大空の英雄と地上の小鳥 | ナノ


誰か紅茶を喜ばれました?

 台所へ入れば声をかけられた。

「どうしたリーベ。お客様か」
「はい、兵士の方がお二人お見えになってます」

 たった一人でゲデヒトニス家の台所を任されている、この料理人のお爺さんはとても高齢だ。
 私が十二歳だった時の冬に流行り病で寝込んだ時はもう駄目だと屋敷の全員が覚悟したけれど、驚くべきことに持ち直して元気になってくれた。
 この人がいなくなってしまえば新しい料理人も必要になるし、偏食家の当主様に食事を取らせるのがとても大変だ。まだまだ元気でいてもらわなければならない。

「茶菓子はいるか?」
「どうでしょう。甘いものがお好きかわかりませんし、アルト様は何も言われなかったので」
「そうか。なら、お前さんの茶で充分だろ」

 そう頷いて、お爺さんはどこかへ行ってしまった。

 お客様用のカップを出しながら、私は先ほど聞いた言葉を呟く。

「人類最強、か……」

 噂には聞いたことがある。その人がいるだけで兵士何千人分にも匹敵する戦力になるのだとか。
 巨人と同じように、その英雄もどこか遠い世界の存在なので、まさか本人を目の前にすることがあるとは思わなかった。

「もう帰られたのかな……」

 冗談じゃねえ、と言っていたからもう屋敷を出られたかもしれない。けれど念のために三人分の用意をして行こう。

 そうして私は人数分の紅茶を淹れるために、まずはカップを湯で温めるところから始める。あらかじめこのように準備しておかなければ葉の開く温度に到達せず、香味が損なわれてしまうのだ。この手順を踏むか踏まないかで大きな違いが出る。

「美味しく飲んで頂けますように」

 さらにそこから茶葉に合った温度と作法を丁寧にこなして、お茶の用意を終えた私は来客用の部屋へ向かう。

 もちろん身に付けるエプロンは来客用のものにした。他のエプロンと何が違うのかと言えば、来客用の方が断然綺麗だし、ほんの少しだけ華やかだ。もちろん他のエプロンだって清潔に保っているけれど、扱い方がいくらか変わる。身も引き締まる。

 私は静かに扉を開け、アルト様と団長様、そして兵士長様の三人がいる部屋へ入った。
 そう、もう帰られたかと思いきや、兵士長様もいたのだ。ちゃんと人数分用意して良かったと私が思っていると、彼は足を組んでとても退屈そうにしていた。機嫌が悪そうだ。アルト様と団長様の会話に入ろうとする気配は微塵もない。

 そんな風に観察しているけれど、もちろん私は不躾に視線を向けているわけではない。気配を消し、影に尽くして、失礼と不足のないように徹底している。

 いるけれど、いない。そう感じさせるのがメイドの本分なのだから。

「今後調査兵団では――」
「そのために今後――」
「人類勝利のために――」
「我々としては――」

 部屋には団長様とアルト様の会話が飛び交う。アルト様は次期当主だけれど、最近は当主様の仕事をほとんど担っているのだ。
 聞こえてくる言葉に何一つ私の理解出来るものはなく、難しい話をしていることはわかった。
 お金は大切だから、難しい話になるのだとメイド長が教えてくれたことがある。
 まあ、だからといってただのメイドがそれをすべて理解する必要はないので、私は手元に集中して一人一人の前へ音を立てることなく丁寧にカップを置いた。

 これでよし。

 役目を果たして静かに部屋を出ようとすれば、声がした。

「おい」

 その呼びかけに、思わず足を止めてしまう。
 なぜ――私に声がかけられたと思ったのだろう。

 私は、影なのに。
 いるけれど、いない存在なのに。

「お前だ、女」

 部屋にいる女は、私だけだ。

「私、ですか……?」
「ああ」

 兵士長様だった。
 アルト様も団長様も話を中断して彼を見ている。

「この茶を淹れたのは誰だ」

 兵士長様の手にあるのは私の運んで来たカップだ。何だか変わった持ち方をしている。

「……私でございます」

 思いがけないことに心臓が跳ねるが、どうにか平静に務める。私はゲデヒトニス家の一員なのだ。少しでもこの家の評価を落とすわけにはいかない。

 だが、それでも不安だ。
 何か粗相があっただろうか。

 兵士長様が目を眇めた。

「ほう……」

 一体どうしたのだろうと私が硬直していると、

「驚かせて申し訳ない。彼は紅茶を愛飲しておりまして、少しばかりうるさいのです」

 私を気遣って下さったのか、団長様が穏やかに言った。
 するとアルト様が、

「彼女の淹れるお茶の味は素晴らしいでしょう。食事の腕も今では一流の料理人と並ぶくらいです。――リヴァイ兵士長、お味は如何ですか?」
「アルト様」

 それは言い過ぎですよと慌てて止めようとすれば、

「悪くない」

 カップを傾ける兵士長様が一言仰った。

 直感でわかった。これは――彼の中で、最上級の褒め言葉なのだろうと。

 胸がどきりと高鳴った。

「――ありがとうございます」

 スカートの裾を少しつまみ、私は軽く膝を折って一礼した。

 伏せた顔を上げれば、ほんのわずかに兵士長様と視線が絡まった。




「メイド長」
「何です、リーベ」

 一日の最後の仕事は、メイド長への報告だった。些細なことでも彼女の耳に入れておくことが、屋敷のあれこれを円滑に進めるという。

「私の淹れた紅茶を美味しいと言われました。嬉しかったです」
「おや。どなたかあなたの紅茶を喜ばれたのですか」
「はい。本日お見えになった兵士様です」

 私がそう話せば、

「でしたらその方は大変な愛飲家だったようですね。近頃はただ飲めれば充分だと舌の痩せた貴族の方も多いのに驚きました」

 メイド長は眼鏡の奥の瞳をやさしく細めてから言った。

「私もあなたのお茶が飲みたくなりました。リーベ、淹れて下さいな」
「はい」

 お茶を淹れるために、まずはカップを温める作業から始める。

『悪くない』

 兵士長様の言葉を思い出して、つい頬が緩んだ。

 今日はとても良い一日だった。

(2014/01/08)

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