちは胸に何を抱えているのだろう。
「じゃあ私が敵になったら?」
「お前みてえな男も知らねえガキは一発で黙らせてやるよ、『バキューン!』ってな」
今度こそケニーの眉間を撃ち抜こうと思った時、薄闇の中で視界が開けた。手だけではなく足も止まる。階段を途中まで降りたことで、やっと地下街が一望出来たからだ。暗くても不思議と見渡せた。お世辞にもいい眺めとは言えないけれど。
それでも確かにそこは都市と呼ばれる構造をしていた。ここまで進んだ地下都市建設はなぜ中止されたのだろうと考えていると、ふと思い出す。兵長が地下街出身だということを。そう思うと途端に感慨深くなった。
ここで生まれて、生きて――あの人はどんな風に過ごしたんだろう。誰と一緒にいたんだろう。
訊ねれば教えてくれたかもしれない。でも、そうすれば自分のことも話さなければならないのが嫌で、何も知られたくなかった私は結局何も兵長のことを知らない。
「…………」
「何だよ、不細工なツラして」
私はケニーを睨んだ。
「昔からこの顔だけど」
「……それもそうだな」
そう話す表情が、なぜか少しだけ寂しそうに見えた。
一軒の酒場の中で私は考える。どうしてこんなところにいるんだろう。
地下街の酒場だからもっと無秩序かと思えばそうでもない。何組かいる客たちは一様にぼそぼそと会話しているくらいで静かだった。これはこれで異様な雰囲気だ。店内を照らす火も少ないし。
そして目の前には大量のお酒と雑な料理の数々が並んでいた。
「あの、宿屋に行きたかったんだけど……連れて行ってくれるんじゃ……?」
「んだよ、お前、酒飲まねえのか」
「……飲まないようにしてるから」
「つまらねえな。じゃあ何か話せよ」
横暴だ。何でこんな人と一緒にいるんだろう。そう思いながらも口を開く。
「ケニーって昔は憲兵をたくさん殺してたんだよね? 殺人快楽症とか病気?」
「違えよ。俺は周りを嗅ぎ回っていたヤツらを畑の肥やしにしてやっただけだ」
「嗅ぎ回られるようなことしたのが悪いんじゃない?」
「一族の問題だ。俺じゃねえ」
どんな一族だと思っていると、
「病気はお前の方だろ。あのろくでなしと結婚の約束するなんざ神経を疑うしかねえよ」
アルト様はろくでなしじゃないと言い返せばケニーの様子が少し変わった。ふざけた態度だったのが、どこか研ぎ澄まされたものになる。
「そんなに信用していいもんか知らねえけどな」
「え?」
「ゲデヒトニス――《王の火薬庫》だ。よく知らねえが初代からの企みがあるんだとか。まあ、警戒していたのはウーリだが」
その名前の人は誰だっけと考えて思い出す。レイス家当主の亡き弟だ。
「知り合いだったの? その人と?」
「友人だ」
「よっぽど気が合ったんだね」
「まさか。あいつと同じ気分になったことは一度もねえよ」
世の中には色々な友情があるらしい。
おもむろにケニーが席を立った。
「どこ行くの」
「便所。クソだクソ」
店を出る背の高い後ろ姿を見送って、一人残された。
どうして私はここにいるんだろうとさっきの自問を繰り返しながら目の前の料理を眺めた。ケニーはお酒を飲むだけで全然食べてない。つまり私に食べろということだろうか。アルト様とナイルさんと一緒に食事をしたから空腹ではないことをケニーは知らないし。
そう考えて、近くの皿の中身を確認。蒸したジャガイモがごろごろとそのまま入っている。皮は向かれていなかった。ちゃんと洗ってあるのかが気になって、私はマントの下で兵服の装備を確かめる。中には『ハンジ班による兵服改造・その2』――九種類の刃物が計三十九本仕込んである。どれも軽量化を主に選ばれているので、負担に感じるほどの重さではない。ちなみに一番長いものはブーツの内側に左右二本ずつある短剣だ。取り出しやすいのは両袖に隠した三本ずつの小型ナイフ。
いざという時に丸腰にならないためのそれで冷めつつあるジャガイモの皮を剥いていると――荒々しく扉が開いた。
「金を出せえええええっ!」
店内の沈黙が破られた。
強盗だ。三人組。2mはありそうな大男と刃物を持つ二人の手下。全員が覆面を被っているので顔や髪型はわからない。
私は静かにフードを被り直して考える。面倒に巻き込まれるのは御免だった。とりあえず最悪の事態に備えてマントの中でトランクを少し開け、ポーチを一つ出して腰のベルトに装着する。
こんな騒ぎになればケニーは戻って来ないだろうし勝手に脱出するしかない。店内は薄暗いし一人くらい消えてもわからないだろう。
店の奥へ移動しようとフードをさらに深く被れば、
「そこの赤ずきん! お前を人質にしてやるから来い!」
目を付けられた。どう考えても私だ。
「お前だお前! さっさと来いっ!」
「おいおい、びびってんのかあっ?」
「ボスの言葉が聞こえねえのか!?」
最悪だ。でも、危機に対応出来なければ兵士として胸を張れない。
私はため息をついてからゆっくりと立ち上がり、マントを脱ぎ捨てた。兵服姿に強盗団が黙り込んで静かになったので所属と階級を告げる。
「――お前たちを憲兵団へ連行する。全員、大人しく武器を捨てろ」
低い声で最大限の威圧を込めて宣言した次の瞬間――盛大に笑われた。
「ふざけた真似しやがって!」
「身ぐるみ引っ剥がせ! ただのガキだ!」
「お前みたいなチビが憲兵の上層部なわけあるか!」
強盗団が突進して来たので、同時に私もボスらしき大男に向かって駆け出した。腰のベルトへ沿うように仕込んであるナイフを左右それぞれで抜きながら。
突き出された拳から身を躱して大男の足の間へ一気に滑り込む。そのタイミングで相手の内腿を一気に裂いた。耳をつんざく絶叫を聞きながら入口付近の扉まで滑って体勢を整えると、左足の傷が深かったのか、ぐらっと巨体がその方向へ倒れるのが見えた。
「ボス!?」
手下たちが驚愕している隙に素早く近くのテーブルに上がる。酒瓶を蹴り飛ばしてしまったが構っていられない。そこから手下の一人へ跳躍した。頭めがけて蹴り飛ばせば、相手の首が妙な方向へ曲がる。倒く身体を踏み台にもう一度宙へ跳び、空中で一回転。その勢いでもう一人の手下の顔面へ膝を叩き込んで、そのまま床へ下敷きにした。
これでこの場は制圧出来たと思って店内を振り返る。
「強盗は全員気絶させたのでもう大丈夫――」
「動くな憲兵!」
店主がライフル銃を私に向けていた。酒場は護身目的に銃の所持が認められているがどうやら地下街も同じようだと考えていると、
「おい、お前、憲兵だと……?」
気づけば店主のみならず、店内にいた何組かの客たちも敵意を剥き出しにしていた。
今更ながら理解する。
どうやら悪党は強盗団に限らないらしい。なぜならここは地下街――無法地帯だ。
数秒後、同時に飛びかかって来た男たちの目の前で私は腰のポーチから出した手榴弾のピンを抜き、床に落とした。
「げっ!?」
動きを止めた全員の足の甲を次の瞬間には連続で一発ずつ撃ち抜く。合計六人が一気に崩れ落ちた。
ちなみに手榴弾は模造品だから爆発しない。うまく騙されてくれて良かったと回収すれば、発砲音がしたので転がっているテーブルを盾にしてすぐ隠れた。まだライフルを持つ店主がいた。
店主が撃ったそれは次々に命中し、私が気絶させた悪党たちを絶命させる。ブーツにびしゃっと大男の血や脳漿がかかった。
あっという間に死体に囲まれて、私はテーブルに身を寄せながら左手の銃を握り直す。
「彼らがいなければ経営は成り立たないのでは?」
「お前らのせいで俺の店はもう終わりだ。裏取引専門で酒も薬も女も今日まで卸してやってきたってのにこうも派手に暴れられるとな……『死人に口なし』が一番いい。あまつさえ憲兵のお偉いさんに嗅ぎ付けられたと来た。だから今日あったことは全部ここで始末する――次はお前だ! 女憲兵!」
店主より先に撃つために私はテーブルの影から飛び出る。だが、構えた瞬間に足元がわずかに滑った。さっき蹴飛ばしたお酒だ。薄暗さに足場の確認が疎かになってしまったせいで動作が一瞬遅くなる。
にやりと唇を歪めた店主が引き金を引く方が速いと覚悟した時――背後から宙を裂いてナイフが飛んできた。それは店主の首に深々と刺さる。恐ろしいほどの速度と威力だった。あらぬ方へライフルを乱射して店主がどさりと床へ倒れる。
後ろからの新手に、私は振り向きざまに照準を合わせず発砲する――よりも先にばさっと布がかけられた。躱しきれず突然視界が奪われ、さらに上から押さえつけられた。
それでも素早く腕だけ出して相手の喉元へ即座に銃口を押し付けたが、弾は出なかった。引き金が引けなかったからだ。
「!」
相手の指が引き金に挟まっていた。
心臓が凍りついた瞬間、声がぶつけられる。
「暴れるんじゃねえ! この跳ねっ返りが!」
ケニーだ。
私が抵抗をやめれば、押さえつける力がふっとなくなる。
さっきのナイフも誰が投げたのかやっと頭が理解して、私は布から顔を出す。よく確かめればさっき脱ぎ捨てたマントだった。
「ったく、お前は大人しく待つことも出来ねえのか」
私が騒ぎを起こしたんじゃないと経緯を説明しようとした時には肩に担がれていた。
「や、下ろして!」
「うるせえ」
そして私と荷物を抱えたケニーが店を出る。腰を探る感覚に私は暴れた。
「ちょっと、どこ触って……!」
「これだな」
ケニーは私のポーチから出した本物の手榴弾を全部、店の床へ投げてぶちまけた。止める間もなかった。一気に店から離れたタイミングでそれらは誘発に次ぐ誘発から大爆発を引き起こす。この遠距離でも強い閃光と熱風を感じた。
あまりのことに暴れるのをやめて呆然としてしまう。
「ちょっと……」
「ああして始末しねえとクソ面倒なことになるのはお前だぜ?」
「隠蔽した方が後々面倒なことになると思うけど……それに地下街、崩壊しない?」
「一軒吹き飛ばしただけだ。ここの澱みは何も変わらねえよ」
話す間にもケニーは道や屋根や塀をものともせず駆けていく。立体機動装置を身に付けていないのに、この速さ。景色がどんどん流れていく。
「風になったみたい……」
借り人競争で兵長に運ばれた時もそう思ったなと思い出していると、別の既視感があった。でも、思い出せない。
あれ?
「私、何か……忘れてる……?」
「おいおい、その歳でもうボケが始まってんのか?」
馬鹿にしたような響きにむっとする。もう何も言わないことにした。
「何でもない。気のせいだから」
そうだ。気のせいに決まってる。私は今日初めて地下街に来たんだから――と、そこで身体が下ろされる。
ぼろぼろになった建物の一室だった。
「隠れ家の一つだ。ったく、ここへ来るつもりはなかったってのによぉ……」
「じゃあ私は地上に戻って宿屋探して寝るから」
「さっさと入れ、ガキ」
仕方なく足を踏み入れた。荒れてはいない。散らかってもいない。ただ埃っぽい空間だった。家具もほとんどない。丸いテーブルと椅子とソファーが一つずつあるだけだ。
立ち尽くしていると蝋燭に火を付けたケニーが私へ手を向けた。
「お前のナイフ寄越せ。俺のはさっき回収し損ねた」
「持ってない」
「嘘付け。身体中に仕込んであるだろうが」
ばれていたことに内心で舌打ちしてから太もも部分のベルトへ手を伸ばし、ナイフを引き抜くと同時に投擲した。
勢いを殺さなかったので壁に刺さったものを抜くかと思いきや、空中でそれを捉えたので驚いた。さすが都市伝説の殺人鬼と呼ぶべきか。
「投げ方がなってねえな。――こうやるんだよ」
顔の横をナイフが通り過ぎ、ずどん、と壁に刺さった。さっき酒場の店主を串刺しにした、あの威力。
「柄じゃねえよ。刃を持て。そこから手首に回転を付けて――」
「ちょっと待って。刃? そんな持ち方したら手が切れるんじゃ……」
「そんな無様するかよ。おら、やってみろ」
言われた通りにやったところで、柄を握って投げるよりもずっと弱いものになってしまった。うまく力が入らない。
「力を入れる場所が違う。だから、そうじゃねえって。――わざわざ的を見て確認するんじゃねえ、意識するだけで充分だ」
しばらくしてやっと謎のナイフ投げ講座が終わった。やっぱり普通に投げるに限る。
「喉、乾いた」
「勝手にしろ」
言われた通り勝手にすることにして、火を熾してからお湯を沸かした。古いけれど最低限の道具は揃っていて良かった。
一応ケニーの分も用意して、持ち手が欠けたカップを置く。
「毒は入ってねえだろうな」
「お望みなら近くに生えてた草でも摘んで来るけど」
「……お前の母親は毒草入りの茶を出してきたからな」
顔をしかめて話す様子に、私は仕方なく先にお茶を飲んであげた。一息ついてから、
「……どんな関係だったの? ウーリさんみたいな友達だった?」
「さあな。勝手に俺の前に現れて勝手に死んでいった女との関係なんざ何もなかった」
絶対嘘だ。何もなければ私と関わる理由がない。
「もしかして地下街出身? だから知り合いだったとか?」
「違う。あいつは地下街の人間じゃなくて――いや、言うのはやめだ」
「……途中まで言ったなら最後まで言えばいいのに」
「言ってもお前は信じねえだろうしな」
「じゃあケニーは信じたの?」
「信じた方が面白い」
不敵に笑ってケニーがお茶を呷る。味わったりせず、飲めたらいいというように一気飲みだった。
「そういやお前は自分の父親と母親を『どこまで』知ってるんだ」
「…………大して知らないけど――」
話したら、大爆笑された。腹を抱えて笑うから呆気にとられてしまう。
「……笑うような話?」
「愉快だな! 笑うしかねえよ! 何度殺されかけても結局お前は死に損なってやがるし、むしろお前を殺そうとした連中の方が悉く死んでるんだろ? 笑う以外どうしろって?」
「……じゃあもう黙ってて」
「お前が聞かされた話と俺の知ってる話が違うから余計に面白え」
その言葉を理解するまで少し時間がかかった。
「違う? 何が……違うの?」
やっとの思いで声にする。笑うのをやめたケニーが片眉を上げた。
「知りてえのかよ。俺はお前が知らねえ昔話を知っているだけだがな――それを聞いたところでどうする」
「ど、どうするって……」
「すでにお前はろくでもねえヤツらの話を信じてやがるじゃねえか。それを鞍替えして俺を信じるのか? 今のお前が知ってる話よりも陰惨かもしれねえぞ。そうなれば都合がいい方を信じるのか?」
「それは……」
私はどうするだろう。
「どうなんだよ」
鋭い目を前に深呼吸をして、思考を落ち着かせる。
「……あの冬の夜があったから今の私がいる。嘘でも、本当でも、それは変わらない」
嘘でも、真実でも。
それを自分がどう受け入れて、前へ進むかが大切だと思うから。
「だから、どんな話でも――」
「時間切れだ。話すのはやーめた。残念だったな」
ふざけたようにそう言われると余計に気になるし聞きたいし腹が立つし殺意が少しばかり芽生える。
そもそも、よく考えたらケニーの言葉だって信じるに値するかわかったもんじゃない。
多分、真実に一番近い場所にいるのは――グリシャさんという医者だ。
「…………」
アルト様には断ってしまったけれど調べるべきだろうか。
でも、過去を振り返るより、やはり今は未来へ進むべきだと思う。
そう決めてもまだ腹が立ったので、教えられたばかりの投げ方でケニーめがけてナイフを放った。二本の指で止められたけれど「悪くねえな」とにやにや笑う顔を見たらどうでもよくなってしまった。
お茶を片付けて、着替えはせずに全身のベルトだけ外して眠ることにした。銃の点検と掃除を済ませ、枕代わりのクッションの下へ入れておく。あまり柔らかくないソファへ寝転がった。
うるさい鼾が聞こえる。もちろんケニーだ。行儀悪く椅子に座り、机に足を乗せて、身体に悪そうな体勢で眠っている。帽子を深く被っているから顔は見えない。
「…………」
ケニーは何がしたいのだろう。
最初はナイフ突きつけて、中央憲兵に入れようとして、結局あっさり引き下がったかと思えばこんな風に地下街へ連れて来るなんて。
さっきの酒場でも、ケニーがナイフを投げて殺せたのは店主だけじゃなかったはずだ。それどころか私を助けてくれたように思う。そしてこの場所で休めと言うなんて。
私を殺したいのか。
私を利用したいのか。
私と仲良くしたいのか。
三つ目は違うだろうけれど、わけがわからない。
「…………」
ふと考えたのは、中央憲兵の根城でアルト様とケニーが引っ張り合った時のこと。
あの時、この人はどうして私の手を離したのだろう?
ちらりと顔を向けても相変わらず鼾が聞こえるだけだった。
ぐるぐる考えても仕方ないので、蝋燭の灯りを消して毛布へもぐる。
憲兵生活初日。長い一日がやっと終わった。
調査兵団へ送る報告書は明日こそ書こうと決めて、私は眠りに落ちた。
「寝顔とかそのまんまじゃねえか。これだけ似てりゃ当たり前か。髪は違うが……あいつはクソ長かったからな。――ウーリもいねえし、そのうち『約束』果たしてやるよ。気が向いたらな」
(2015/11/13)