Novel
嗤う悪魔
冬の日。いつもならベッドの中で身体を温め、すでに眠りの底へいるはずの真夜中。
夜着の上から身体を這いまわる大きな手に、私は凍り付いていた。
同時にひたすら困惑していた。今――何が起きているの?
「何だよ、つまらねえガキだな」
呟く声は知っている人のものだ。最近亡くなった料理人のお爺さんに代わって住み込みで働き始めた人。新しい、料理人の男の人。
その人に押さえ付けられて、私の身体は動かない。圧倒的な力の差がそこにあった。でも、混乱するしかなかった私はそもそもぴくりとさえ動けない。
「リーベ、退屈させるんじゃねえよ。ちょっとは抵抗してみろ」
拘束が解かれて強く頬を叩かれた瞬間、私の身体は動いた。いや、違う。動かされたのだ。
ベッドから乱暴に落とされて茫然とする。途端に凄まじい冬の冷気が身を包む。私はまだ、動けない。
「さてはお前、今から自分がどうなるかわかってねえな? ぽかんと馬鹿みてえな顔しやがって」
見慣れた自分の部屋のはずなのに、灯りがないせいですべてが暗闇に包まれて何もわからない空間に声だけが響く。
「立てよ。動けよ。抗えよ。挑めよ。戦えよ。――そうやってじっと黙ってちゃ面白くねえだろ。人形かお前は? 違うだろ? ほら、どうなんだよ、おい」
この男は人間じゃない。
「まだ反応がねえとはな……バカなお前に前情報だ、リーベ。お前は《ストヘス区の悪魔》を知っているか? このストヘス区でガキばっかりを狙った殺人鬼――それは俺のことだ!」
ああ、やっぱり人間ではなかった。悪魔だ。
最近ストヘス区で殺される子供たちの酷い末路を私は知っている。
「《ストヘス区の悪魔》、せっかくの呼び名だがそろそろ憲兵が動き出したもんでユトピア区にでも拠点変更しようとしていたんだ。だが丁度このゲデヒトニス家が新しい料理人を探していると聞いてピンと来た。これは良い隠れ蓑だ、やはり俺はストヘス区にいるべきだってな。案の定ゲデヒトニス家が盾となり、俺は憲兵の包囲網から外れることが出来た。さらに――」
べろりと舌が頬に這わされて、唾液が肌に擦り込まれるのがわかった。
「リーベ、お前がいた!」
「っ」
「さすがに屋敷内で死んだお前を発見させるわけにはいかねえよな。ゲデヒトニス家の庇護を無駄にしちまう。まあ、どうするかは後でちゃんと考えてやる。だからお前はもっと俺を楽しませろよ、なあ?」
そんなのは――嫌だ。嫌だ。
どうしよう。どうすればいい?
どうすることも出来ないの?
私はこの悪魔のものなの?
「っ……」
違う。
違う。違う。違う。
私はこいつのものじゃない!
その瞬間、ようやく身体が動いて部屋から廊下へ飛び出すことが出来た。でも、すぐに足が絡まって無様に倒れてしまう。起き上がろうとしても力が入らない。
どうすればいいの?
わからない――わからない!
またああなるのは嫌だ!
私の身体なのに、まるで自分のものだとでもいうように傲慢に、不遜に、乱暴に触れる手を思い出して、今さら震えだした。
やめて。離して。嫌だ。触れないで。私はお前のものじゃない。
怖い、助けて、お願い――誰か!
「っ……!」
声が出ない。音にならない。
どうして!
圧倒的な恐怖が喉を縛っていることに気づく。あの男はこのことを見越していたのだとわかって戦慄した。
「ぃ、や……」
声が出ない。誰にも助けてもらえない。希望なんてない。
思考も、視界も、すべてが黒く塗り潰されていく。
いやだ。やめて。
私に触らないで。
私を奪わないで。
私を壊さないで。
すぐそばで絶望が嘲笑う声がする。
どうすればいいの?
「おいおい、全然逃げてねえじゃねえか」
追いついた男が舌打ちして、そばへ来たかと思うと胸ぐらを掴まれて投げ飛ばされた。私の身体は吹っ飛んで、壁にぶつかる。衝撃に一瞬呼吸が止まった。床に崩れ落ちれば、同時に壁に飾ってあった『何か』も落ちた。
「ぐ、っ……!」
痛い。身体も、胸の奥深い場所も。
それなのに――私は起き上がることさえ出来ない。
「ここまで反応がねえとろくに楽しめねえな。どうすりゃいいかね。――ああ、そうだ」
何か思い付いたように男が嗤った。
「リーベ、いいこと教えてやるよ。俺は巷じゃガキを狙った無差別殺人鬼と呼ばれちゃいるがそれは違う。――俺が殺すのは死ぬべき子供、それだけだ!」
「え……?」
男が顔をぐっと近づけて来た。底なしの闇のような瞳に、その唇は愉しげにいやらしく歪んでいる。
「さあリーベ、ゲデヒトニス家のご当主様から聞いた有難く面白い話を聞かせてやろう。俺が作るように美味い料理を食べたら人は口がよく滑るんだ、覚えとけ」
そして男は話し始めた。
「昔々、は言い過ぎか。十二、三年くらい前のこと。ある所に一組の夫婦がいたんだが、女は夫を愛していなかったらしい。政略結婚ってやつだな」
この男は。
「だからガキが出来ても全然嬉しくなかったとかで、産んだら夫にバレないように殺してやろうと女は決めていたそうだ。そんなら腹の中にいる時に殺せよ、って俺は思うがその技術を持つ医者はあんまりいねえからな。――おっと、話が逸れちまった」
何の話をしているのだろう。
「女がガキを殺すと決めたところまで話を戻すぞ。時は流れ、女はナイフを忍ばせて出産に臨んだ。ところがなんと、身体に負担がかかってガキを産むなり女は死んじまったんだ!」
わからない。
「その一方で夫は妻を愛していたらしい。が、その妻は死んでしまった。その腹から生まれたガキによって。さてさて、愛した女が死んで夫はどうしたと思う?」
わからない。
「生まれたばかりの赤ん坊を殺そうとしたんだ! 妻がそばに置いていたナイフでな!」
わからない。
「しかーし! ガキを殺す直前にどっかの医者が見つけて止めたんだとさ。そこで捕まって、そのうち死んだらしい。自殺だとよ。俺にとっちゃ一番ありえねえ死に方だ。――また話が逸れたな」
わからない。
「さて、残された赤ん坊のガキはどうなった? そもそもこいつは一体誰なんだ? 両親からは殺意だけを与えられて産まれてきたガキの正体は?」
男の瞳が昏く輝く。
「お前のことだリーベ! 愛も名前も与えられずに生まれた、それがお前の真実だ!」
その瞬間、見えない手で締め上げられるように喉が詰まった。
「リーベ。お前は何でまだ生きてるんだ? 誰もお前が産まれて生きていることを望んでいないのに? 俺がお前をどうしようと世界中の誰も文句は言わねえよ。お前に生きる意味のないことが、俺が殺す理由になるんだ」
「…………」
「なあ、この話を聞いてどう思った? 何を感じた? ――何か言えよリーベ!」
「っ!」
頬を拳で殴られて、私はまた床に倒れる。
「……う」
「何だって?」
「ちが、う」
「違わねえよバーカ!」
今度は男の足が見えたかと思うと腹部へ直撃した。身体がまた飛んだかと思うと、落下する。階段があったらしい。あちこちをぶつけながら落ちて行く。暗闇の世界が回る。
やっと止まったと思えば全身が痛くて、口の中は血の味がして、それ以外は何もわからない。
「う……ぐ……」
もう嫌だ。もう嫌だ。
何もかも、終わりにしてほしい。
震える手で起き上がろうとすれば、指先に冷たい『何か』が触れた。
視線を向けて、薄闇の中でも鈍く光るそれは――拳銃だった。さっき壁から落としたのはこれだと気づく。私と一緒に階段を転がり落ちたらしい。
「…………」
私はこれを知っている。
アルト様のお父様――当主様の蒐集品。
戦う道具だ。
「リーベ、この世界に生きている人間は『自由』なんだ。だが、生きることを赦されない人間にそんなものは認められない。つまりお前は生きる権利もなければ、愛される資格も救われる理由もないガキなんだよ!」
祈っても何も起きない。
願いは何も変えられない。
助けてと声を上げられない。
「今」を変えることが出来るのは――
思考するよりも先にずしりと重いそれを私は手に持つ。そのままゆっくり立ち上がる。
「どうせ泣くならもっと喚いてみろ。それが何の意味もないことを、誰の耳にも届かないことを、そもそも泣くことさえ赦されていないと思い知れ」
声が近づく。階段を下りてきているようだ。
「お前なんかが生きていて良いはずがねえんだ。すべてを甘んじて俺に――ん? 何持ってんだ」
やがて薄闇から現れた男が一言。拳銃の存在に気付いたらしい。
「おいおい。楽しませろとは言ったけどよ、お前にそんなことが出来ると思うか? ガキが扱えるもんじゃねえだろ」
男は嘲笑った。
「リーベ、お前には何も出来ねえよ。それを教えてやる。――この世の絶望、何もかもと一緒にな! それがお前には相応しい!」
鼓動が痛いくらいに鳴る。心臓がこんなに暴れることが出来るのかと驚きながら、私は拳銃を構えた。
こうするしかないのなら、迷いも躊躇いも無駄な思考だ。
恐怖も苦痛も嫌悪も、何もかもすべて今は邪魔なものだ。
どうすればいいのかなんて――ついさっき聞いたはずだ。
立て。
動け。
抗え。
挑め。
戦え。
それがすべてだ!
瞬間、乱れていた思考が不思議と落ち着いた。
必要な情報だけが浮かんで処理された。
思い出す。
庭の東屋でアルト様から文字を教えられてから、私はたくさん本を読んだこと。
書庫にあった読めるものなら何でも、時間の許す限りずっと読んでいたこと。
あらゆる物語、料理の作り方、外の世界を記した禁書、そして――武器の扱い方を書いた本も。
だから――出来る。出来る!
私は撃てる!
こいつの足を止めるんだ!
そうすれば、もうこんな悪夢は終わるから!
「お前なんかせめて俺が『堪能』して殺してやる! お前の自由は俺のものだ!」
違う――違う!
私はお前のためにここにいるんじゃない!
殺されるためじゃない! 奪われるためじゃない!
「わたし、は……!」
こんな男に過去も未来も決めつけられてたまるか!
私の自由は――他の誰のものでもない、私のものだ!
震える手で必要な操作をすべて終えて、最後に私は男の腿へ狙いを定めて引き金を引いた。
考えと裏腹だったのは、力が足りずに銃口が跳ね上がって――狙いが上へとずれてしまったこと。
それが、命中した。
「がぁっ、な……?」
男が首を押さえた。ごぽりとそこから血が噴き出す。
信じられないというまなざしが向けられて――同時に男が倒れるように近づいてきた。
「ひっ」
反射的に私はまた引き金を引いた。また狙いよりも上へ跳ねて、今度は額に当たった。男は倒れた。動かなくなった。
周囲に満ちるのは、血の臭い。息苦しいくらいに充満している。
「あ……」
全身から力が抜けて、すとんと膝をつく。指先にだってもう力は入らないのに、拳銃が手から離れることはなかった。
ふいに自分が涙を流していることに気づく。でも思い返せばさっき死んだ男に指摘されていたから、もうずっと私は泣いていたのかもしれない。
「…………」
私は今、何を想っているのだろう。
自分の心が、わからない。
恐怖、嫌悪、悲嘆、苦痛、絶望、後悔、屈辱、憤怒、諦観、憎悪――込み上げる自分の感情がわからない。
きっと、何もかもすべてなのだろう。混ざって、合わさって、もうわけがわからない。
荒れ狂う、それでいて静かな感情の波の中でぼんやりしていると、悲鳴が聞こえた。
薄闇の中、死体の向こうにいたのは、
「当主さ、ま……」
当主様は目を見開いていた。茫然と惨状を眺めている。
「リーベ、お前……これは……貴様、が、やったのか……?」
「あ、の……」
この男は《ストヘス区の悪魔》だと話したいのに、舌がもつれて言葉にならない。
「私の蒐集品を穢し、人を殺めたのか……?」
そこで当主様の顔に怒りが浮かんで、私の手から銃を乱暴に奪う。そしてそのまま私の側頭を殴りつけた。
一瞬何もかもが見えなくなって、気づけばまた倒れていた。
「よくもこんなおぞましいことが出来たものだな!」
「申し訳、ありま――」
「愛もなく産み落とされた子供とはいえ情けをかけた私が間違っていたというのか……!」
「え……?」
心臓が止まったような錯覚に陥る。
あの悪魔が言ったことは、本当だったのだ。
「貴様のことだリーベ! 産みの親たちを死へ至らしめた悪魔!」
――悪魔?
あいつではなくて。
私がそうなの?
「あの医者の言葉を信じた私が愚かだった……!」
はっと気づいた時には銃口が向けられていた。
「最初から貴様が死ねば良かったんだ!」
銃声が轟いた。
(2014/07/06)