鐘よ今こそ鳴り響け
「ところで、あんなに小さくて可愛い女の子の顔を殴る男の気が知れませんね。知りたくもありませんが」

 ソルムとマリアがそれぞれの兵団へ戻り、足りなくなった部品の買い出しをリーベに行かせると、部屋に残ったゼノフォンが唐突に言った。

 いつぞやのマリア以上のことを見抜いたので俺は驚いて隣を見る。

「何で男だってわかるんだ」
「ほっぺのガーゼを交換している時にちらっと見ただけですけれどね。痣の大きさや濃さで力加減とか色々わかりますよ」

 ゼノフォンは飄々と口にした。
 こいつを得体が知れないと思うのはこんな時だ。

「アンヘル、気づいていましたか?」
「は?」
「あの子の怪我、ちっとも治癒していない」

 俺の言葉を待たずにゼノフォンが言った。

「不思議でしたが、わかった気がします。一向に治らないのは未来の人間だからではないでしょうか」
「どういうことだ」
「時が流れることで傷が癒えるなら、むしろ過去に遡って留まっている以上、治るものも治らないという意味です。……まあ、こじつけただけで本当のところは何もわかりませんけれど」




 数日後。
 外の用事から戻って工房の外を眺めていると、ふわふわ漂うシャボン玉が視界の端に入った。
 誰がそんなもので遊んでいるのか、考えるよりも前にわかった。

 俺は薬品の並ぶ棚から一つ小瓶を選び、外へ出る。シャボン玉の発生源に近づけば、予想通りリーベがいた。

「アンヘル、髪がぼさぼさ」
「……マリアみたいなこと言うなよ」
「直してあげるから屈んで」

 仕方なく言われた通りにしてやって、ついでにそばに置いてあった小皿へ持って来た薬を数滴垂らした。

「これで一分は割れなくなる」
「本当?」

 リーベは嬉しそうに笑った。
 俺の髪を直してから、またシャボン玉を吹き始める。少しすれば、あっという間にそれで囲まれた。

「わあ……!」

 顔を輝かせているリーベを眺めてから、俺はその頬へゆっくり手を伸ばして――そこに貼ってあるガーゼをテープごと剥がした。

「っ」

 リーベが息を詰まらせる。それだけで痛みが走るのか、顔を歪めた。

「急に、何……」

 隠すように自分の頬へ手を当てて、俺の視線から逃げるように目を伏せる。

「………」

 ゼノフォンが言った通りだ。仮にリーベが落ちてきた最初の日に怪我を負っていたとしても、これだけ日数が経過すればもっと治っていてもいいはずなのに――痣はくっきりとそこにあった。顔だけではなく、跡は包帯だらけの身体にもあることは想像に難くない。

 俺はため息をついた。

「未来の時代には――お前をこんな風に殴るヤツがいるのか?」
「…………」

 リーベはしばらく黙り込んでから、

「もう、いない」

 ぽつりと呟くように言った。

 訓練兵団へ入団して生活環境が変わったからなのか、そいつ自体がもう『いない』のかはわからなかったが――それ以上は聞かないことにした。

「それなら、大丈夫だな」
「え?」
「帰れよ、リーベ。未来に」

 はっきりとそう告げれば、リーベは震えるように何度も首を振った。

「や、やだ。嫌。帰りたく、ない」
「……リーベ」
「帰りたくない。ここにいたいよ、アンヘル」

 一心に祈るような声だった。

 周りにたくさん漂っていたシャボン玉がどんどん割れて、風が吹くだけの通りになる。

「帰らなきゃだめだ。お前、怪我治ってねえだろ。この時代に来てから、治りが止まっているはずだ」
「治らなくていいから」
「馬鹿なこと言うな」
「ここにいたい、いさせてよ」
「……なあリーベ」

 俺は屈んで、リーベの目線に合わせた。

「怖がらなくても大丈夫だ」

 言い聞かせるように、ゆっくりと言葉にする。

「お前が生まれた時代は、お前を拒んだりしない」
「……拒まれてるよ」

 弱々しい声だった。

「窃盗団の人が言ってたこと、間違ってないと思う」
「は?」
「だって、ああ言われたのは初めてじゃないから。『死ねばいい』って。『殺してやる』って」

 うつむくリーベの表情は見えない。小さな拳が強く握られて白くなっていた。

『こんなガキ一人が生きたところで何になる! 死んだところでどうした!』
『ああ、全く以てその通りだ! せめて――ここで俺たちに殺されとけよ!』

 窃盗団のろくでもない言葉を思い出していると、数日前のリーベの言葉もよみがえる。

『人の命は複雑だね。――簡単に扱われることもあるのに』

 きっと、その命を軽んじられたことがあるんだろう。
 だから、暴力と、言葉の暴力を知っているんだろう。

「あの時代に私はいらない。私は、死んだ方がいいって言われるような人間だから。だから、帰りたくない」
「リーベ……」
「生きてるだけなのに、生まれただけなのに……それが正しくないの? 間違ってるの? そんな風に思いたくないよ。だから……私は、私をちゃんと受け入れてくれる人たちと、一緒にいたい」
「…………」

 もう、いいんじゃないか。
 リーベが望むなら、この時代で生きることに力を貸すべきだ。

 そう思う自分がいるのは嘘じゃない。

 でも――

「――それでも、俺にはわかる。お前はお前が生まれた時代でも大丈夫だ」

 痛みを感じさせないように気をつけて、柔らかい頬を指先でなぞった。

「だって、お前はこうして生きている。お前がちゃんと強いからだ」

 生き残ることが強さの証明だと俺は知っているから。

「……どうして、そんなこと言うの」

 リーベが顔を歪める。泣くかと思ったが、そうではなかった。ただ、消えてしまいそうなほど弱々しい声だった。

「私は『ここ』にいたいのに……私がいなければいいって、思ってるから?」
「馬鹿、違う」

 俺が強い口調で言えば、リーベがびくりと肩を跳ねさせた。だが、『制限時間』を思うと構っていられないのでそのまま続ける。

「よく聞け。リーベ、お前がいたら楽しいよ。工房の使い勝手は良くなるし、食事もちゃんと摂るようになった。たとえ何があったって、何とか出来るようにも思える」

 こんな日々がずっと続けばいいと本気で思う。

「……だからこそ俺は今の先にある未来を否定したくない。これからの時代、お前が逃げたくなるような世界になることを肯定するわけにはいかないんだ」

 俺は続けた。

「この時代に不満はある。作りたいものは作らせてもらえないし、ままならないことばかりだ。だが、これから満足出来るようにしてみせる。そんな風に昔より今、過去より未来が幸せなんだと信じたい。これからいい時代になるはずだと思いたい」

 リーベが首を振った。

「それでも、私はこの時代がいいよ。未来なんてどうでもいい。アンヘルがいて、マリアがいて、ソルムがいて、ゼノフォンがいて――」
「リーベ」

 俺は宥めるように名前を呼んだ。

「断言してやるよ。いつか『生まれた時代に生きて良かった』って、そう思える」
「思えない、思えないよ」

 駄々をこねる子供のように首を振るから、俺は切々と言葉を重ねることしか出来ない。

「世界はさ、広いんだ。壁の外だって、どこまでも広がっている」
「そんなの、知らない」
「知らなければ知るべきだ。お前はまだ世界を知らないんだから」
「みんな、壁の中にいるじゃない」
「じゃあいつか人類が壁の外へ行けるようにしてやる」
「そんなの、いくらアンヘルでも無理だよ」

 そこで俺は胸を張って言ってやる。

「――常識ってやつは書き換わるんだ。そのために技術は存在する」

 前にも口にしたその言葉を、ゆっくりと繰り返す。

「巨人が倒せないという常識も、俺が書き換えてやる」

 きっと、そうしてみせる。

「だから人類は壁の外へ行ける。いつか、絶対に」

 宣言するように俺ははっきり言葉にする。

「お前が未来の時代を生きられるようにしてみせるから」
「アンヘル……」
「俺を信じろ」

 発明王の呼び名なんか、周りが勝手につけたものだ。俺もゼノフォンも気にしちゃいない。

 でも、それでも、まだしばらくはこの称号を次へ譲る気にはならない。

 何か――結果を残すまでは。

「今はまだ何も出来てないが……それでも、諦めることはしない。これからやり遂げてやるんだ」

 そのために何度邪魔されて、何度打ちのめされて、何度絶望しても。

「俺は信じるよ。――未来の時代を」

 リーベを未来の時代へ返すことは俺のわがままだ。
 ただ俺は未来の時代を否定したくないだけだから。

 生きていたくなくなるような世界になると信じたくないから。
 いつか礎になるこの時代が意味のあるものだと信じたいから。

「…………」

 リーベが唇を引き結んで何も言わなくなった。

 懐中時計を見れば、鐘が鳴るまであと少し。もうすぐだ。『解放の鐘』が点検を終えて鳴らされる時間をさっき聞いてきたから間違いない。

「なあ、空を飛んでみたいと思わないか?」

 そんなことを訊ねながら俺はリーベの小さな身体を両手で抱えた。あまりの軽さに羽根でもあるのかと思ったが、当然そんなものはない。

「へ?」

 ぽかんとしているリーベに、俺はにやりと笑ってみせる。

 時は来た。

『解放の鐘』の音が鳴り響く。


(2015/09/10)
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