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血染めの絆たち

 その日、予定ではハンジ分隊長による実験が行われるはずだった。しかし、肝心のエレンが巨人になれなかった。

「これは……痛そう……」

 噛みついて血だらけになったエレンの手を注意深く消毒して、包帯を巻いて手当てする。
 痛みを感じているわけではないのに、つい私まで顔をしかめてしまう。

「うっ」
「あ、ごめん」
「いえ、大丈夫です。すみません……」

 顔つきを険しくしながら、エレンはじっと包帯の巻かれた自分の手を見つめる。その表情が見ていられなくなって、思わずそっと手を握ってしまう。

「エレン、そんなに落ち込まないで」
「リーベさん……」

 傷に響かないように指先でそっと包帯を撫でていれば、そばにいるオルオさんに睨まれた。仕方がないのでゆっくりと離れる。

「あ、カップ足りないから取って来るね」

 言葉通りすぐに自分のカップを手に戻れば、エレンが落としたティースプーンを拾おうと身を屈めようとしていた。

「エレン、大丈――」

 すさまじい突風と熱風を感じた次の瞬間、私は頭に強い衝撃を感じて――そこで意識が途切れた。




 目を覚ませば、天井が見えた。ここはどこだろう。

「起きたか、リーベ」
「……ミケ分隊長?」

 何度か瞬きして、旧本部の医務室のベッドの上だと気付く。何かあった時のためにと用心して掃除をしたが、まさか自分が利用することになるとは。
 頭が鈍く傷んで手をやれば、そこには包帯が巻かれていた。

「あの、一体何が……」
「今から話す」

 ミケ分隊長の説明によれば、意識が途切れたあの瞬間、エレンが巨人化したという。その際の衝撃によって吹っ飛んだ机が私に直撃。頭を強く打ち、気絶していたそうだ。

「あのタイミングで巨人化? 一体どうして……」
「それを今ハンジが調査中だ。そして当然だがその巨人化は騒動になった。おかげでしばらくお前が机の下敷きになっていることを誰も気づけなかったらしい。ようやく事態が収拾して片付けようとなった時に、頭から血を流して倒れているのが発見された。――小さいからな、お前は」

 最後の一言はいらないと思う。確かにあの机は大きかったから私なんて綺麗に隠れただろうけれど。

「みんな心配していた。エレンなんか何度も謝っていたぞ」
「う……」

 それは想像するだけで胸が痛い。

「あと――さっきまでリヴァイがいた」
「そうですか」
「……奴のあんな顔は初めて見た」
「え?」

 一体どんな顔をしていたのだろう。

「結果的に大したものではなかったとはいえ、頭から出血したんだ。リーベ、しばらく安静にしているんだぞ」

 それからミケ分隊長は改めて言った。

「大事にならなくて安心した」
「……ご心配おかけしました」

 そこでミケ分隊長がまたゆっくりと口を開く。何を言われるか、すぐにわかった。

「リーベ、そろそろ本部へ戻れ。……ゲルガーも寂しがっているしな」
「それはお酒のおつまみ作る人がいないから困ってるだけじゃないですか? ……でも、そうですね」

 全く以て、その通りだ。旧本部へ来てもうすぐ二週間になる。訓練と業務の間を縫いながらも、おかげで掃除は粗方済んだ。たまに本部に顔は出しているけれど、これからは次の壁外調査の準備と調整も増えてくるし。
 だから、今、私がここにいる理由は――。




 改めて医療班の診察と注意を受けてから医務室を後にして、私は通路を歩く。
 頭以外には怪我がなかったことにほっとした。でも、血が足りないのかぼんやりする。それに加えて少し寒い。

 ちなみにシャツもジャケットも頭から流れた血ですっかり汚れ、染まっていた。ペトラが着替えさせようとしてくれたらしいが、その時は頭を動かすのが危険だと判断したのでやめさせたとミケ分隊長が言っていた。
 そんな我が身を見下ろせば、こんなに血を流したのかと驚いてしまう。同時に、こんなに血で染まってしまえばもうシャツもジャケットも処分するしかないと考えていると、耳に届いた複数の声。何を言っているかまではわからないけれど、とりあえずそこへ向かう。

 私がこんな怪我をして、たくさん謝っていたというエレン。ペトラは驚いただろうし、エルドさんも心配してくれただろう。グンタさんはきっと顔を青くしたと思う。オルオさんには馬鹿にされたかも。
 そして、普段見せない顔をしていたという兵長。

 みんなのいる広間の扉へ手をかけようとしたその時、はっきりとペトラの声がした。

「――私たちはあなたを頼るし、私たちを頼ってほしい」

 わざわざ中を覗かなくても、気配や様子から特別作戦班やハンジ分隊長たちがそこには勢揃いしているのがわかった。
 さっき起きたらしい、巨人化騒動のことが話されているのだとわかる。
 その声はエレンに向けられているであろうことも、わかった。

「私たちを――信じて」

 ペトラの言葉は、扉の外にいる私にも真摯に胸に響いた。きっとエレンにも届いただろう。
 だから――私はくるりと背を向け、ひとりで部屋へ戻ることにした。

「うん……決めた」

 さっきミケ分隊長が言った通りにしよう。つまり、そろそろ――本部に帰ろう。

 今の会話の断片を聞いて、もう大丈夫だと思えた。これまであった、彼らとエレンとの間にあった溝にも似た距離のようなものが、消えつつあるとわかったから。
 別に、彼らの間を橋渡しをしていたつもりはない。私はただ、以前からエレンを知っていたせいか、他の皆よりも不安視も危険視もしていなかっただけだ。
 それは兵士として問題があることだし、その楽観が今回の怪我を招いたけれど――そんな人間が、今のこの環境には必要だったと思う。エレンにとっても、特別作戦班にとっても。

 でも、もう大丈夫。私がいなくても、問題ない。私がここにいる理由は、もうなくなった。

 寂しいことだけれど、この感情は悪いものではないと思えた。
 私もまた、彼らを信じて、旧本部を離れよう。彼らは大丈夫。

 今はきっと、そこに絆がある。

「もう、私がいなくても大丈夫」

 自分だけに聞こえる声で呟き、満足して部屋へ向かう道すがら。背後で聞こえた足音に気づいて――驚く。

 嘘。何で。どうして。
 あの場所に、私は顔を出してもいないし声だってかけなかった。扉の前に立っただけ。
 それなのに、まるで私がいたことを知っているみたいに、明確な意図と共に追いかけてくる気配があった。

 誰だろう。――そんなことは考えなくたって、わかる。

 振り返ると同時に私は声を漏らす。

「兵長……」

 次の瞬間には、抱きしめられていた。

「具合は」

 短く問われて、答える。

「少し、頭を切っただけですよ。包帯もすぐ取れると言われました。全然、大したことはないんです」
「……これだけ血を流しておいてか」

 血に染まったジャケットを、兵長の手がなぞる。

「頭ですからね。ちょっとの傷で派手な出血に――」

 すると兵長が私の肩に顔を埋めた。
 乾いているとはいえ私の上半身は血で汚れているし、臭いもあるだろうに、まるで躊躇ない動きだった。そのことに戸惑っていると声がした。

「リーベ」
「は、はい」
「……俺は……いつも……」

 まるで身体のどこかに痛みを伴っているかのように苦しそうな声だった。
 この人のそんな声は聞いたことがなくて、私はどうすればいいのかわからなくなる。

「兵長……?」

 あなたは今、何を想っているの?

 そのうちにまた、強く抱き締められる。
 兵長は、私を離さない。

 戸惑っていれば、ふと強い西陽を感じてはっとする。

 ああ、そうだ。言わないと。

「あの……」
「何だ」

 意を決して、声にする。

「私――本部へ戻ります」

 いくらか間を置いてから、兵長が口を開く。

「……決めたのか」
「はい。もう大丈夫だと思うんです、みんな」

 旧本部での私の役割は終わった。それはあの場にいた兵長もきっとわかったことだろう。今後は迫りつつある壁外調査の準備や会議など、私にだって本部でやらねばならないことが増えつつあることも。

『俺はお前を離さない』

 あれが言葉の綾であることはわかっているのだ。私も、兵長も。

 でも、兵長。
 たとえ傍にいられなくても。
 心はずっと、あなたを想っているんですよ。

「――わかった。部屋は……そのままにしておけ」
「どうしてですか。片付けないと」
「……俺があそこで寝る」
「日当たりのいい部屋ですからね。わかりました」

 兵長はまだ、私を抱きしめる手を緩めない。

「楽しかったです、とても。本部とはまた違った環境で新鮮でした」
「なら、ずっと居ればいい」
「……そうですね。本当はそうしたい。ずっと、ここに。――でも、行かなきゃ」

 黙り込んだかと思うと、兵長が言った。

「もう少し、このまま」

 その言葉に私もおずおずと抱きしめ返せば、兵長がさらに腕に力を込めてくれた。ぎゅっとした力強さが嬉しくて、胸がいっぱいになる。
 ああ、身体が邪魔なくらいだ。愛しくてたまらない。

 この瞬間が永遠に続けばいいと思った。けれど、陽が沈むのはとても速くて。時間はこうして流れ去るのだと、告げられるようだった。

 その事実から目を逸らすように目蓋を下ろす直前に見えた、血の色をした夕陽。絶望を呼び寄せるような、不吉な色。

「…………」

 私から流れた血も、こんな色をしていたのだろうか。


(2013/12/13)
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