ウォール・シーナの魔女 | ナノ

未来はわからない


「いててて……」
「師団長、我慢して下さい」

 血が滲む頬へ容赦なく消毒する部下に俺はつい顔をしかめた。

「お前な、もっと上官を労って優しくしろよ」
「偽物占い師の処遇はどうされますか? 今は医務室で眠らせていますが、その後は地下牢へ?」
「……起きる頃には娘を心配してた両親が迎えに来るはずだ。刑罰に処するまでもねえよ」
「しかし――」
「被害は俺だけだろ? 一瞬気絶しただけで鼻も腕も骨に異常はない。怪我も表面的なものだけだ。まあ、地味な傷ほど痛いがな」

 すると部下はため息をついてから、

「《ウォール・シーナの魔女》もとんでもない置き土産を残してくれましたね」
「言葉に気をつけろよ。《魔女》がもうどこにもいねえみたいに話すな」
「……すみません」

 救急箱をしまう部下を眺め、鼻を冷やしながら俺は言った。

「それに――《魔女》が悪いわけじゃねえだろ」
「え?」
「未来が必ずしも幸せだと限らねえように、未来を知ることが良いこととは限らねえんだ」
「どういうことです?」
「《魔女》の前に立つ時、そして未来に耳を傾ける時は、相応の覚悟をすべきってことだよ。誰だってそうだ」

 偽者占い師の血走った目と一緒に、過去の自分を思い出す。
 俺だって最初、悪いことは言われないだろうと踏んでいたからな。

「幸せな未来だけ夢見ているのが甘いんだ。――だから《魔女》に罪はない、と俺は思う」
「何だか《魔女》の肩を持ちますねえ」

 そこで俺は部下へ問いかけることにした。

「……なあ、お前の嫁さんが世界中の敵になって恨まれたりしたらどうする?」
「僕は妻の味方になりますよ」

 部下は即答した。
 俺は頷く。

「――ああ、それでいいんだ」

 たとえそれを世界中の人間が間違いだと叫んでも。
 きっと、何より正しいことなのだと俺は思いたい。




 顔の傷もほとんど治った、ある日の昼下がり。食べ損ねた昼食の代わりにパンを買いに行こうと憲兵団本部の通路を歩いていると、正面から声をかけられた。

「どうした、壁外から戻った兵士のような顔をして」

 誰かと思えばキース・シャーディスだ。かつては調査兵団の団長、今は訓練兵団の教官だったか。

「……俺は壁の外を知りませんよ」
「だが、その顔には疲労と絶望が色濃い」

 ゆっくりと俺の傍を通り過ぎ、長いコートが視界から消える。

「お前はまだまだこれからだ。不甲斐なさを嘆くには早いぞ」

 どうやら励まされたらしいと気付いたのは、いつものパン屋へ着いてからだった。今は順番待ちをしているところだ。看板娘が俺の前の客に明るく接客している。

「まあハンネスさん。ウォール・ローゼからわざわざ来て下さったのね」
「おうよ、知り合いのガキ共に食わしてやりてえんだ。ここのパンは美味いからな! まだ『一日十食限定季節のパンセット』は残ってるか?」
「ありますよ。最後の一つです」

 会話を聞くともなしに聞きながら舌打ちする。
 いつか買おうと思っていたパンは今日も買えなかった。
 だが同時に、それを食わせてやりたい女が今はいないことを思い出す。

「アンカ、俺はピクシス司令の昼食を買いにわざわざ内地まで来るために参謀になったのだろうか」
「司令のおしめを交換することになるよりはずっといいわよ、グスタフ。私たちもついでにお昼にしましょう」

 近づいて来る会話に視線を向ければ、駐屯兵団の参謀たちがいた。ピクシス司令は相変わらず自由だな。

「あーあ……」

 ふと先ほど聞いた言葉がよみがえる。

『その顔には疲労と絶望が色濃い』

 相変わらず《ウォール・シーナの魔女》――あの女は見つからない日々だ。心身共に疲れていることは否定しない。
 だが、どれだけ憔悴しても腹は減る。現に腹が鳴った。

 次によみがえるのは、あの女と初めて会った時のこと。

『俺は結婚、出来るか』
『無理ね』

 思えば最初から、ずっと綺麗な瞳だと俺は思っていたんだ。
 だから、きっと――

「嫁さんはいらねえからお前に会いてえよ……」
「あらあら。諦めたらそこでどんな未来も途絶えるわよ」

 聞き覚えのある声がした。
 ずっと聞きたかった声だ。

 空耳か?
 俺は幻聴まで聞こえ始めたのか?

「私の視た未来を回避すると言ったのはどこのどなただったかしら」

 その言葉に、俺はほとんど音速で振り返る。
 そこにいたのは――

「師団長さん、こんにちは」

 重たげな布を被っていないが間違いない。

 俺の後ろにいたのは綺麗な瞳の女だった。

 間違いなく、本物の、そして何よりも焦がれた姿だった。

 声も言葉も失っていると、女は綺麗な瞳を細めた。

「ばったり会えるものねー。師団長さんや兵士の方がよくこのお店のパンを持ってきてくれるから私もすっかり気に入っちゃって」

 そして女は呑気にパンの並ぶ棚を眺めている。
 俺はこいつしか目に入らないというのに。

「お、おい……!」

 やっと出た声は自分でも情けないくらいに震えていた。
 女はきょとんとしている。

「何かしら?」
「お前、無事だったのか……? 地下街の連中が……!」
「ん? ああ、それはね」

 すると女は思い出すように話し始めた。

「未来を視る対価に『情報』をもらったの。地下街のお客さんに『ここで暴れる予定だから』って聞いてね。だから抗争が始まる前に逃げてたわよ。今は場所を変えてやってるの。でも、場所が場所でとてもわかりづらいから全然お客さんが来なくて退屈で――おっと、びっくりした」
「無事で良かった……!」

 年甲斐もなく女を抱き締めて、何やってるんだと自分でも思う。少しは場所をわきまえろということも、わかっている。だがそれでも、この手を離すことは出来なかった。

「自分の身くらい守るって言ったでしょうに」

 やれやれというように女がため息をつく。

 普通、男に飛びつかれたら驚くか悲鳴でも上げるもんだと思うがな。まあ、いい。

「うるせえ、兵士でもねえ女のそんな言葉を簡単に信じると思うな」
「あらら、そんなに心配してもらえるなんて私ってば幸せ者」

 この女にもう二度と会えないかもしれないという不安や恐怖から解放されると、ふと頭を過ることがあった。

 こいつは――女神か? 亡霊か? 人間か?

「…………」

 構わねえよ、何だって。

 女神だろうが亡霊だろうが。

 こうして抱きしめられるなら今は充分だ。

 そこで女が俺の顔とその背後をじっと眺めて、

「怪我をしたの? 机を投げられたり災難だったみたいね」
「そういやお前、未来だけじゃなく過去も見えるんだったな。――何でそうなったかの理由まで全部わかっちまうのか?」
「いいえ。私は『視る』だけ。『聴く』まで出来ないわ。だから今みたいに情報が足りなくて詳細がわからないこともあるわね。それにこの力、いつだって完璧に働くものではないのよ。人間だもの」
「人間、か……」
「ええ」

 女神だろうと何だって構わねえと思ったばかりだが、やはり人間の方が都合良い。

「そりゃあ良かった。――あああっ!」

 思わず声を上げる。
 この女に訊ねたかったことを思い出したのだ。

「何よ」
「そうだ。そうだった。俺、わかったかもしれねえんだよ!」
「はい? 何のこと?」

 身体を離してまっすぐに見つめれば、女が眉を寄せる。

「言ったよな、お前。――『自分の未来はわからない』って」
「ええ、そうね」
「それはつまり……」

 俺は改めて考える。

 こいつが俺の嫁さんになる未来があるのだとしたら。
 だから結婚する俺の未来が見えなかったのだとしたら。

 そう考えるのは――さすがに都合が良すぎるか?

 だが、俺はあの日、それを訊ねるために歩いていたんだ。

「なあ」
「何かしら」

 俺は口を開いて――何も言葉を発することなく閉じた。

「どうしたの?」
「……何でもねえよ」

 やはり未来を聞くのはやめることにした。
 どんな未来だろうと俺のすることは変わらねえからだ。

 その代わり、宣言することにした。

「……俺はいつか、結婚するからな」

 相手はもちろん誰でもいいわけじゃねえ。

「ええ、応援しているわ」

 女は綺麗な瞳を細めて美しく笑う。
 こんなに綺麗なものを、俺は他に知らない。
 誰が何と言おうが、世界で一番綺麗なものだと思う。

 だから俺ははっきり言ってやった。

「お前のまだ見たことのない未来をいつか見せてやるよ」

 そのために、ずっと続くだろう未来を知るより先にやらねばならないことがある。

「なあ、聞きてえことがあるんだ」

 すると女は鷹揚に頷いた。

「いいわよ。――あなたはどんな未来を知りたいのかしら」
「いや、そうじゃねえ。聞きたいのは今のことだ」

 俺は言った。

「お前の名前を教えてくれないか?」

 すべてはここからだ。

ウォール・シーナの魔女 完
(2014/03/31)
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