『マリア! 今日は出かけようぜ!』
目覚めた瞬間、懐かしいソルムの声が聞こえた気がした。マリアと喧嘩した時、いつもそう誘って二人で遠出したかと思えば仲良くなって帰って来てたっけ。
そんなことを思い出しながらさっさと朝食を腹に詰め込んで、ハンジの部屋へ向かう。今日一日について話すために。部屋に入ればハンジの部下に、他何人か、それにリーベもいた。
丁度いいと思っていたらさり気なく目を逸らされる。これからやろうとしていることを躊躇したが、そんな時間はないんだと強く自分に言い聞かせる。俺がこの時代にいられる時間は限られているんだ。
「今日は街を見て回りたい。休暇もらっていいか?」
俺の言葉にハンジは何度か瞬きをして、
「ふーん? 君みたいな仕事人間が珍しいね。もちろんそんな一日があってもいいと思うよ。技術班には話を通しておくし」
「助かる。それと、街の案内を頼みたい」
「そうだよね、誰がいいかな。今日の非番はケイジだっけ」
俺はもう一度リーベを見る。相変わらず目も合わせてもらえない。
「リーベ、お前がいい」
名前を呼べば、やっと俺を見てもらえた。だが、どうもぎこちない。
「……だめ、行けない。今日はミケ分隊長に頼まれた資料作りと厩の当番があるから」
「頼む」
「仕事、だから」
リーベが首を振って俺の心が折れそうになった時だった。
「ちょっと待ったー!」
唐突な大声に誰だと思ったらニファだった。
「アンヘルさん、五分、いえ、三分待って下さい」
「へ? 何が……?」
俺の返事を聞くことなくニファがリーベの手を引っ張って部屋を出て行った。そしてすぐに戻ってきた。三分よりも短い時間だった気がする。
「ちょ、ちょっとニファさん……!」
ニファに引きずられるように戻ってきたリーベは兵服じゃなかった。
淡い黄色のワンピースに白のカーディガン。鞄と靴も淡い色でまとめられている。
髪は一部編み込んで、つやつや輝いて――全身がやたらきらきらして見えた。
俺の目がおかしくなったのか?
心配になって何気なく手で目を擦っていたら、その場にいたグンタや他の何人かも同じことをしてたからほっとした。俺だけじゃないらしい。
ニファが満面の笑みで、
「これでよし! じゃ、行ってらっしゃい!」
「で、でも、資料は今日中にやらないと――」
「私が代わりますからご心配なく!」
「そんな、ニファさん非番なのに……!」
「来月、私と交代して下さい。気遣いは無用です」
リーベはニファにぐいぐい身体を押されて、問答無用で部屋を追い出されていた。俺も慌ててついていく。
「それでは楽しんで来て下さいねー!」
「ありがとな、ニファ!」
外へ放り出されて茫然と立ち尽くすリーベの手をつかんで、歩き出す。
「アンヘル、待って」
「待たない」
せっかくここまで出たのに帰られてたまるか。
「私、お財布持ってないから取って来ないと」
「あ」
そういえば俺も文無しだった。少し考えて、
「……いや、いい。取りに行くな」
「でも、お金がないとご飯も何も食べられないよ」
確かにその通りだ。でも、俺にはいつも身に着けている工具一式がある。
「何とかなるさ」
実際何とかなった。手近な広場で適当な板切れに黒石で遠目からでも見えるように大きく『何でも修理承ります(料金は応相談)』と看板を作って、木で出来た玩具が壊れて大泣きしていたガキ、丁度動かなくなった懐中時計を持ってきた初老の男、家に開かなくなった鳥籠があると走って取りに帰って持ってきた老婆、近くで動きが悪くなった馬車の部品交換――三十分で、二人分の昼食代になった。ま、こんなもんだろ。
「――これを、開けて欲しいんだが頼めるか?」
次に息を切らせてやって来たのは、血走った目の男だった。持って来たのは小型の金庫。珍しい型だ。どう見てもすぐに開けられる細工じゃない。
それに、何となく嫌な予感がした。
「……悪いが店じまいだ。他を当たってくれ」
そう言って工具一式を全部片づけた。金はいくらでも払うとか随分粘って言われたが、そんなことはどうでも良かった。
片付けを終えれば看板の処理をしていたリーベが隣へ並んで、
「良かったの? あの金庫、開け甲斐のあるものだったんじゃない?」
「そうだけど、今はいい」
「どうして?」
俺はリーベの手を握って、歩き出す。
「今は、こうしてたいんだ」
リーベが気に入っているらしいパン屋で食事を取ることにした。
「やっぱりここのパン屋さんはおいしい……!」
リーベが顔を綻ばせてパンを頬張る。俺も食べることにした。確かにうまいけど、リーベが作った方がいいな、俺は。紅茶もそうだ。だが別にそれはいい。喜ぶリーベを見て今日出かけることにした選択は正解だったと思いながら食事を終えて、切り出すことにした。
「あのさ、リーベ」
わかってる。こんな風に過ごした時間も俺は忘れてしまうこと。無意味だってこと。でも、それでも――
「それじゃアンヘル、帰ろっか」
「はあ!?」
店内の視線が集まるのがわかったが、それどころじゃなかった。
「な、何でだよ……! 何でもう帰るんだ?」
まだ何もしてねえし、話してもいないのに!
「このパン屋さんくらいしかこの辺りには特にないよ」
「いや、だとしても、ちょっと待て……!」
「それに――」
リーベが俺の背後を盗み見るようにほんの一瞬だけ見た。
「何だ?」
俺が振り向こうとすれば小声でそれを止められる。
「……店を出よう、アンヘル」
低い声だった。食べ終わって一息ついたことだし、店の前の通りを適当に歩く。
「次はどこ行く?」
「……アンヘル、さっきも言ったけど帰ろう」
「嫌だ」
なあ、ソルム。お前はマリアと何してたんだ。
ソルムに出来ていたことが俺にはまるで出来てないと痛感しながら歩いていると、空が曇って来た。このまま崩れるかもしれない。
「話がしたいなら、兵団に帰ってからちゃんと――」
言葉が途切れて、どうしたのかと思えばリーベは険しい表情になっていた。
「……私はわかってたけどわかってなかった」
「何が?」
「アンヘルが凄いこと、天才だってこと、稀代の発明王だってこと……あんな風に人目につく広場で何でも一瞬で直したり作る腕前を見せたら、それだけで目を引くのに」
「リーベ?」
「あの頃もそうだったよね、アンヘルの発明品目当てに強盗が工房へ来て――」
俺はやっと気づいた。リーベがとっくに気付いていたことを。
「今もこうして、アンヘル目当てにその力を奪おうとしている人がいる」
裏通りでもない、だが人気のない通りで俺たちは囲まれていた。一目でわかる、真っ当な人間じゃない。何人かは手に武器を持っている。その中にさっき金庫を開けるよう依頼して来た血走った目の男もいた。嫌な予感は当たっていたらしい。待ち伏せされていたのか? そんなに開けて欲しい金庫だったら開けてやるよ。でも、そんな空気じゃねえし、これは想像だが――あれは開けるべきじゃねえ。
「大人しくついて来い」
刃物を突き付けられながらの鋭い声に心臓が締め付けられる。
どうする? リーベの手をつかんで一気に突っ切って逃げるか? 無理だ、この数じゃ。
立体機動装置があれば上へ逃げられるのに。いや、そんなこと考えても仕方ねえだろ。
どうする? どうすればいい?
答えの出ない焦燥に歯をくいしばるしかなかったその時、すぐ隣を風が通り抜けた。
「アンヘルは、じっとしててね」
俺の後ろにいたリーベが前へ出ていた。ぽすっと腕に何か預けられたと思ったら、カーディガンと鞄だった。
「女に用はねえよ。女よりも金になるもんを俺たちは扱ってるからな。わかったらさっさと失せて――」
次の瞬間、男がひっくり返っていた。
続けてもう一人、宙を舞ったかと思うと地面に叩きつけられていた。
茫然としていたのは俺だけじゃなくて、周りの男たちも何が起きたのか理解するのに数秒かかっていた。その間に、もう一人倒れる。
やがて、
「こ、この女あああああ!」
つかみかかろうと最初に動いた男の顎へリーベが掌底をお見舞いした。結構な一撃で男の身体がぐらっと傾く。その隙を見逃さず、位置が低くなった頭にリーベが連続で回し蹴りを叩き込んだ。
『あんな小さいガキが兵士に向いてるって?』
『小柄な体格が必ずしも欠点になるとは限らない。例えばアンヘル、お前が今そう思っているな? つまり相手の油断に付け込むことが出来る』
『侮られるってことだろ。屈辱じゃないか』
『勝てばこっちのものだ』
現実逃避気味にそんなことを思い出している間にもリーベは右へ左へ上へ下へと敵の攻撃を素早く躱しながら、的確に攻撃を加えて倒して行く。今度は突進して来た相手を蹴り飛ばして、
「アンヘル、逃げて!」
その叫びで気づく。さっきより包囲網はまばらになっていた。今ならここから逃げられる。でも、
「お、お前を置いて行けねえよ!」
「私はいいから早く!」
そう言われても出来るわけないだろ。俺が動けずにいると、
「100人までなら、大丈夫!」
何の根拠があるのかそんなことを言いながら、禿げの男が持っていたナイフを次の瞬間じゃなぜかリーベが握ってそれを振るう。
確信した。勝つのはリーベだ。残りは最初の三分の一しかいない。
安堵したその時、
「なんだよこの女――おい、男をさっさと連れて行け!」
この場を仕切る声に従って二人の男がこっちに向かって来た。手には巨大な戦棍。あんなもんで殴られたらただで済まない。それなのに身体が動かない。
「っ!」
息を呑んだその瞬間、横から突き飛ばされた。
誰に? そんなの決まってる。
「リーベ!」
俺の代わりに腕で身体を庇うようにして打撃を受けたリーベだが、攻撃は常に躱したり受け流すのを主にしているこいつがそれに耐えられるはずがない。俺でもわかる。案の定、小さい身体は吹っ飛ばされて物凄い勢いで壁へ強くぶつかった。そして地面に落ちるように倒れた。ぴくりとも動かなくなる。
それを見てまともに呼吸が出来なくなる。時間が止まったように感じた。
嘘だろ。何で。こんな。
「やーっと動かなくなった……」
左目から血を流す小太りの男がリーベへ足を向ける。別の男が痛めたらしい肩を押さえながら、
「いってえ……おい、女は金にならねえぞ、どうするんだよ」
「憂さ晴らしだよ、クソ、思いっきり暴れやがって……目にものを見せてやる……」
そいつがリーベの服に手をかけたのが見えて、血の気が引いた。
「やめろ、そいつに触るな! お、俺が何でもするから……!」
「そりゃあ、お前にはこれから何でもやってもらうぜえ? 俺たちの金蔓になってもらわねえと」
服が破られる嫌な音がした。
誰か。誰か、助けてくれ。頼むから。俺のことはいいから。リーベを。こいつだけは守ってくれ。
「リーベ! 起きろ! 起きてくれ!」
「うるせえな、そいつ黙らせろ」
腕をつかむ手に噛みつくと、顔面を拳で殴られた。一瞬何も見えなくなって、口に広がる血の味でやっと意識を保つ。
そこから相手に飛びかかろうとすれば、後ろから蹴飛ばされてそのまま地面に転んだ。背中にのしかかられて、動けなくなる。
「ぐっ……!」
それでも抗って手を伸ばせば、容赦なく踏みつけられた。思わず呻けば、
「おい、腕は折るなよ、金庫開けてもらえないだろうが――っ!?」
その時、リーベの服をつかんでいた小太りの男が吹っ飛ばされた。
何でだ?
俺が茫然としてたら、
「――その人の手は、お前たちが踏みにじっていいものじゃない」
リーベが起き上がって、ゆっくりと立ち上がった。
頭からの出血に、顔の半分が真っ赤だ。綺麗な服はところどころ破かれて土にも汚れてぼろぼろになっていた。
だが、そんなことを感じさせないくらいに眼差しは苛烈だった。
決着は数秒もかからなかった。
その場に立っていたのはリーベだけになった。他にはもう、誰も動かない。
「一人で片付けられるとは思ってたけど……ちょっと油断、した……」
リーベが俺の前に立つ。
「大丈夫?」
「……ああ」
お前、俺のことより自分を心配しろよ、全身ぼろぼろで血だらけじゃねえか。
でも、言葉は声にならなくて。
リーベはさっき俺に預けた鞄から何か取り出したかと思うとそのまま頭上へ撃った。信号拳銃だ。顔を上げれば閃光弾。昼でも目を引く光だった。いや、もう一雨来そうなほど暗い空にはよく映えた。
「……もうすぐ治安維持の駐屯兵か憲兵が来る。これだけ言って。『調査兵のミケ・ザカリアス分隊長を呼べ』って」
「え? ――リーベ!?」
リーベが倒れた。俺は受け止めることも出来なかった。
(2017/07/21)
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