Novel
最愛の証を贈ろう
「憶えてますか? 去年の――849年の、私の誕生日」
止まった馬車に私と兵長は並んで座っていた。ニック司祭も同乗しているけれど、毛布に包まって浅く寝息を立てている。
雲に隠れていた月も今は顔を出していて、やわらかく夜を照らしていた。
「産みの親から死を望まれて、そんな彼らを死へ追いやるような……生まれる前から自分でもどうしようもない命だとわかっているのに……毎年、私だけは、私が産まれた日を祝うんです」
生まれることを望まれない人間がこの世界にたくさんいることはわかっている。
でも、だからといってそれを受け入れることは簡単じゃなくて。
せめて私だけは私の存在を肯定しようと毎年意地になっていたのかもしれない。
だから去年の誕生日は本当に、本当に嬉しかった。
あなたと飛んだ空の美しさを、私はずっと忘れない。
「生きていたい――私はそのために誰かを殺すことが出来る人間です。生まれた時から、ずっと」
生きていることは尊い。
でも、誰かを死なせて、殺して、生き長らえた命に同じことが言えるのか?
私にはわからない。わからなくて構わないとも思う。
ただ、哀しい。
洗濯をしていると鼻歌がこぼれて、掃除が好きで、料理が楽しくて――当たり前に生きているだけの、たったそれだけの人間でいたかったのに。
「誰も殺すことなく強く生きていられる人もいるのに、私はそんな風になれない。――むしろそれに甘んじて、殺さない強さではなく殺す強さ力を身につけた」
そして私は兵士になった。
「……都合が良かったんです、あなたの生まれや過去がわからないこと。たくさんの人がそれを気にしていたけれど、私はそんなこと知らなくて良かった。だって知らなければ、私の生まれも過去も、何もかもを伝えずに済むから。お互い様にすることが出来るから」
私は笑った。
「私はあなたが思っているような人間じゃないんです。ずるい人間でしょう?」
アルト様やナイルさんのような人がいてくれるのに、それを受け入れることが出来ないのは私がそんな人間だからだ。
ナイルさんの言葉通り、私は私という存在を肯定しながら否定して虐げている。
でもそれは矛盾していているようで同じ方向を向いているような気がした。つまり誰かに否定されても先に自分で傷つけておけばそれも耐えられるだろうと、そんな風に自分を守っているのではないかと思う。
否定も、肯定の一種だったのかもしれない。
でも、ばかみたい。たとえ私でなくたって、誰からも肯定される存在なんて世界にいないのに。そう理解しているのに――否定を恐れるなんて。
「…………」
わかっていても、怖かった。
『リーベ。お前は何でまだ生きてるんだ? 誰もお前が産まれて生きていることを望んでいないのに?』
『俺がお前をどうしようと世界中の誰も文句は言わねえよ。お前に生きる意味のないことが、俺が殺す理由になるんだ』
『お前は生きる権利もなければ、愛される資格も救われる理由もないガキなんだよ!』
あの夜の記憶は今でも鮮明だから。
ホルスターから銃を抜いて、私はそれをもてあそぶ。
「訓練兵時代に同期が私を《悪魔》の名前で呼んだのは――」
「二年前の健康診断、憶えているか?」
「え? 848年、ですか?」
突然割り込んできた話題に戸惑っていると、
「お前が階段から落ちてきた時のことだ」
「ああ、そんなこともありましたね。ミケ分隊長とぶつかって落ちて」
「あの時、俺にはお前が――」
そこで言葉を止めた。
何も言わなくなった。
あの時の私が一体どうしたのだろうと思っていると、
「…………何でもねえ」
呟いてから兵長が言った。
「ただ俺が言いたいのは――当たり前のことだろうが。殺されそうになった時、自分を守る行いは正当防衛だ。人間がいつか死ぬことは当たり前でも、殺されることは違う。お前が殺す力を手に入れたことは自分を守るためであって間違いじゃない」
「……正当? 間違いではない? その『正しさ』を決めるのは誰ですか?」
誰だって自分が間違いを振りかざしているつもりはないだろう。おかげで世界は混沌として複雑だ。
「誰でもねえよ。生きていることが、正しい。生き残ったヤツが正しいんだ。この世界はそれで成り立っている。そこへ至るために殺そうが殺すまいが関係ない」
兵長は一度言葉を止めてから、
「だから、俺は殺せる」
唐突にそんなことを口にする。
この人は何を言っているのだろう。
「お前を殺そうとする人間がいる時、俺はそいつを殺せる」
「…………」
「お前を傷つけようとする人間がいる時、そいつを殺せる」
「…………」
「お前を泣かせようとする人間がいる時、そいつを殺せる」
夜の風が、静かに吹く。
「――それが、あなたの『正しさ』ですか?」
「ああ、そうだ」
信じられない。
アルト様やナイルさんの言葉と同じように。
でも――たとえ嘘でも嬉しい言葉だった。
そこで自己嫌悪に陥る。
私は最低だ。
こんなことを喜ぶなんて。
真っ当な人間は大切な人が誰かを苛むことを拒んで阻止するだろうに。
本当に、嫌になるくらい私は自分のことしか考えていない。
黙り込んでいると、兵長はやり切れないというように顔を歪めた。
「やっぱり昨日、抱いときゃ良かった。そうすれば教えてやれるのに。どれだけ俺が――」
それから兵長はまたしばらく黙ってからそっと手を伸ばしたかと思うと、私の頬へ触れた。次に首筋へ指先が這い、シャツの胸元が軽く開かれる。
抵抗する気にならなくて身を任せていると、乾いた指が肌のある一点に触れた。
「意味を知っているか?」
昨日ナナバさんに指摘された箇所――キスマークのことだと気づいて首を振る。まだその痕は残っているらしい。
「……知りません、そんなの」
すると兵長が簡潔に言った。
「最愛」
どれだけ時間が経過しただろう。
私が何も言えずにいれば、
「それが答えだ」
兵長の静かな声が夜に響く。
「だから、俺はお前の名前を呼びたい」
「……名前?」
なぜ突然そうなるのかと戸惑うと同時に、ほんの半日前の自分の言葉を思い出す。
『呼ばないで、どこの誰が何を思って付けたかもわからないそんな名前!』
そして気づいた。――あれからこの人に名前を呼ばれていない。
「…………」
感情任せに放った言葉を律儀に受け入れられて、真摯な言葉を返されて、私は逃げるようにうつむく。
「…………」
私の、名前。
本当はそんなことを考えているわけではない。
でも、決して、心に存在しない想いでもない。
「……名前なんて、どうでもいいじゃないですか」
「お前の名前を呼ぶ度に、俺は教えられる感情がある」
膝の上で拳を握り締めれば、あたたかな手のひらで包まれた。
「生きることと戦うこと――それと同じくらいに大切だと思える感情だ」
真摯な声に目頭が熱くなる。
胸が詰まって痛いくらいだ。
「だから俺は、お前の名前を呼びたい」
あふれそうな感情を堪えるために私は唇を噛み締める。
「そんなの――おかしい」
自分の耳にも消え入りそうな私の声に、
「理屈じゃねえよ」
兵長ははっきりと断言する。
また、夜の風が吹いた。私たちの髪を静かに揺らす。
名前なんて誰が何を思って付けたのかわからない。
どんな願いを込めたのか、或いはどんな皮肉を込めたのか、何の意味も込められていないのかさえも。
「私……」
でも、こんなにも私を求める声があるのなら――
「……本当は嫌いじゃないんです。自分の、名前」
私はこの名前に応えたいと思った。
あなたの声に呼ばれるのなら、それだけで充分だと思えるから。
頬へ指先が触れて、耳元へそっと唇を寄せられる。
「――リーベ」
やさしく、熱を持った声だった。
こんなに胸へ響くものを、私は知らない。
この瞬間のために生まれたのだと、そう思えるくらいに。
「ぁ……」
ああ、そうか。
私にとって『自由』とは――
生きていてもいいのだということ。
愛されてもいいのだということだ。
この瞬間に限らず本当はいつだって、ずっと、名前を呼ばれた時――私が望む『自由』のすべてを手に入れていた。
そのことにやっと気づいた。
「リーベ」
再び名前を呼ばれると同時に愛しい人の顔が近づいてきて――ふと気づく。唇が切れて血の味がした。無意識に噛み締めすぎたのだろう。
私は思わず距離を取る。
「あの、嫌です」
思い切り拒絶してから、慌てて唇を指差した。
「く、唇が切れちゃって……絶対に痛いですし、血の味がするのは嫌でしょう?」
「痛いのは嫌か」
「そりゃあ、まあ……」
それでも近づく顔に今度はもう拒むことが出来なくて。目を閉じようとすると、すぐそばで足音がした。
顔を向ければ、茫然と立ち尽くすジャンがいた。
「あの……」
ジャンがおずおずと声を上げる。
「お二人は、その、交際されているのでしょうか……?」
この状況ではそう認識するのも無理はないだろうと第三者のように考えていれば、
「文句があるなら聞くが」
低い低い、兵長の声。
ジャンが顔を青ざめさせた。
「滅相もないです! 違います!」
声を上げる力は私になくて、ただ空を眺める。
夜明けだった。
先ほどモブリットさんから受け取ったアニの身辺調査書を読みながら、私は唸る。
「クソがしてえならさっさと行ってこい」
「残念ながら違います。――意外なんですよ」
私は調査書を軽く指で弾く。
「ライナーとベルトルト……847年に私が104期と過ごした時、この二人は同郷で割といつも一緒だった気がしますが、ここにアニが加わるのが意外なんです」
「それで?」
私は言った。
「つまりアニと同様に、ライナーとベルトルトも敵対勢力である可能性があります」
複雑な想いがないわけではない。
でも今は、自分の感情を優先している場合ではない。
書類の束を整えていると、兵長が鼻を鳴らす。
「仮に三人が共犯でその関係を意外だと感じるなら、つまりは相手側の作戦だったわけだ。――まあ、その辺は向こうへ行った連中がうまく図るだろう。地下へ連れ込んで聞けばいい。じっくりとな」
「出来るのは、どんな真実を前にしても受け入れる覚悟を決めておくことですね」
さすがにもう明るいので必要以上に身を寄せることは出来ない。
一定の距離感で会話をしていたその時だった。
「なあリヴァイ。俺らの獲物はどこだ?」
憲兵だ。これまで内地でのうのうと暮らしていた人間が巨人を獲物と呼ぶとは可笑しい。寄ってたかったとして一体も倒せないどころか刃を突き立てることさえ出来ないだろうに。
すると兵長が口を開く。
「何だ? お前らずいぶんと残念そうじゃないか。悪いな。お目当ての巨人と会わせてやれなくて」
その皮肉に憲兵たちが言葉を濁す中、私は兵長にだけ聞こえるように静かに話を切り出す。
「兵長」
「何だ」
「私、憲兵団へ転属しようと思います」
自分で口にしておきながら、世界の何もかもが一瞬止まったような気がした。
「……何だと?」
かすれた、低い声。
私は立ち上がって馬車を降りる。
「色々考えました。――ずっと間違えていたんです。私は今からでもそれを正したい」
「リーベ。お前、何を……」
「だからお別れを言わせて下さい」
私は微笑んで見せる。
「さよなら。あなたがこの世界にいてくれたこと、あなたと同じ時間を過ごせたこと、あなたに名前を呼ばれて、たくさんの言葉と想いを伝えて頂けたこと――私は幸せでした」
「待て……どういうことだ。そう思うなら俺の近くにいればいいだろうが」
その言葉に私は首を振る。
「駄目ですよ。あなたのそばにいると満たされて、私はそれだけで良いと思ってしまうから」
夢のような時間はもう終わりだ。
とてもいい夢だったから、どんな世界の現実でも生きられる気がする。
そこで兵長は表情を険しくして、
「ふざけるな、ここにいろ。貴族野郎がお前を迎えに来た時にも言ったはずだ。簡単に調査兵団を離れようとするな。今回の壁外調査でどれだけの損害があったかわかっているだろうが。今以上に戦力を失うのはーー」
「私を戦力に数えてくださっているからこそです」
ほんの数時間前まで、この人から逃げるために調査兵団を離れようと思っていた。
でも、今は違う。
「私も戦います。自分の『自由』のためだけではなく……あなたや他の皆のように人類が『自由』を取り戻す戦いを。そのために憲兵団へ行くんです。入団に関しては十五の時から許可されていましたし、先程ナイルさんにまた打診されたので問題ありません」
「……何言ってやがる、わかるように話せ。転属する必要がどこに――」
「味方から騙すためにも私は憲兵団へ逃げたことにしましょう。ゲルガーさんが一番怒ると思うのでうまく宥めて下さいね」
その時だった。
「先遣隊が帰って来たぞ! ピクシス司令に伝えろ!」
その伝令にはっと顔を向けた瞬間、隙を狙っていたかのように腕をつかまれた。兵長だ。馬車を降りたらしい。決して離さないとでもいうように、その力は強い。
「兵長、離して下さい」
「離すと思うか、リーベ」
私はため息をついて――次の瞬間には太腿のホルスターへ空いている手を伸ばし、銃口を兵長の心臓へ突きつけた。
「……お前は俺を殺せないはずだ」
「二年も前に言ったことを信じるなんてどうかしていますよ。でも、その通りです。私にあなたは殺せない。だからこれは痛いだけで貫通しない非致死性の弾丸です。この距離で心臓を撃てば、さすがのあなたもしばらく動けないでしょう」
「リーベ、俺は――」
そこでピクシス司令が現れて、伝令の兵士はまだ息を切らせながらも話し始める。
「か、壁に穴などの異常は見当たりませんでした」
「そうか……やはりのう」
「しかし大変な事態になりました! 我々は帰路でハンジ率いる調査兵団と遭遇! その中に装備を着けていない104期の新兵が数名いたのですが――」
そして伝令の兵士は叫ぶ。
「その中の! 三名の正体は……巨人でした!」
(2014/12/01)