いつまでもこの時間が
「早朝勤務お疲れ様ですリコ班長! 俺が愛情たっぷりに作ったサンドイッチを持ってきましたよー!」
冬が近づく、とある朝のこと。
人類と巨人の境界線――ウォール・ローゼの上にいるリコ班長の元へ俺はバスケットを抱えてリフトを上がった。
満面の笑みで駆け寄れば冷たい視線をぶつけられる。
「どういうつもりだ、こっちはまだ勤務中――」
「今朝はちゃんと食べてなかったと聞きまして! ダメですよ、兵士は身体が資本! ほら、許可はちゃんとイアン班長にもらいましたから」
俺は壁上へ座ってから料理長に借りたバスケットの中身を広げて、
「紅茶も持って来ましたっ」
ポットカバーを外してカップへ紅茶を注ぐ。
リコ班長は仕方なさそうに俺の隣へ腰を下ろして、
「……お前、わざわざ茶器まで持ってきたのか。そんなに面倒をかけなくて良かったんだ。私は水袋でも満足したのに」
「あなたのためなら苦労も手間も惜しくありません」
やれやれとため息をつきながら、リコ班長は熱々の紅茶を口にする。次にサンドイッチにかぶりついてしばらく味わってから、
「なあハイス。私も他の連中も自炊くらいは出来るが、それと比較すればお前の作るものはいつも味が優れている」
「毎日俺の作ったものを食べたいだなんてそんな嬉しいこと言われたら――はっ、もしやこれは逆プロポーズ!?」
盛大に殴られた。拳で。
「勘違い甚だしい上に人の話は最後まで聞け」
「ずみまぜん」
「茶の淹れ方や調理を訓練兵団で鍛えられたとお前はよく口にしているが、一体何があったんだ? 少なくとも私の訓練兵時代にそんな講座はなかった」
「あー、それは……」
頬をさすりながら俺は話し始めた。
「実家は貴族じゃないけど金はあったんですよね。だから十二歳までは不自由なく暮らしていました。で、家の体面を保つために憲兵団狙いの訓練兵になったんですけど、身の回りのことは何も自分で出来ない状態だったんですよ。その上、無駄に舌も肥えてたから食事も飲み物も身体が受け付けずに体調も崩して……」
苦笑しているとリコ班長が鼻を鳴らす。
「入団した時点から脱落組候補だったというわけか」
「ええ。それである日、見かねた同期が助けてくれたんです」
「どうやって?」
「俺が食べられるものに料理を作り直してくれたんですよ。おかげでどうにか持ち直しました。それからは身の回りのことを色々教えてもらって、食事も自分が満足出来るレベルのものは作れるように腕を上げたわけです」
その頃のことを思い出して、ほっとする。当時は大変だったが、今となっては楽しい思い出に変わっていたからだ。
「最初はどうなるかと思いましたがそのうち訓練の内容にもついていけるようになって、無事に卒業することが出来ました。脱落しなくて本当に良かったと思います」
俺は満面の笑みを向けた。
「だって、リコ班長に会えた!」
新兵勧誘式の日。
俺はまだはっきりと覚えている。
目の前にいるこの人が、世界で一番輝いて、誰よりも綺麗に見えたこと。
ずっと見つめ続けて、ずっとそばにいたいと心の底から強く思ったこと。
だからこんな風に同じ時間を過ごせることが幸せだ。
本当に、幸せだ。
俺の感じる幸せが、この人にも届いたら良いのに。
リコ班長はサンドイッチを黙々と食してからゆっくりと紅茶へ口をつけて、
「なるほど、理解した。ずいぶんと変わり者の同期がいたものだな」
「それを言ってしまえば俺を精鋭部隊に引き抜いて下さったリコ班長もじゃないですか? 俺は知ってますよ」
「……誰に聞いた」
「ふっふっふ、ミタビ班長です」
いつまでもこの時間が続けば良いのに。
そんなことを思っていれば、壁外へ出るために調査兵団が門の前に集結していることに気づく。もうそんな時間か。
見知った顔がいねえかと思って下を眺めるが、距離が距離なので全然わからなかった。
リコ班長が懐中時計で時間を確認して、
「ハイス、開門の鐘を鳴らす合図を出せ」
「了解ですっ」
指示通りに俺は離れた場所にいる兵士へ両手を回して合図を送る。その合図がさらに別の兵士へ伝達されていく。
「開門三十秒前!」
調査兵団の団長――エルヴィン・スミスだっけ? そいつの声がここまで轟いた。
そして門が開かれる。
「これより第54回壁外調査を開始する! ――前進せよ!」
エルヴィン団長を筆頭に続々と調査兵が続く。
そのうち一列だったものが、ぐわっと左右にも広がった。
長距離索敵陣形だったか? 上から見ると壮観で迫力があった。
自由の翼を背負う兵士たちが見えなくなるまで眺めてから、俺は視線をさらに前方へずらす。
「朝日が綺麗ですねー。ずっと見ていたいくらいです」
「そのうち完全に日が昇る。短い時間しか見られない景色だからそう思うんだ」
「違いますよ、リコ班長と一緒に見ているからそう思うんです。――訓練兵時代の雪山訓練で見た朝日も綺麗でした。あの時はきっと死にかけて、もう二度と太陽なんて見られないと思ったからでしょうね」
するとリコ班長は怪訝そうな顔になって、
「死にかけた? 凍傷にでもなったのか? 或いは――《山の覇者》にでも襲われたか」
その言葉に俺は驚いた。
「おお、ビンゴ! リコ班長すげえ! もしかして俺の愛のテレパシーを感じてくれましたか! そうなんですよ、俺は《山の覇者》と出会ったんです」
「……私は冗談を言ったつもりだったんだがな。ちょっと待て、《山の覇者》に襲われただと? あれは獰猛な人喰いだ。生きて逃れられるはずがない」
「あー、ええと……」
そこで俺は考える。
この人なら言ってもいいかな?
周りに誰もいないことを確認して、俺は内緒話をするようにリコ班長に耳打ちした。
「あいつ、実はもう生きていないんですよ。俺の目の前で死にました」
「…………」
眼鏡の奥の瞳が眇められる。信じられないという顔だった。
「内緒ですよ、誰にも言わないで下さいね?」
「待て待て、ありえない。おかしいだろう。あれは容易に殺せる相手じゃないんだ。それに、あの大熊がいなくなれば雪山訓練の価値は半減すると言っても良い。教官たちが散々それで脅して訓練兵をふるいにかけるからな」
「ですね。だから箝口令が出されたんですよ。死んだことは伏せられて、まだ生きていることになってます」
リコ班長は俺の顔をじっと睨んでから考え込むように眉を寄せた。それからため息をついて、
「仮に信じるとして――どうやって殺した? あれはどんな狩人の弓矢や猟師の弾丸も避けてしまう獣だろうが。だから誰も殺せなかった」
「そうですね。でも、つまりは弾丸を避けられないようにすれば良いじゃないですか」
「何を言っている?」
「こういうことですよ」
ぷに、とリコ班長の頬へ俺は銃に見立てた指先を当てた。
「距離をなくして撃ったんです。零距離射撃ってやつですね。脳天へきっちり一発お見舞いした接射ですよ。このくらいまで近ければ避けられないでしょう?」
名残惜しかったけれど、すべすべで触り心地の良い頬から俺が手を離せば、
「ハイス。それはお前がやったのか?」
その言葉に俺は首を振った。
「まっさかー。そんな力量、俺にはありません。同期です、同期。ま、そいつが図らずもそんな偉業を果たせたのはハイス・シュッツヴァルトという素晴らしい囮がいたからですけど」
「……これは私の想像だが、お前は単に腰を抜かしていただけじゃないか?」
さすがリコ班長。俺のことをわかってらっしゃる。
リコ班長は深く息をついて、
「訓練兵団へ入団しただけで衰弱したお前を助けたヤツといい、他にも《山の覇者》に接近戦で挑むなんて度胸のある変わり者がいたものだな」
「や、あの――」
その時、冷たい風が吹いた。高い壁の上だから地上よりもずっと強い。
俺は盛大にくしゃみをしてからぶるりと震えて、
「うー、さぶ。冬が近いですねえ」
「そのうち年も越すからな。当然だ。――おい、何をにやにやしている。気味が悪い」
「今年もリコ班長と過ごせたことが嬉しいんですよ」
849年。
今年も良い一年だったと俺は思った。
(2014/10/23)