翼がなくても飛ぶ方法は?
「たまにはリーベも息抜きが必要だ」
そう言われたある日、私はアルト様に連れられて馬車でゲデヒトニス家を後にした。
ちなみに服装は普段通りの黒のワンピースドレスだ。身にまとうエプロンと頭のキャップがないと物足りないが、ゲデヒトニス家御用達の仕立屋が作ったしっかりしたものなので、きちんとした訪問着になる。
「どちらへ行かれるのですか?」
「交渉でね。普段は行けないような場所だよ」
「当主様のお仕事は最近ほとんどがアルト様のお仕事ですね」
「構わないさ、僕は次期当主だから」
それにしても一体どこへ行くのだろうと私が窓の外を眺めていると、
「リーベ」
おもむろに名前を呼ばれた。
「僕が当主になった時に、君に伝えたいことがあるんだ。……聞いてくれるかい?」
「はい、もちろんでございます」
私が笑って頷けば、やがて馬車は止まった。
「ここは……」
私はその建物を仰ぐ。そこには『調査兵団本部』の文字があった。
入口では数人の兵士の方に出迎えられて、
「普段は来れないような場所だろう?」
「確かにその通りですね」
「じゃあ僕は父上に頼まれた出資について団長と話してくるから、その間リーベはこの方に案内してもらうといい。楽しんでおいで。二時間後にまたここで会おう」
「はい」
そしてアルト様は行ってしまい、その場には私と二人の兵士の方が残された。
「私は第四分隊長ハンジ・ゾエ。こちらは部下のモブリット。よろしくねお嬢様」
「あ、いえ。私は令嬢ではありません。ゲデヒトニス家に仕えるメイドです」
「えええええ! メイド! あの夢と希望とロマンが詰まった……!」
「落ち着いて下さい分隊長! ほら、びっくりしてるじゃないですか!」
途端に豹変した分隊長様に驚いていると、モブリット様が宥めてくれた。
「わ、わかってるよ。ええと、じゃあこのメイドさんをどこに案内すればいいかなモブリット?」
「立体機動の訓練所はいかがですか。僕は昨日の会議資料の改訂を作っておきますのでくれぐれも失礼のないようにご案内して下さいね」
疲れたような表情のモブリット様が行ってしまって、私は分隊長様と残された。
「それでは行きましょうメイドさん。あ、申し訳ありませんが一度私の部屋へ寄っても構いませんか? ちょっと取りに行きたいものがあって」
「はい、もちろんです」
そして向かった分隊長様の部屋を視界の端で見て、私は絶句した。
一言で表せば――混沌。
書類や実験道具で床が見えないし、よくわからないものが散乱している。換気もしていないのか空気が澱んでいて、とにかくものすごい。
「あー、すみませんね、散らかってて。さ、行きましょうメイドさん」
「待ってください」
曖昧に笑う分隊長様を前に、つい言葉が勝手に口をついて出てきた。
「宜しければ掃除をさせて下さい」
メイドの本領発揮と参りましょう。
二時間後。私は借りたエプロンと口元を覆っていた三角巾を外して一息ついた。
奮闘の末、混沌と化した部屋は秩序ある美しい部屋へと変貌を遂げていた。我ながら完璧だ。メイド長に見せたいくらいに。
「これが私の部屋……?」
「分隊長、やっと、片付けてくれたんですね……!」
「違うよモブリット。やってくれたのはこの可愛いメイドさん」
「ちょ、あんたお客様に何をやらせてるんですか!」
姿を見せたモブリット様が叫ぶのをそのままに、分隊長様は私の手をぎゅっと握った。
「いやー、ありがと! 助かった! そうだ、エルヴィンにメイドを採用するように企画書出してみようかな」
「こ、こんな部屋を初めてお会いした方に掃除なんかさせてすみませんでした……!」
「いえいえ、そんな……」
分隊長様たちの言葉に答えていると、通路から足音がした。
「おいハンジ、昨日の会議資料だが…………なあ、俺は部屋を間違えたか? 悪夢のような地獄部屋が消えてるじゃねえか」
「私の部屋は間違いなくここだよリヴァイ。小さなメイドさんが降臨してこうなった。どう? 潔癖症の君でも文句の付けどころないんじゃない?」
「メイド……?」
そこで視線が私へと向けられた。
「お前……」
「こんにちは、兵士長様」
私はスカートの裾をつまんで軽く一礼する。
「お前がやったのか、この部屋」
「左様でございます」
すると兵士長様が部屋をすたすたと歩き回る。
「…………」
その視線には隙がない。
さらに机の裏を掌でなぞったり、引き出しの取っ手や窓の桟など細部に渡って埃の有無や手抜かりがないかを確認している。まるでメイド長にチェックされている気分だ。
「いくつか聞きたいことがある」
「何でしょう」
緊張していると、部屋を一通り見終えた兵士長様が私の前に立った。
「掃除を始める前に、まずは何をした」
「整理整頓です。それが片付かなければ掃除は始められません。掃除とは清めるだけではなく、場を美しくすることですので」
「バケツの水はどの程度まで入れていた」
「六分目です。雑巾の布と水の相性を考えて、この量が一番最適です。少ないので何度か水を交換する必要はありますが、汲みに行く手間を怠っては部屋の美しさは保てません」
「確かこの部屋にはハタキが一本しかなかったはずだ。どう使った」
「どこでも同じハタキを使っていれば綺麗なものではありませんので、埃の目立つところだけに留めました。なので今日はハタキの使えない綺麗な場所は布で磨きました」
「例えば新しい掃除道具が目の前にあるとする。お前ならそれをまずはどうする」
「改造しますね。最大限に活用するために使用用途に合わせて調整したり軽くするなど手を加えます。先ほど話に出たハタキなら房の長さを変えますね。あ、自分で掃除道具を作ることもしますよ」
「最後の質問だ。――箒を持て」
「はい。……これでよろしいですか?」
兵士長様は箒を持つ私を上から下までじっと見つめる。
「その持ち方をする理由は何だ」
「ただ箒で掃けば良いというものではありません。この穂先までをしっかりと使いこなすことに意味があるのです。なのでこの持ち方が最も効率的です」
そして兵士長様は何も言わなくなった。
その背後にいる分隊長様たちはものすごく驚いたように瞳を大きくしている。
「いかがでしょう……?」
私が訊ねれば、兵士長様は呟くように言った。
「――決めた」
何を決意されたのだろうと首を傾げたその時、分隊長様の叫び声がした。
「しまった! メイドさんを貴族様の所に連れて行かないと! 約束の時間忘れてた!」
「!」
そういえばそうだった。掃除ですっかり忘れていたが、約束の時間は過ぎている。どうしよう、アルト様をお待たせするなんて――とにかく早く行かないと!
「ハンジ、貴族がいるのはどこだ」
「兵団入口!」
「そうか。……この部屋からなら、立体機動で飛んだ方が速いな」
「ひゃっ」
私は驚いて思わず声を上げた。
兵士長様がおもむろに私の膝の裏へ片腕を回し、そのまま軽々と抱き上げたのだ。
「ちょ、リヴァイ!?」
分隊長様の慌てた声に反応を返すことなく、兵士長様はひらりと難なく窓枠へ乗った。
窓の向こうは、もちろん外だ。ここは三階なので高さもある。
私がごくりと唾を飲み込めば兵士長様が、
「震えてる」
「だって、その、どうするんですかここから……!」
「飛ぶに決まってるだろうが」
「えええええ!」
私が叫んでも兵士長様はどこ吹く風で、
「これは立体機動装置だ。問題ない。――行くぞ」
「ま、待って下さい、そんな、お、恐ろしい、こと……!」
すると兵士長様が鼻を鳴らした。
「怖がるのは勝手だが漏らすなよ」
「な――!」
そして次の瞬間、私たちの身体は宙へ浮いた。
これまで知らない感覚が全身に満ちて悲鳴を上げることも出来ず、私は思わずぎゅっと目を閉じて兵士長様の首元にしがみつく。
しかしいつまで経っても覚悟したような衝撃はない。さらに耳元で聞こえ続けるの風の声によると、どうやら本当に飛んでいるらしい。大丈夫だとわかってもまだ震えが止まらなかった。
「怖がるな。俺はお前を離さねえ」
その落ち着いた声が胸にやさしく広がって、私は恐る恐る目を開ける。
すると、
「わ、あ……!」
広がっているのは、これまで見たことのない風景だった。木々の緑に建物と、決して風変わりではない景色であるはずなのに、飛んで見方を変えればこんなにも違う。
さらに視界はあっという間に流れていく。目まぐるしいくらいだ。
信じられない。翼なんて持ってないのに飛んでいる。まるで鳥にでもなったみたい。
恐怖はいつしかすっかり遠ざかって、私は呟く。
「自由の、翼」
「何だ?」
「あなた方がそう呼ばれている理由がわかった気がします」
たとえ壁という境目の内でしか人間が生きられなくても空は無限で、どこまでも望むままに続いていくのだ――そんなことを想った。
「もうすぐ着く」
耳へ届いたその言葉が、少しだけ寂しい。
この時間が終わってしまう。
風の声はとても心地良いのに。
「リーベ」
おもむろに名前を呼ばれた。――あれ?
「どうして私の名前をご存知なのですか」
「……屋敷で貴族がお前をそう呼んでいただろうが。あれはお前の名前じゃねえのか」
初めて会った時のことかと思い出す。同時によく覚えているなあと感心した。
「いえ、それが私の名前です」
そう頷いて私は兵士長様の横顔を眺める。
落ち着いて考えてみれば、私たちの距離はものすごく近い。姿勢も抱きついているみたいで何だか気恥ずかしくなる。とはいえ離すことなんて出来ないのだけれど。
そういえば、どうして名前を呼ばれたのだろう。
「あの、兵士長様――」
「その呼び方はやめろ」
「え?」
「他にもあるだろうが」
ならば、と私は考えた。
「兵士長さん、ですか?」
「……俺にも名前がある」
「あ、申し訳ございません」
確かこの人も団長様や分隊長様に名前を呼ばれていたはずだ。私は記憶を呼び起こす。
「それでは……リヴァイ様?」
「様はいらねえ」
「じゃあ――リヴァイさん?」
それでいいというように、兵士長様――リヴァイさんは軽く頷いた。
「速度を上げる。しっかりつかまっておけ、リーベ」
「わかりました、リヴァイさん」
まるで羽ばたく鳥のように、私たちは空を駆けた。
(2014/01/16)