■ 王子様の役割
「一週間が経ったけれど、やっぱり不思議。イリスがイリスじゃないみたい……」
呟くようなクリスタの言葉にわたしは首をすくめる。
「今のわたしじゃだめかな?」
「そうじゃないよ! そうじゃなくて……」
クリスタが言いよどんでいると、ユミルがどこからともなくにゅっと出てきた。
「要するにつまらねえ人間になったってことだよ」
「ちょっとユミル! 何てこと言うの!」
クリスタの声に耳を貸さずにユミルは続ける。
「前のお前を見ていると、そりゃあ私は楽しかったな。冷や汗かいたりひたすら困ってるベルトルさんのオプション付きだとさらに愉快だった」
「へ、へえ、そうだったんだ……」
要するにわたしはベルトルトをとにかく困らせていたらしい。
「例えばだ、イリス。バカ夫婦の代名詞、ハンナとフランツを見てどう思う?」
「うーん。仲睦まじいな、って思う」
「前のお前なら『わたしもあんな風になりたい!』って嫉妬と羨望に満ち満ちた声を発していたんだがな」
そこでユミルは何かを思い出したように、
「そういえば、記憶をなくした時と同じ衝撃をまた頭に与えればその記憶が戻るらしい」
「え、もうあんな痛い思いするのは嫌だよ!」
「おっと、こんな所に丁度良さそうな分厚い本が。『アンヘル・アールトネンの功績』か」
「待ってユミル! 落ち着こう! 助けてクリスタ!」
「わ、ちょっと二人とも!」
わたしがクリスタの後ろへ逃げ込めば、ふざけるのを一旦やめてユミルが言った。
「一つ教えてやろう。明日は前までのイリスがずっと楽しみにしてた日だ。面白そうだから見学に行こうかと思っていたんだがな、残念だ」
「……何かあったっけ」
特に変わった訓練や行事はなかったはずだけれど。
「イリスとベルトルさんと水汲み当番」
翌日。わたしはベルトルトと井戸の前にいた。水汲みは結構な力仕事だ。一回ならばいざ知らず、回数が重なるとこれが侮れない。
わたしは頭を働かせることにした。
「分担しよう。わたしが汲むからベルトルトはひたすら往復して運んで。そっちの方が大変だろうけれど、この方が早く終わると思うし。どう?」
「わかった」
そう提案すればベルトルトはわたしの言った通りに動き始めてくれた。
黙々と互いに作業に徹していると、
「イリス」
「何?」
「……何でもない」
「そう?」
よくわからないやり取りを挟みつつ、ようやく必要な量の半分も過ぎたかという時のこと。戻って来るベルトルトを待っていると、
「見つけたぞ、イリス・フォルスト……!」
誰かがわたしの名前を呼んだ。顔を向ければ、そこにいたのは小太りのおじさんだった。
「……はい?」
誰だろう。知らない人だ。
でも、この記憶はベルトルトみたいにぽっかりと消えた記憶ではなくて、単に思い出せない記憶のような気がする。
誰だっけ、この人は。
「お前が逃げて縁談がおじゃんになったせいで俺の人生が狂っちまった! どうしてくれるんだっ」
「は?」
「今からでもまだ間に合う――いや、間に合ってもらわねえと困るんだよ。さあ、来い! お前の家へ行くぞ!」
その時になって、はっとする。ようやく思い出した。
そうだ、わたしは――こいつと結婚させられそうになって、それが嫌で訓練兵になったんだ!
「し、知らない……! わたしは関係ない!」
無意識に叫んで、どうしてこいつがこんな所にいるのかと思考が真っ白になる。
後退りすれば強い力で手を掴まれた。
「無関係ぶってるんじゃねえよ! おかげで取引先は全部リーブス商会に持って行かれちまった! お前の家と手を結べば俺はより大きな商いが出来たものを!」
「やめて、離してってば!」
太い腕に思いっきり噛みつけば、
「このクソガキ!」
「あ!」
ものすごい力で突き飛ばされた。
がんっ、と強く井戸に頭をぶつけて、わたしの身体は地面に崩れ落ちる。
「う、ぐ……」
倒れている場合じゃないとわかっているのに、とにかく頭が痛くて身体が動かない。
「手間をかけさせやがって……」
ぼんやりとする視界の中で、男が手を伸ばして来る。このまま連れて行かれるのだとわかった。
嫌だ。そんなのは、嫌だ。
こんなやつと結婚なんてしたくない。
だってわたしは――いつか出会う好きな人と一緒にいたいから家を飛び出したのに。
その意思で、ぐっと手のひらに力を込める。
起きるんだ!
頑張れわたし!
自分に負けるな!
しかし決意は頭の痛みを前に霧散する。
ああ、これ、頑張る頑張らないの次元の話じゃない気がする。身体が自分のものじゃないみたいに動かない。動けない。とにかく頭が痛い。
ついにまた腕が掴まれた。そのまま引っ張り上げられる。
どうしよう。
誰か――助けて。
お願い――ベルトルト!
心の中で叫んだその時。
じゃり、とブーツの底が地面を踏みしめる音がした。
「何だお前。でけえガキだな」
「……同期ですけれど」
低くて、やさしい声。
それは何よりも聞きたかった声だった。
「ベ、ル……」
ベルトルトは地面に転がって起き上がれない私を見て驚いたように目を丸くしてから、また商人の男を見た。
そしてゆっくりと口を開いた。
「……僕の寝相はとても悪いです」
「ああ? 何言ってやがる」
わたしも思った。ベルトルトは何を言っているの?
「今朝は近くで寝ていた仲間に技を極めていたらしいです。――だから」
ベルトルトの身体がすっと動いた。
「彼女から手を離さなければ、僕はその技をあなたにかけます」
対人格闘の構えを取るその姿には隙がない。改めて彼が成績上位に君臨し続ける兵士なのだと実感する。
もちろん私の胸はときめいた。
男は鼻を鳴らして、
「お前には関係ねえだろうが。さっさと失せろガキ」
「僕にこんなことを言う資格はないかもしれない。でも、断言出来る。その子は104期訓練兵の仲間です。いなくなると、皆が心配します」
「ああ、わかったぞ。お前、馬鹿なんだな」
すると男はわたしを離し、懐から取り出したナイフを閃かせてベルトルトへ突進した。が、こんなやつはもちろんベルトルトの敵ではない。
決着は、一瞬。男はあっという間にねじ伏せられて、情けない声を上げていた。
「キース教官、不法侵入者はこっちでーす」
軽い口調に顔を向ければ、なぜかユミルがそこにいた。そして呼ばれた教官が数名やって来て、ベルトルトの代わりに男を抑え込む。
わたしは相変わらず地面に倒れていて――ようやく起き上がることが出来た。
そして、
「ベルトルトー!」
そばにいる大好きな人に飛びついた。
「ありがとう、本当に、ありがとう……! 助けてくれて、ありがとうっ、大好きっ」
「え、イリス?」
どさくさに紛れて抱きつくわたしに、ベルトルトが驚いたような声を出す。
「もしかして……記憶が戻った?」
私は首を傾げた。
「何のこと?」
そういえばさっきぶつけられた頭が未だにものすごく痛い。
それに最近の記憶が何だか曖昧だ。穴ぼこだらけのような感覚。
「う……」
全身の力がまた抜けそうになって、後ろへよろめく。頭を押さえていると――身体が浮いた。
「あ、れ?」
いつの間にかユミルがわたしを抱えていた。
「ベルトルさん、イリスを医務室へ運んでやってくれねえか? 私はクリスタと約束があるんだよ」
「え? ……ああ、うん」
わたしが戸惑っている間に、今度はベルトルトの腕の中へ。
そして彼はユミルの指示通りにわたしの身体を運んで歩き始める。
「じゃあなー」
にやにやしているユミルがどんどん遠ざかって行った。
「…………」
ええと、つまり、これは。
お姫様抱っこだ!
舞い上がって、次の瞬間には頭がまた痛んで冷静になる。
「大丈夫?」
「うん……」
頭を押さえつつ、わたしはすぐそばにある横顔をじっと見つめた。
ベルトルト。
あなたはわたしの王子様。
でも決して、わたしはお姫様じゃない。
わたしはただのつまらない商人の娘だ。
でも、それでも――王子様のあなたがいてくれたら、わたしはただの女の子でいられることが何よりも嬉しくて、幸せで。他には何もいらなくて。
「ありがとう、ベルトルト」
泣きそうな声になりながら、わたしはぎゅっと彼の首元に抱きついた。
(2014/06/12)
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