■ 喪われた感情

 訓練中、教官によって故意に命綱やアンカーを切られる「闇討ち」というものがある。

 ある日のこと、わたしはそれを見事にくらった。対処出来れば良かったのだけれど――パニックに陥ることしか出来ず、高所から落下した。
 頭が潰れたかと錯覚するくらいに強く打ち付けて、そのまま気絶。奇跡的に意識を取り戻せば医務室だった。骨折も深い傷もなく、我ながらよく助かったものだと思う。死ぬ人もいるからね、これ。

 医師の診察を終え、わたしが闇討ちに遭った瞬間を目撃した19班と34班の面々が次々にお見舞いに来てくれた。でも人数が多いのはだめだと医者に言われて、現在ここにいるのはマルコ、エレン、アルミン、ミカサだ。ミカサはどちらの班でもないがエレンがいるから来たのだろう。

「あの瞬間、寿命が縮まったよ……」
「マルコ、ごめんね」
「イリスはもっと謝れ。雪山訓練といい、お前はマルコに心配しかかけてねえだろうが」

 エレンが腕組みをしてわたしを見下ろす。彼の言う通りだと思うのでわたしはもう一度マルコに謝ると、

「僕は班長失格だ……」
「そんなことないよ! マルコが班長じゃないとわたしは訓練兵でやっていけないっ」
「イリス、安静にしていないと。マルコもそんなに落ち込まないでよ」

 アルミンがわたし達の間に入って、それぞれを落ち着かせる。

 そのうちに誰かが医務室へやって来た。ダズがまた負傷したらしい。その付き添いの男の子はものすごく背が高くて驚いた。

 そこで違和感が走る。

 あれ? もう訓練兵も二年目なのに、どうしてまだ知らない人がいるんだろう?

 するとエレンが意外そうな声を上げた。

「へえ。お前がベルトルトを追い掛け回さないこともあるんだな、イリス。ましてや声もかけねえとは」
「え?」

 その言葉にわたしが驚くと、

「あいつを見れば一目散に駆けて行く、もっと見境ないヤツだと思っていたよ」
「ちょっとエレン、君って人は……! ごめん、イリス」
「いや、別にいいけど……」

 そのうちエレンとアルミン、マルコの三人が明日提出締切の座学課題について話し始めた。
 闇討ちに遭ったんだし課題の締切を伸ばしてもらえないかなあと狡く考えながら、わたしはそばにいるミカサを仰ぐ。

「ねえミカサ」
「何?」
「ベルトルトって誰だっけ」

 その瞬間に見たミカサの表情を、私はずっと忘れないだろうと思った。




「記憶喪失!?」
「本気かよお前!」

 ミカサがしばらく沈黙してから周りにぼそぼそと何かを告げるなり、信じられないと声を上げるアルミンとエレン。マルコは口を大きく開けている。一体何をそんなに驚いているのだろう。

 記憶喪失? わたしが一体何を忘れているというのか。

「覚えてるよ。アルミン・アルレルトにエレン・イェーガー。マルコ・ボットにミカサ・アッカーマン」
「じゃあ彼は?」

 ミカサが引っ張って連れてきた背の高い男の子を指差す。彼は居心地悪そうに立っていた。わたしのせいで無理やりここに連れてこられたらしく申し訳ない。

「ええと……」

 誰だっけ?
 さっきエレンとミカサから名前を聞いたばかりなのにもう忘れてしまった。

「完全に忘れているね、イリス」
「そんなことないよ、マルコ」

 わたしの言葉にマルコは困ったように眉を寄せる。

 もう一度医師に診察してもらったけれど、やはり異常はないらしい。

「何でこいつがベルトルトだけを忘れるんだ……むしろ他のすべてを忘れてもベルトルトのことは忘れねえ気がしてたんだが」
「想いが強いからこそ忘れたのかもしれないよ。推測だけれど」

 エレンとアルミンのやり取りにマルコが口を開く。

「問題はこれからどうするかだ」

 その言葉にわたしは首を傾げた。

「これからって?」
「……思い出そうとは思わないの?」

 そう言われてわたしは考えた。

「特に生活に支障なさそうだし……」
「思い返せばこれまでだとベルトルトの生活に支障があったよな。イリス絡みで何度こいつの困り顔を見たことか」
「エレン、黙ってて」

 幼馴染の二人に抑え込まれるエレンを横目にわたしは続ける。

「これから同期として普通に過ごしていくのはどうかな」
「……ベルトルトはどう思う?」

 マルコが背の高い彼へ問いかける。

「僕は、別に……」

 どうやら彼は自分で決めようという気がないらしい。どっちでも良いのなら、これでいいとわたしは思う。

 憮然としているのはマルコ、アルミン、エレンだけだ。ミカサは最初こそ驚いていたが、今は特に表情を変えることなくエレンのそばに控えている。

 その場は解散することになって、わたしはマルコと医務室から食堂へ向かう途中にふと訊ねた。

「ベルトルトに関する記憶失う前のわたしは、どんなだった?」
「うーん」

 考えるようにマルコは天井を見た。

「目がきらきらしてたよ」
「……今は?」
「いや、今だって綺麗な瞳だよ。その亜麻色の髪と同じくらいにね。でも、何て言えば良いのかな。――たった一人の記憶を失っただけで別人みたいだ」
「……そのわたしに戻るために記憶を取り戻した方が良いと思う?」

 するとマルコは、

「それは難しい質問だね」

 何だか複雑そうな顔をしたのだった。




 同期たち曰く、わたしはベルトルトという男の子に恋をしていたらしい。
 そしてマルコが指摘したように今は別人みたいだと口々に言われる。

 食堂のみならず女子兵舎でもそれは同じで、どれも適当に受け流していたが、

「イリスがベルトルトの話をしないなんてよっぽどお腹が空いているんですね。一緒に食料庫へ行きますか?」

 サシャの言葉には苦笑するしかなくて、

「もしも私がエレンやアルミンのことを忘れてしまったら、きっと思い出したいと思う」

 ミカサの言葉には何て言えば良いかわからなかった。

 わたしには、これが普通なのに。

「何だかイリスがいなくなっちゃったみたいだね」

 呟くミーナの言葉に、

「何言ってんの」

 こん、とアニが軽くミーナの額を小突いた。

「この子はちゃんとここにいるでしょ」

 アニの言葉にじーんと感動していると、彼女は青くて綺麗な目でわたしを見上げる。

「あんたがこのままで良いなら、別に記憶を取り戻さなくても良いんじゃない? このままで良いならね」
「う、ん……」

 このままで良いんだよね?

 そこでふと思い出す。

 そういえば。
 わたしはどうして訓練兵になったんだっけ?

 そんなことを考えながら消灯時間前に外を散歩していると、曲がり角でばったり出会ったのは――わたしが忘れてしまったベルトルトだった。

 びっくりするくらい背が高いのに、どこか希薄な空気を持つ男の子。

 月明かりの下でじっと見つめていても、特に胸が高鳴ることはない。

「ねえ」
「……何?」

 ひとつ、訊ねることにした。

「わたしは思い出した方が良いのかな、あなたのこと」

 自分で決めるべきだとわかっている。
 でも、わたしは彼に聞いてみたかったのだ。――その答えを。

 ベルトルトはしばらく黙り込んでから、ゆっくりと口を開いた。

「……僕は君の気持ちに応えたことがないから」
「――ふうん。そうだったんだ」

 つまりこの人に対する感情は報われることのない恋だったというらしい。

「なら、このままの方がいいね」

 わたしの記憶は戻らない方がいいのだ。


(2014/06/01)
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