Novel
予覚
最近、兵長に呼び出されたかと思うと掃除でも洗濯でもお茶でもなく「そこへ座れ」とだけ命じられることが多くなった。どうも先日の膝枕が気に入ったらしい。
相変わらず私にとっては心臓に悪い体勢だけれど、ちょっとした休憩だと思えるくらいには穏やかな気持ちで過ごせるようになった。慣れとは恐ろしいものだ。
この日も一定の時間が経過して、私は兵長に「起きてください」と声をかける。
そしてこれから洗濯物を取り込みに行こうと考えていた直後のことだった。
兵長の顔が私の上にあった。――おかしいな。さっきまでは見下ろしていたはずなのに。
「リーベよ」
「はい、兵長」
「お前は男が怖くないのか。昔、襲われかけたんだろう」
私は少し考えて、
「その通りですけれど、別に恐怖症ではありませんね。そんなだったら男女なんて関係ないこの環境にはいられませんし」
「確かにそうだな」
「……多分、あの状況が異常だったんですよ」
思い出したくはないが憶えている。目つきから、全身ににじみ出る様子まで、理性のある人間ではないそれ。言葉に当て嵌めるのならば狂気だろうか。
「だったら、また異常な状況にならないとわからないか」
「そうですね、わかりませんけれど」
できればもうあんな目に遭いたくないな、と思うが。
それに私だって兵士として鍛えているので、その辺の男に対して簡単に負ける気はしない。
「ところで」
「はい」
「これは異常な状況とは呼ばないか」
「あー……押し倒されていますね、私」
そう、現在私は兵長に馬乗りにされていた。
何があったというわけではない。手を引かれたと思った次の瞬間には、この体勢になっていた。痛みも衝撃もなく、一瞬のことだったので最初は何が何だかわからなかった。
「怖くないのか」
「怖がらせたいんですか?」
「質問に答えろ」
「……怖くないですよ、全然」
正直に言えば胸が苦しい。でも、それは恐怖や嫌悪とは無縁の感情――安心感とぬくもりで満たされていた。
「……何て顔してやがる」
「どんな顔ですか」
「心底俺を信じ切ったような顔しやがって」
「そりゃあ、信じますよ。兵長は私を蔑ろにすることはしないとわかってます」
そう告げれば、兵長は表情を変えることなく口を開く。
「もしも……」
「え?」
「もしも、俺がお前を襲った男と同じ状態で同じことをしたら――お前は俺を殺せるか」
何を言っているのだろう、この人は。
「そんなこと、兵長はしません」
「答えになっていない。質問に答えろと言っている。同じことを言わせるな」
「…………」
兵長は何を聞きたいのだろう。
一体何を確かめたいのだろう。
『心臓以外は何もかも、兵長のものです。この人がいるから今の私がいます。私が私でいられます』
『だからこれからもこの場所で、兵長のそばで生きていたいです。最期まで、ずっと』
前触れもなく、いつかアルト様に告げた自分の言葉が脳裏によみがえる。あれはすべて本心だったのだと今さら気づいた。無意識に口に出た言葉だったから、これまで深く考えていなかったのだ。
ああ、そうだ。私は兵長のものになりたい。
そしてその想いと同じくらいに、この人を求めている。
「……殺せま、せん」
だから、そんなことが出来るはずなくて。
どんなことがあっても、それはきっと変わらない。
「だって、私にとって兵長は――」
言葉を紡ごうとした次の瞬間、重いノックの音が部屋に響いた。
私ははっとする。誰かにこの状態を見られるわけにはいかない。私はともかく兵長の沽券に係わる。
慌てて起き上がろうとしたが、まるで動じずにいる兵長に阻まれた。
兵長は扉の外へ誰何する。
「誰だ」
「俺だ。リーベに用がある」
ミケ分隊長だ!
「ここにはいねえ。さっき出て行った」
さらっと嘘をつく兵長。
声もその態度もまるで普段通りなのでいっそ感心してしまう。
「そんなはずはない。リーベの匂いがここからする」
「!」
いつも無駄に人の匂いを嗅いで鼻で笑っていたわけではないらしいと判明して私は衝撃を受けた。そんな能力が使えるなんて……! 巨人に対してだけ有効じゃなかったんだ……!
兵長は舌打ちすると「少し待て」と扉の外へ告げた。それからようやく私から離れた。
押し倒された時に乱れた髪を慌てて直して、私は部屋を出る。
「お呼びですか、ミケ分隊長」
「ああ、ナナバとゲルガーに頼んでいる仕事をリーベも手伝え。二人は第三倉庫室にいる」
それだけ告げるとミケ分隊長は兵長の部屋へ入ってしまった。
「あー……」
今しがた起きたこととミケ分隊長にどこまで悟られたかと想像すると、顔に熱が集中する。
ナナバさんたちと合流するまでに何とかしないと。そう思いながら私は第三倉庫室へ向かった。
「あ? リーベ。お前、何しに来た?」
「ゲルガーさん、私はミケ分隊長に指示されて来ました。何をすればいいですか?」
「備品の在庫確認。でも、三人も人手が必要とは思えないかな」
「本当ですか、ナナバさん……」
そこでようやくミケ分隊長は私を追い払いたかったんだと気づく。きっと兵長とでも大事な話があったのだろう。だったら最初からそう言えばいいのに。
兵長の部屋で交わされている会話の内容など知る由もなく、私はようやく洗濯物を取り込みに行くことにした。
「何だ。俺ではなくリーベに用があったんだろ」
「リーベに何をしていた、リヴァイ」
「ミケ。お前はあいつの父親か」
「大事な部下だ。軽い気持ちで手を出されては困る」
「……手は出しちゃいねえ」
「過去が過去だ。本人も気付かないところでも傷ついている可能性がある」
「あいつはお前の考える以上に強い人間だ」
「それでもだ。彼女を傷つけることも、振り回すことも許すつもりはない。あの子に助けられている者は多いしな」
「――わかった。いいだろう」
「ああ、なら構わない」
「要は、軽い気持ちでなければいい話だ」
「…………」
848年が、終わる。
(2013/09/11)