■ 真実の欠片

 バカはわたしだ。

「あーああー……何やってんだろ……」

 あれから、たった一人でこうして訓練兵団へ戻って来た。

 右手が痛い。でも心はもっと痛い。

「ベルトルトも痛かっただろうな……」

 明日、謝らなくちゃ。
 でも、今日は無理だ。

 とぼとぼと歩いていると、向かいから本を抱えてやって来る男の子がいた。マルコだ。
 マルコは私を見て目を丸くした。

「あれ? もう帰って来たの?」

 何気ない、当たり前のその言葉が、

「え、イリス!?」

 わたしの涙腺を決壊させた。




「――って、ことがあったの」
「そんなことが……」

 誰もいない訓練場の隅に腰を下ろしたわたしは、マルコが貸してくれたハンカチに顔を埋めながら話し終えた。

「あーもう! わたしのバカ! 何やってるんだろっ。バカみたい、バカみたい! もう、ベルトルト好きでいるのやめるっ。やめるんだから!」
「ええと……」
「哀しくて、苦しくて……そもそもベルトルトはわたしのことを何とも思わない以上に何とも思っていないなら、わたしはどうすればいいの? 気持ちを受け入れてもらうどころか、それを認めてもくれないなんて、どうしようもないじゃない! そうでしょう? どうしてわたしはこんなにベルトルトが好きなの!?」

 どうしよう、自分で自分が何を言っているのかわからない。感情の暴走をマルコに押し付けて申し訳ない。

 どこか冷静に客観視している自分自身が心の隅ににいるのを感じながら、わたしはまたハンカチに顔を埋める。嗚咽が止まらない。

 そんなわたしの隣で、マルコはしばらく黙り込んでから、やがてゆっくりと言った。

「たとえどうにもならなくて、どうすることも出来ないとしても――それでも、イリスはベルトルトを好きでいることはやめられないと思うよ」

 その言葉に、わたしはぐしゃぐしゃになったハンカチから顔を上げる。

「どうして? どうして!」

 喚くわたしに、マルコはやさしく言った。

「僕にも好きな女の子がいるからだよ。そして彼女を想うことをやめられない」

 一瞬、涙が止まった。

「……初めて聞いた」
「誰にも言ってないからね。――ジャンは気づいているみたいだけれど」

 マルコはくすりと小さく笑う。

「『もったいない』って言われたことがあるから」
「そんなに良い女の子なの? マルコでさえ手が届かない高嶺の花?」

 誰だろう、とわたしが目元を拭いながら首を捻っていると、

「いや、逆らしい。ジャンは、その……僕を高く評価してくれていて、その子に僕はもったいない、だって」

 その言葉にわたしはつい怪訝な顔をしてしまう。

「……どうしてマルコはそんな子が好きなの。やめておきなよ。ジャンも認めるマルコにぴったりお似合いの人がいると思うんだけれど」

 するとマルコはそっと目を細めた。やさしい表情だった。

「僕にとって、ありのままのその子が一番だからだよ」
「……そっか」

 何となく、マルコが言いたいことはわかる。
 わたしも、ベルトルトそのままが好きだな。
 そんな風に、心から想うことが出来るから。

 その時、

「ああ、こんなところにいた」

 誰かが傍に来た気配がした。

「――ほら、冷やしときな」

 アニだ。
 夕日の中で輝く金髪が本当に綺麗で。わたしはつい見とれてしまう。

「あ、りがと」

 白い手から冷たい水袋を受け取って、未だ痛む手に当てる。ひんやりして心地いい。

「ベルトルトが戻って来て、話が嫌でも耳に入ってきたんだけどね。――乙女がよく拳で殴るもんだよ。普通やるなら平手打ちだと思うけど」
「あはは……」

 曖昧に笑って、それから両隣を眺める。

 マルコとアニとわたし。

 訓練兵生活三年目にして初めての組み合わせだ。

「じゃあ、僕は行くよ。またね」
「あ、マルコ。ハンカチはちゃんと洗って返すから。――ありがと」

 マルコはやわらかく微笑んで、兵舎へ向かった。

 その姿が見えなくなって、私は手を冷やしながらアニへ顔を向ける。

「ベルトルトも帰って来たんだよね? あの、その……みんな、どうだった?」

 わたしがベルトルトにしでかしてしまったことは、どんな風に104期へ広まっているのか。

「……コニーが責められてた」
「な、なぜに?」
「命令出した張本人だから、『どうするんだこれ』って」
「……ベルトルトは?」

 おそるおそる訊ねると、アニは首を傾げる。

「何が?」
「だから、その……ベルトルトはどうしてた?」
「ん? いや……ライナーに頬を冷やされてたよ」
「怒ってた?」
「ライナーはぶつぶつ言ってたけど、ベルトルトは特に」
「そっか」

 何となく、そんな気がした。あの人はたとえ理不尽に殴られても、やさしすぎる。

「ベルトルトの心の大きさって超大型巨人並みだよね」
「…………」
「……あの、今の発言には突っ込みが欲しかったんだけど」
「そうかい、気づかなかったよ」

 ふいにその時、よみがえる記憶があった。

『アニはとても小柄だけれど、ライナーを投げ飛ばすくらいに強いし』

 気づけばわたしは口を開く。

「ベルトルトのこと、どう思う?」

 するとアニは少し眉をひそめて、

「デカい」

 たった一言で簡潔に答えた。

「うん、確かに大きいよね」

 わたしはうなずいて、また思い出す。

『どこまで大きくなるつもり?』
『60m、とか』

 つい思い出し笑いをしてしまいそうになって、わたしはアニに説明する。

「この前、ベルトルトと身長の話をしたら60mまで大きくなるとか言われてびっくりしちゃった。ベルトルトが冗談を言うなんて」
「…………」
「アニ?」
「ベルトルトがあんたにそんな話をしたの?」
「え? うん、そうだけど」

 するとアニは何だか怒ったような顔つきになった。一体どうしたんだろう。

「まったく……心配すべきはライナーだけじゃないね、これは」
「ん? 何か言った?」
「何でもないよ」

 アニが兵舎へ戻ろうと背を向けた。

「じゃあ、先に戻るから」
「わかった。――アニ」
「ん?」
「ありがと」
「……どういたしまして」

 冷やした手は、冷たい。
 でも、何だかあたたかいと思えた。




 翌日。
 わたしは食堂でひとり、もさもさとパンを食べていた。

 誰にも昨日のことを聞かれないのは、きっとマルコとアニのおかげなのだろう。そう思う。

 スープを飲んでいると、

「隣、いい?」
「どうぞー」

 適当に返事をして、誰が座ったのだろうと視線を向ければ、

「…………」
「…………」
「もう恋人のふりはしなくていいんだよ?」

 ベルトルトがそこにいた。

 訓練兵生活三年目、初めてのことだ。

「そうだけれど」

 ベルトルトはパンを一口サイズに千切って、静かに食事を始めた。

「僕なりに、何もかもすべてを嘘にはしたくない。だから今、君の隣に座ることにしたんだ」
「…………」

 つまり。

 何もかも、なかったことにはならないらしい。

 そのことがあまりに嬉しくて、それなのに、

「そっか」

 としか言えない私なのだった。

 昨日のことをちゃんと謝るのは後にしよう。
 今は、決して嘘の関係ではないこの時間を噛み締めていたいから。


(2014/07/23)
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