Novel
覗けない彼の深層

「お風呂に入りたい……」

 身体を動かした満足感はあるものの、汗の不快感までは拭えない。
 旧本部の通路を歩きながら思わずそう漏らせば、

「入られますか? 俺、準備します」
「ありがと。でもやめとくよ」

 隣を歩くエレンの言葉に私は首を振った。

「身体の傷に障るから『髪を洗うなら服着たまま』って医療班から注意されたの。一度に済ませられないのは面倒だから夜まで我慢する。肩まで浸かるのも禁止されてるし――」
「つまり傷に障らなければいいんですよね」

 ため息をつく私に対して、何か閃いたようにエレンが言った。

「俺がリーベさんの髪を洗いましょうか?」
「へ?」




 その後、エレンとかなり多くのやり取りを交わしたのだけれど、結果的に言えば断りきれなかった。下心は言わずもがな、打算もない、まっすぐな瞳に負けたのかもしれない。

「まあ、いいか」

『これ』があるから肩の包帯は見えないし、エレンに気遣わせることもないだろう。

 一人用の湯槽に沸騰させたお湯を入れ、水でゆるめたものに足を伸ばして浸かる。肩まで沈みたい気持ちをぐっと抑えて、ちゃぷちゃぷと水面で爪先を遊ばせていると、浴室の扉をノックする音がした。

「どうぞー」

 そう応じれば、扉ががらりと開く。同時に違和感があった。
 エレンなら「失礼します」くらい言いそうだけれど、と思いながら視線を向けて――私は飛び上がった。

「っ、きゃあああああ!」

 思わず側にあった石鹸を投げつけたが、相手に難なく受け止められた。

「人を変質者みてえに叫ぶな」

 兵長だった。ジャケットやベルトはなく、シャツとズボンのシンプルな服装だ。裾と袖が濡れないように捲っている。

「な、な、なな何で兵長が……!」
「エレンから話を聞いて交代した」
「エレンー!?」

 どういうことかと叫んでも彼は来てくれなかった。

「うるせえ。あいつは地下だ。――それより」

 兵長は憮然とした顔つきで私の身体を見下ろした。

「お前、風呂で何を着てやがる」
「何って……湯着ですよ」

 湯着とは袖のないワンピースみたいな白い衣服だ。しかし裾は太ももが露わになるくらい短い。下着もなくそれ一枚きりなので心許ないけれど、あるとないとでは大違い。布もしっかりしていて、水に透けない優れものだった。
 そもそも『これ』がなければエレンの申し出を受けることはしなかったのに。今となってはやはり全力で断るべきだったと思う。

「一人で入浴困難な怪我人や病人が使用するものらしいです。『何かあった時のために』と医療班の方から頂きました」

 兵長がまだじっと見ているので、何となく胸元を隠しながら説明すれば、憮然とした表情のままため息をついた。

「髪、洗ってやるから頭を出せ。こっちへ向けるだけでいい」
「兵長にそんなことして頂くわけには……後で自分で洗いますからお気持ちだけで充分です。お疲れでしょうし、お部屋でお休みになって下さい。本当に大丈夫ですから」

 必死に訴えても、兵長は黙って椅子へ腰を下ろす。

「兵長、聞いてますか?」
「さっさと洗うぞ。……俺は四六時中お前の上官を務める気はない。お前もたまには俺の部下を辞めるんだな」

 私は首を傾ける。

「部下じゃなければ私は何になるんです?」
「俺の女」

 ああ、なるほど。
 納得して、顔が赤くなって、そっと目線を上げれば有無を言わせぬ瞳とぶつかった。

「でも、その、だからといって髪を洗ってもらうのは――」
「身体を洗ってやってもいいがな」
「か、髪だけで結構ですっ」

 それから私は諦めつつ改めて、

「じゃあ、その……お願いします、ね……?」

 何度か畳んだ布を置いた湯船の縁へ後頭部を恐る恐る乗せる。天井を軽く仰ぐ姿勢になれば、兵長が髪へそっと触れるのがわかった。
 その感覚が落ち着かないので目を閉じたけれど、兵長の指先へ余計に意識が集中してしまう。ああもう一体どうすればいいのか。

 私の心中を余所に、兵長は私の髪を濡らして黙々と洗い始める。
 やさしく、それでいて力強く指先が動き、次第にもこもこと泡立つのがわかる。ただ髪を洗うだけではなく、頭皮へ押し込むような指の動きが心地良い。頭全体がぽかぽかしてきた。

「ん……」

 緊張していた身体は次第に弛緩する。心地良さから勝手に声が漏れた。

 考えてみると誰かに髪を洗われるなんて初めてだ。慣れない感覚ではあるけれど、いつしか心がふわふわと漂って、そのままとろけてしまいそうだった。

「あー……お上手ですね、兵長」
「髪を洗うのに上手い下手はねえだろ」
「ありますよ。すごく気持ち良いです」

 現に私はうっとりとしてしまう。このまま眠ってしまいたいくらいだ。

 髪先までしっかり洗い上げられ、やがて丁寧に濯がれて、兵長は最後に布で髪の水分をあらかた取ってくれた。

「終わりだ」

 その声で私は目を開ける。それから緩慢に頭を上げた。

「さっぱりしました。ありがとうございます、兵長」

 言いながら後ろへ顔を向けるなり、軽く口づけられた。

「――礼を言うならこれくらいしてもらいたいもんだな」
「……覚えておきます」

 兵長が背を向けて道具を片付けているのを確認して、私はぬるくなりつつあった湯船から出た。
 そこで、ある思いが頭をもたげる。

「でも、キスだけで良いんですか?」

 食糧難のご時世だけれど、兵長の好きな物でも作ってあげられないかなと考えながらそう提案すれば、湯着がぴったりと身体に貼り付いているのに気付いた。水に透けない優れもの――とはいえ布なので仕方ないだろう。
 肩まで浸かっていなかったのに湯着の下の包帯は水分をいくらか吸っているし、早く脱いで身体を拭こうと壁に掛けたタオルへ手を伸ばした。が、次の瞬間、背後から力強い腕に引き寄せられる。

 もちろんそんなことをしたのは、

「兵長っ?」

 身体は強く抱きしめられていて、身をよじっても兵長の腕はびくともしない。

「なあリーベ」
「は、い」
「俺がまだ足りねえと言えば――お前は何をしてくれるんだ?」
「そ、それは……その……」

 さっきまで考えていたことなのに、うまく言葉が紡げない。
 兵長が言わんとしていることもすぐにわかって、さらに言葉はもつれる。

 抱きしめられることは初めてじゃない。でも、湯着一枚だとこれまでにないくらいに密着して感じられて、どうすればいいのかわからなくなる。

「あの、私、身体拭いてないから、兵長の服が、濡れ……」

 顔を上げて訴えれば、覆いかぶさるように口づけられて言葉にならなくなる。

「ん……!」

 離れようにも、ぎゅっと腰を抱かれてままならない。
 まるで食べるように唇が動かされて、キスは深くなるばかりだった。

 どうしよう。
 どうしたらいいんだろう。
 どうすればいいんだろう。
 くらくらして何も考えられない。

 足から力が抜けて、気づけば座り込んでいた。ほんのわずかに唇が離れた隙に顔を背けても兵長の身体はまだくっついたままだ。腰を這う腕に、心臓が痛いくらいに鳴った。

「な、なん、で……」
「理由は必要か?」

 荒い呼吸のまま身をよじれば背に壁が当たる。とても冷たい。それくらいに自分の身体は熱いのだとわかった。

「ひ、ぅ……」

 離れた唇は胸元へ押し付けられたかと思うと、強く吸われる。今はもうすっかり消えたキスマークがまた肌に刻まれたのがわかった。

「見え、ちゃ……見える場所は、だめ……」

 何もかも全て委ねてしまいそうになる精神と身体を叱咤して途切れ途切れに私が訴えれば、

「見えない場所ならいいのか?」

 言葉と共に、ぷつりと湯着のボタンが一つ外された。

「ぁ……」

 声が声にならない。
 胸元がまさぐられて、息をすることもままならなくなる。

「へ、へいちょ……」
「何だ」

 押し留めた手をそっと握られて、指先をぺろりと舐められた。そしてまるで食べるように軽く口へ含まれる。思わぬ感覚につい肩が跳ねた。

「だ、だめ」
「だめじゃない」
「へ、変な気分に、なって……」
「なればいい」

 囁く声が胸の奥まで沁みるようで、ふるりと震えた。何もしていないのに、どんどん呼吸が荒くなる。

「でも、その、明るいし」
「よく見えるだろうが」
「み、見えちゃ駄目ですよ」
「見たいから、いいんだ」
「……恥ずかしいから、駄目です」
「俺しか見ないから恥ずかしくない」

 納得出来ない理屈なのに押し切られてしまって、そうするうちに二つ目のボタンも穴から離れてしまう。
 今度は耳へ口づけられ、むき出しの太ももに兵長の手が這わされて勝手に身体が震えた。すると、

「嫌か?」

 まっすぐに、じっと私を見つめるまなざしがあった。心の奥底まで見透かそうとするように鋭くて――やさしかった。

「い……」

 哀しいわけじゃないし、泣きたいわけでもない。なのに、自分の目が潤んで視界が揺らぐのがわかった。

「何だ」
「いやじゃ、ない、です……」

 恥ずかしさや不安を上回る感情から兵長を仰げば、また唇が降ってくる。

 私を抱きしめたせいで水分を吸った兵長のシャツをつかむと、湯着が肩からそっとずらされたのがわかった。目を閉じて、身を委ねる。
 途方もないくらいに熱くて熱くて、どうかなってしまいそうだった。

「それでいい」

 そして離れた兵長の唇がまた首を伝って移動して――そこで、はっとしたように動きが止まった。

 どうしたんだろう。急に。

「……へいちょう?」

 自分の声がぼんやりとしている。夢うつつだとどこか客観的に思った。

 そして夢心地な時間は一瞬で終わった。

「――俺は」
「え?」
「いつも、そうだな」

 まるで身体のどこかに痛みを伴っているかのように苦しそうな声に、私は目を見開く。

 同時にわけがわからずにいると、

「……身体、冷やすなよ」

 兵長は身体を離し、浴室を出て行ってしまった。

 まだかろうじて『着ている』と呼べる湯着の短い裾を握り、私はしばらくして声を上げる。

「……兵長?」

 一体どうしたというのだろうか。

 ああ、でも。痛みを伴うような、あの声は。
 確か、前にも聞いたことがある、あの声は。

「いつ、聞いたんだっけ……?」

 あんなに熱かった身体なのに、ひとりになるとすっかり冷え切っていた。


(2014/03/29)
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