Novel
寂寞の季節

 方位磁針を眺め、私は白い息と共に呟いた。

「遭難した……」




 調査兵団に入団しても、訓練兵時代のようにあらゆる訓練メニューが用意されている。その中には任意で参加不参加を選択できるものがあり、その一つがこの雪山踏破訓練だ。文字通り、雪山を制する訓練である。
 今年度はミケ班全員が参加するから私もそうした。訓練兵時代と違うのは数人のチームで組んで行うのが、個人によるものへシフトしたことくらいだろう。

 そして訓練兵時代を懐かしく思いながら踏破訓練に挑んでいた私は、ひとり遭難してしまった。方位磁針が狂っていることに気付いたのだ。

「…………」

 暗くなってからの出発だったので、もう真夜中もとっくに過ぎている。なぜ危険な時間帯から開始して行ったのかといえば、過酷であるからこそ訓練は成り立つからだ。
 周囲の闇は寒さと共に深まるばかりだった。

「……さて、と」

 だが、慌てない。焦らない。私は人類の翼、調査兵団の兵士だ。
 何とかなるだろう。いや、何とかしてみせる。
 そのためにはまず――

「お腹、空いた」

 食糧を調達しよう。山の天気は変わりやすいと言うが今は吹雪いていないし、少しは大丈夫そうだ。緊急事態に備えた用意は全て、ちゃんとある。
 意識を研ぎ澄ませて注意深く周囲を観察すれば、冬眠から目が覚めたらしい耳の長い小さな獣が雪をさくさくと跳ねているのを見つけた。

「…………」

 私は、熊と遭遇した時のために装備が義務付けられていたライフル銃を構えた。




「――よし」

 黙祷を済ませ、私はナイフを手に取る。
 獣の皮や内臓など食べられない部分はちゃんと捌いて取り、空っぽになった中身は周りにある綺麗な雪でせっせと洗った。当然防寒手袋は外し、特殊手袋をはめて作業はすべて行う。我ながら悪くない手捌きだ。
 ゲデヒトニス家の元使用人を甘く見てはいけない。滅多に出来ないものの、狩りは貴族の娯楽の一つだった。よって使用人には彼らが獲った獣を処理する必要があったのだ。
 次に雪が薄く積もっただけの場所を見つけて掘って、固形燃料の代わりに小瓶から出した粉末に別の小瓶の液体を振りかけて火を熾した。大したものではない。信煙弾にも使われている薬品だ。
 遭難したのなら夜にも目立つ発光タイプの信煙弾でも撃って助けを求めればいいと思われるかもしれないけれど、私にも兵士の矜持というものはある。そもそも雪山如きで屈する者が壁外の巨人を前にして通用するのかという兵士間の暗黙の了解もあるし、頼る気にはならない。
 そんなことを考えながらナイフで削った枝へ肉を串刺しにする。じっくりと中まで火にかければ、獣の丸焼きの完成だ。本当はもっと手を加えたかったけれど贅沢は言わない。

「おいし……!」

 空腹と言う名の最大の調味料と非常食の塩で味付けがかなり効いていた。もくもくとひたすら食べる。

「ごちそうさまでした。……よし、早く何とかして集合場所に――」

 完食して気合を入れた瞬間、びゅっと冷たい風が吹いた。

「さ……」

 冷寒地使用の装備でしっかりと身を包んでいるにもかかわらず、震えてしまう。

「さみしい……」

 言葉にしてはっとした。

「ち、違う、間違えた」

 ぐっと歯を食いしばる。そして言い直した。

「寒い……」

 冬は、あまり好きじゃない。特に夜は。

「私は……」

 ひとりだ。

「おい」

 その声に目を見開いた。
 背後を振り返れば、

「お前……これは一体、どういう状況だ……?」
「兵長!?」

 間違いなく兵長だった。




「……指針通りに歩くだけの雪山踏破訓練で方位磁針が壊れて遭難したのはわかった。だが一人で豪勢に野外食とはどういうつもりだ」
「野戦糧食ってあんまり美味しくないので、その、士気を高めるために……」

 私が雪の上で正座しながら説明すれば兵長は嘆息して、視線を前へ戻す。

「ついて来い、集合場所へさっさと行くぞ」
「は、はい」

 どうやらいつの間にか一般兵用の道順から難易度の高い幹部コースへ足を踏み入れていたらしい。兵長と会えたことは運が良かった。いや、方位磁針が壊れていた時点で最悪だったから良いも悪いもないか。
 火を消したり周囲を片付けて歩き出せば、兵長がじろじろと私を眺めながら言った。

「……リーベ。お前、俺より随分前に出発して雪山歩き回って遭難したくせに、ちっとも弱ってねえな」
「ええ、まあ」

 身体に疲労は蓄積されているが、さっき食事をしたおかげでまだまだ動ける自信はあった。食べることは偉大だ。
 でも、力が漲るのはそれだけの理由ではないと思う。もう寒くはない理由と同様に――兵長がそばにいてくれるから。

「幹部コースは一般兵とどう違うんですか?」
「坂や崖が多くなるだけだ。あとは≪山の覇者≫と呼ばれる凶暴な熊が出る可能性があるらしい。――ここ何年も見た人間はいねえとエルヴィンは言っていたがな」
「ああ、熊ですか」

 私は背中のライフル銃を意識した。

 そうして二人でさくさくと雪の上を進むうちに夜が明けた。
 朝の始まりに私たちは揃って足を止める。
 昇る太陽へ目を向ければ、

「わ、ぁ……!」

 世界が、輝いていた。
 空はどこまでもやわらかい色に染め上げられて、周囲の雪はまるで光を宿しているようだ。

「きれい……」

 景色でこんなに感動したのはいつ以来だろう。

 呼吸も忘れて見つめていると、隣にいる兵長の視線に気づく。

「兵長。見てください、あの空の色」

 空から視線を逸らせないまま、私は言った。

「黄金に輝いて……空は、あんな色にもなるんですね」

 兵長へ顔を向ければ、視線がぶつかった。

「……兵長、こんなに綺麗な色なんですからちゃんと見てくださいよ。今しか見られませんよ?」
「――お前が」

 兵長が言った。そして私の頬へ空いた手を滑らせる。いつの間に手袋を外したのだろう。あたたかい手のひらだった。

「そんな顔、してるからだろうが」

 一体私はどんな顔をしているのだろう。わからないまま私は兵長の手のひらに心を委ねる。

 冬は、あまり好きじゃない。
 でも――この季節だから、あたたかさは尊くて。
 こんな風にぬくもりを得られるのは奇跡と同じことだと、私は知っている。

「――冬は、こんなことが出来るからいいですね」

 私は頬へ触れる兵長の手に、そっと自分の手のひらを重ねれば、

「別に季節なんざ関係ねえだろ」
「え?」
「冬以外でも……春も夏も秋も同じことをしてやる」

 冗談かと思えば、兵長の顔はどきりとするくらいに真剣だった。心臓に悪くて、慌てて目を逸らす。

「……夏は、暑いですよ」

 そんなどうでもいいようなことを私が口にすれば、

「それがどうした。――俺のしたいことだ」

 当たり前のことを話すように、兵長がそう言った。




「全員無事帰還。これにて今年度調査兵団雪山踏破訓練終了。――あのさ、ミケ」
「どうした、ハンジ」
「私はさ、遭難したリーベの話を聞いて、最初は『もしや衰弱して倒れたところをリヴァイに発見されて、近くの山小屋で裸になって温め合ったとかそんな楽しい話が聞けるのかなー』って思ったんだよね。ところがどっこい、微塵もそんな気配はなく無事に訓練を終えて帰って来た、ということだったんだ。これについてどう思う?」
「…………」
「あはは、やだなあ、冗談だってば冗談。たくましいよ、あの子は。だから雪山くらいでどうにかなるはずがない。わかってるよ? わかってたよ? ちょっと想像力豊かになってみただけだよ? だからそのおっかない顔はやめてくれない?」


(2014/03/27)
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