お前の心臓は誰のものだ?
その日、私はウォール・ローゼの南に位置するトロスト区へ来ていた。メイド長に頼まれたお使いである。王の御膝元であるシーナの街でも、何もかもすべてが売ってあるというわけではないのだ。
無事に用事を終えた帰り道。シーナへ戻る馬車乗り場へ歩いていると、向かいから子供たちが駆けてきた。
「行くぞ! 英雄の凱旋だ!」
英雄――その言葉に思い出すのは人類最強の、あの人だった。
『彼なくして人類の反撃は不可能でしょう』
同時に団長様の言葉を思い出すと、同じ世界に生きているはずなのに、何だかとても遠い人だと感じた。
「やっぱり断って良かった」
メイド会議で散々言われたものの、この選択に悔いはない。
「…………」
なのに、何だろう。この、胸を覆うような重みは。
わからないまま子供たちがもつれ合うようにして走って行く先に目をやれば、結構な人が集まっていた。近づくと見えたのが開門の様子だった。兵士が壁の外から続々と内側へ入って来ている。
これは――調査兵団の壁外調査だ。
しかし、初めて見た開門の感動はすぐに吹き飛ぶ。
調査兵団の隊列には負傷している兵士がたくさんいたからだ。悲壮感と疲労が色濃いその様子に思わず慄いてしまう。
同時にさっき聞いた子供たちの声がよみがえる。
『英雄の凱旋だ!』
「リヴァイさん……」
私は改めて調査兵団の兵士たちの列を眺める。
あの人は無事だろうか。強い方なのだから、きっと大丈夫。でも一目見て確かめたい。
なのに――
「……あれ?」
いない。
前を進む団長様から最後尾まで、何度も目を走らせたが、リヴァイさんが見つからない。
どうして見つからないの?
まさか、壁の外で何か――。
焦燥に駆られて、きょろきょろと前を見ずに探していたせいだろう。どん、と真正面から誰かとぶつかった。
「っ、すみません」
顔を上げれば、ものすごく目つきの悪い大柄な男の人がいた。
その人は私をじろりと見下ろすなり腕を押さえて、
「痛ってえええ! 大変だ、骨折しちまった! どうしてくれるんだよオイ!」
「え?」
「責任取って俺の家まで手当しに来い!」
「……は?」
どう考えてもおかしい話だった。確かにぶつかったけれど、私はよろめいただけだし相手にとって骨折するほどの強い衝撃だったとは思えない。それに仮に負傷していても行くならば医者のところであるべきだろう。
不審な言動に眉を寄せていると、素早い動きで右手をつかまれた。
「ぼけっとしてんじゃねえよ」
「な、ちょっと、放して……!」
今、それどころじゃないのに!
あの人に何かあったら私は――
「俺の家まで来い、つってんだろ」
圧倒的な力の差だった。私の身体はどれだけ踏ん張ってもずるずると引きずられてしまう。
悲鳴を上げたいのにうまく声が出ない。周りにいる人は調査兵団の凱旋しか目に入っていないようで誰もこの状況に気づく様子はない。
どうしよう――どうしよう!
「や……!」
男の人が顔をぐっと寄せて来て、私は空いている手で思わず相手の頬を引っ叩く。自分の手のひらが熱く痛く痺れるのがわかった。
「何しやがるこの女!」
「ひっ」
男が骨折していると言ったはずの腕を振り上げた。殴られると思ったその時、
「放せ、このクソ野郎が」
その人は空から舞い降りた。
そして同時に私の腕をつかんでいた男を地面へ気絶させていた。『瞬殺』の言葉が相応しい動きだった。
私が茫然としていると腰を抱かれて、次の瞬間にはどこかの家の屋根の上にいた。
「無事か?」
「…………」
信じられない。
さっきはあんなにも遠い存在だと思ったのに。
姿が見つけられなくてもう会えないかと思っていたのに。
「リーベ?」
目つきの悪さはさっき絡んで来た人といい勝負なのに、そのまなざしは私にとって何より安堵出来るものだった。
「……リヴァイさん」
言葉と同時に涙が頬を伝った。嗚咽することなく、どんどん溢れてしまう。
「何泣いてやがる」
「……怖かったんです」
私は言った。
「調査兵団の列をすごく探したのに、リヴァイさんが見つからなくて」
「援護班が足りなかったせいで壁に近づく巨人が多かった。そいつらを一掃して壁を登ったから開門で内側へ入った連中とは別行動だっただけだ」
「よ、かった……」
声が震えてしまう。涙はまだ止まらない。
「壁の外で、リヴァイさんに何かあったんじゃないかって、思って……そう思ったら、それがすごく、怖くて――」
「……男に絡まれたことじゃねえのか」
それだって怖かったけれど、比べものにならない。
相変わらず涙を止められずにいると、リヴァイさんが私の頬に流れるそれを指先で優しく拭う。
「なあ、リーベよ。どうでもいいやつのために泣く必要があるか? 普通、死のうがどうとも思わねえだろうが」
「だって、リヴァイさんはどうでもいい人じゃありませんよ」
言葉を交わす度に、同じ時間を過ごすほど、そう思うのだ。
初めて会った時から気にかけてくれて。
空からの景色と風の声を教えてくれて。
何か困っていたらいつも助けてくれて。
私は――
「だったら考え直せ」
「考え直すって……」
何の話かは、すぐに思い出せた。
「この世界にたくさんいますよ、メイドは」
「誰でも良いわけねえだろ。――おい、ちょっと待て」
私がうつむいていると、リヴァイさんは何かに気付いたように言った。
「勘違いするな。俺はお前を使用人扱いするつもりはない」
「……え?」
思考が止まった。わけがわからない。さらに混乱してしまう。
「あの、よくわかりません」
メイドとして以外に一体どうして家に呼ばれるのだろう。
「だって、つまり、リヴァイさんの家で住み込みで働くのでしょう?」
「ある意味で労働とも呼べるが……違う。そうじゃねえ」
リヴァイさんがじっと私を見下ろす。真摯で、まっすぐなまなざしだった。
「リーベ。俺が言いたいのはつまり――俺のそばで、俺と生きろということだ」
「…………」
私はその言葉を噛みしめる。
何だかそれは――
「まるで求婚の言葉みたいですね」
涙を拭った私が笑ってそう言えば、リヴァイさんは顔つきを変えずに言った。
「そうだろうが。間違ってねえよ」
「え? ――えっ!」
思わず目を見開いて、リヴァイさんの顔をまじまじと見つめる。
冗談かと思いきや、その表情は真剣そのもので――途端にまた感情が乱れる。
「あの、ちょっと待って下さい」
首を振りながら私は一歩後ろへ下がってリヴァイさんから距離を取る。だが忘れてはならないことに、ここは屋根の上なので不安定極まりない。よろめいた身体はまたぎゅっと抱き寄せられた。
「何してやがる」
「だって、だって……!」
結婚なんて、そんな。話が急だ。急すぎる。どうしてこうなったの。ちょっと待って。ちょっと待って。落ち着こう。落ち着かないと。
「ま、まだ会って四回目なのに」
「前より増えたじゃねえか。毎日会ってりゃ数え切れなくなる」
「お互いのこと、ほとんど何も知らないのに」
「それがどうした。これからいくらでも時間はある」
「ええと……」
どうしよう。心臓がうるさくて何も考えられない。
リヴァイさんが続けて言った。
「ハンジが兵団にメイドを採用する企画書を提出していたからそれも悪くないと思ったが……どうせなら、もっと一番そばにいられる方法を考えた」
一番、そばに――?
「結婚、って家族になるってことですよ?」
「そうだ。問題あるか?」
「……家族自体がよくわからないのですけれど、でも、だって……」
私がまた首を振ってしまうと、
「リーベ」
そっと、包み込むように抱きしめられる。それがとても心地よくて、私は抗えない。
「お前の考えるべき重要なことはひとつだ」
リヴァイさんは私の耳元で囁く。
「俺のそばにいたいか、いたくないか」
「リヴァイさん……」
私はこの人をどう思っているの?
「わ、たし……」
そこでメイド長の言葉がよみがえる。
『生きる場所は自分で決めねばなりませんよ』
私がどうしたいのかうまく言葉には出来ないけれど――その答えは、この胸の高鳴りが教えてくれているような気がした。
ああ、そうか。
英雄とか、身分とか、居場所とか、それを難しく考える必要はないんだ。
私は――
「……屋根の上に乗ったのなんて、初めてです」
私の言葉にリヴァイさんは突然何を言い出すんだというように「そうか」と言った。
腰を抱かれたまま、私はそっと少しだけ上半身を離してリヴァイさんを仰ぎ見る。
「ひとりじゃどこへも行けないし、強くもないから自分で自分を守ることも出来ないし……私、何も出来ない人間なんですよ。出来るのは平凡に平穏に生きることだけ。あなたとは違うんです」
ふと見れば、さっき男の人を力いっぱい叩いた手は真っ赤に腫れていた。掴まれた腕も少し痣になっている。それらに気づいたのか、まるで癒すようにリヴァイさんの手がそっと包み込んだ。
そしてとても近い距離のまま、リヴァイさんが私を見つめる。
「それがどうした。また何かあれば俺がいる。お前は俺のそばにいればいい。どこかへ行く必要があるなら、俺がどこにだって連れて行ってやる」
「また、空を飛んで?」
「お前が望むなら」
私はそっと、手を握り返す。じんわりと胸があたたかくなった。
「……私で、良いんですか?」
「ああ、お前が良いんだ」
リヴァイさんがそっと手を伸ばして、また私の頬に触れた。優しい手つきだった。
顔を近づけられても動かずにいると、
「抵抗しないのか」
「抵抗して欲しいんですか?」
「質問に答えろ」
少し、わかってきた。この人のことが。
同時に――もっと、知りたいと思った。
「リヴァイさん」
「何だ」
私は訊ねた。
「兵士の方は心臓を公に捧げているのですよね?」
「ああ」
「だったら、私の心臓はあなたに差し上げます」
するとリヴァイさんは少し黙って、ほんのわずかに表情をやわらげた。
「なら、貰い受けるとしよう」
大空の下、屋根の上、私たちは初めて口づけを交わした。
(2014/02/10)