Novel
本当の世界が待っている

 この報告書を戻しに行ってくれ、とミケ分隊長に頼まれた私は兵団地下の書庫へ来ていた。

「第34回壁外調査報告書に関する補足かー。『イルゼ・ラングナーの戦果』? これってどのあたりに戻せばいいんだろ……」

 あちこち探しまわってようやく見つけた元の場所。そこへ過去の報告書をしまう。
 さあ戻ろうと背を向けた瞬間、視界の端で何かを見つけた。それは書類の奥で埋もれる、一冊の書物だった。

「何でこんなところに――あ」

 空色の表紙を開き、ぱらりと中身を改めて、私は目を見開く。

「これ、禁書だ……」

 外の世界の情報を得ることは、現在の王政府の方針としてタブーとされていた。
 でも、だからといって気にならないといえば嘘になる。それに私はこの手の類の本を読んだことがないわけではなかった。かつて仕えていたゲデヒトニス家でアルト様がこっそり読ませて下さったこともある。

「ちょっとだけ……いいよね?」

 自分を抑えることができなかった。開いた本を閉じることなく、私はページをめくる。

「わあ……!」

 そこに記されていたのは夜空にかかる虹のことだった。

「嘘、そんな綺麗なものが、本当に……?」

 高揚し、時間を忘れて書物に没頭する。そこには俄かに信じられない、美しい世界のことがたくさん記述されていた。
 禁書にすっかり魅せられていたせいだろう。だから私はその気配に気づかなかった。

「おい」
「ひゃあ!」

 低い声に思わず悲鳴を上げて禁書を閉じ、背中に隠して振り返る。

「何をしている」
「兵長……」

 よりによって一筋縄ではいかない相手とは。

「いえ、あの……ミケ分隊長に過去の報告書を戻すように指示されたので、ここに」
「ほう。お前はそれだけの仕事をするのに二時間もかかるのか」
「二時間!」

 時計を見れば、確かにそれだけの時間が経過していた。どうやらすっかり禁書にのめりこんでいたらしい。

 どうしよう、隠せない。でも、隠さなきゃ!

「すみません、仕事に戻ります!」

 逃げよう。

 私は禁書の存在に気づかれないように身体で隠しながら、兵長に背を向けてその場を離れた。スタートから全速力で。

「俺から逃げられると思っているのか?」
「――あ」

 どうして。
 どうして背後にいたはずの兵長が目の前にいるの?
 その疑問に答えは出ないまま、胸に抱いた書物を取り上げられた。兵長が表紙へ視線を落とす。

「これは……」
「ごめんなさいごめんなさいごめんなさい! ここで見つけて魔が差して! どうか憲兵団には連れて行かないでください……!」

 身も世もなく頭を床へ擦り付けるように土下座すれば、呆れたようなため息が聞こえた。

「連れて行かねえから起きろ。汚ねえな」

 腕を引っ張られて、私は起き上がる。
 憲兵団行きはなくなったとしても、どんな処分が下されるだろうかとうつむいていれば、禁書が差し出された。

「返す」
「え……? 何で……」
「読みたきゃ読めばいいだろうが」

 その言葉に私は目を見開く。

「……読んで、いいんですか」
「壁外の情報は有るに越したことはない。俺たちの戦場だ。憲兵団の連中に怯えるならうまく隠しときゃいいだけだろ」
「は、はい……」

 私が禁書を受け取って安堵すれば、呆れたように兵長はため息をついた。
 取り乱して見苦しいところを見せてしまったと私は苦笑しながら、禁書の表紙へ視線を落とす。

「兵長はご存知ですか? 世界って本当に広いんですよ。壁の中だと想像もできないものや現象が、たくさんあるんです」

 まるで物語の世界みたい。
 夢や希望に想いを馳せていると、兵長が口を開いた。

「――いつか、行くか」
「え?」
「巨人を絶滅させたら、そういったものを見に行くのも悪くない」

 兵長の言葉に、思わず呼吸を忘れた。

「そ、それって……私、と?」
「他に誰がここにいる」

 その約束は、私にとって、あまりにも幸せすぎて――。

「だめです」

 言葉が勝手に口をついて出た。

「だって兵長は……たくさんの人と未来の約束してるから、これ以上約束が増えると大変ですよ」

 壁外で死にゆく兵士の数だけ、兵長が自らに誓いを科していることを私は知っていた。
 だから私だけが嬉しくて、幸福な約束を受け入れることはできなくて。兵長の負担を増やすわけにはいかない。

「さすがの人類最強でも潰れちゃいます。だから、私との約束はいりませ――」

 その瞬間、首の後ろに兵長の大きな手が回された。強く引き寄せられたかと思うと、唇が塞がれそうになって――私は慌てて後ろへ下がる。
 思わず口元を庇うように手で覆えば、兵長が舌打ちした。

「おい、てめえ……」
「兵長っ、何で、また……!」
「今のは黙らせたかったからだ」
「じゃあ、前のは何だったんです?」

 私が誕生日の時のことを問い詰めれば、兵長はさらりと答える。

「前のは薬を飲ませるためだ」
「え? あ、熱出した時もキスしたんですか……!」
「お前が起きねえからだろうが」
「う……」

 私はうつむく。兵長の顔が見られない。
 混乱が止まらなくて、ただそれだけの理由で『だめ』だと思ってしまう。
 嫌じゃ、ないのに。

 私は兵長のものになりたいのに。
 求められるのなら応じたいのに。

「だ、だめですよ、こんなこと……」
「なぜだ。理由を言え」
「私、また熱が出ます」
「…………」
「兵長が、わからなくて……」

 自分でも言葉にならない感情が込み上げて、それ以上声にならない。
 すると兵長が息をついた。

「これでは約束に反するな」
「え?」

 約束? 誰と?

 わけがわからずにいると、兵長が言った。

「リーベ、確か二週間後に内地へ使いに行くだろう」
「はい、エルヴィン団長からそう指示されていますけれど」

 今後の予定を頭に描きながら答えれば、

「俺も行く。そのつもりでいろ」

 それだけ言うと、兵長はさっさと書庫を出て行った。

 私はその場に立ち尽くす。しばらくして禁書を元あった場所へ戻しながら考えた。

「そのつもりって……どんなつもり、なのかな……」


(2013/09/16)
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