酸っぱいブドウ
 リビングのテーブルにつき、オレンジジュースを飲み干して、僕は乾いていた喉を癒した。疲れた体に甘い酸味が丁度良い。テーブルにグラスをゴトリと置き、眼鏡を外す。右肘をついてやや前傾姿勢になる。
 正面に座す小来さんと目線を揃えた。つるりとした冷たさを持つその奥を、引っ掻くように覗き込む。小来さんがたじろいで少し身を引いた。
「端的に、誤解を承知して言えば、僕は赤色が見えない。だから、赤色と青色の明滅も、見えない」
「それってなにかの病気?」
「違う」
 ほっと彼女はオレンジジュースのグラスへ息をつく。それから、やはり意味が理解出来なかったのか、首を傾げた。
「病気じゃないのに赤が見えないの?」
「よしよし、良い子だ。赤が見えないってどういうこと? とか聞かれると説明がまどろっこしいからな。君が物事を手前からしか考えられない馬鹿で良かった。これは病気じゃない、遺伝的な問題だよ。少なくとも、日本人男性の四.五パーセント、二十二人に一人は先天的に見えない色がある。女性でも六百人に一人はいる。僕はまあ、つまり、二十二人に一人の、よくいる、平凡な日本人男性だった」
「だった?」
 小来さんは僕の言葉尻をとらえるように呟く。
「ぶどう膜炎って言うんだ」
 瞼を閉じて、自分の眼球の具合を思う。天空で鈴なりに実った酸っぱいブドウはいくらあがいても届かない。なのに、体内に巣くうブドウにもまた、手を施せない。今この瞬間も、つぶつぶとした得体の知れない物体が、体内を自由に行き来し蝕んでいる。
「僕の目を見て」
 意を決して瞼をしっかりと持ち上げ、彼女に僕の眼球を突き出した。うっすらと蛍光灯を吸い込んだ瞳が僕の要求に応える。
 微かな蒙古ひだの向こうにある、ねっとりとした筋肉の束が、細い血管の数本走る白い眼球を動かし、焦点を合わせた。プラズマがうごめくようなつるりとした角膜と虹彩の中心で、瞳孔がきゅっと大きくなる。彼女の、放射状に光の筋が走る角膜と虹彩をきれいだと思った。それは僕に集中しているのか、ぴくりとも動かない。ただ停止してスターターピストルの音を待っている。きっと動き出せば、地面をえた陸上選手のように、世界のありとあらゆる色をかき集めるのだろう。
 互いに詰めた息が苦しくなってそろそろ限界が来る、と脳裏に閃いた頃、「ひっ」という悲鳴と共に、彼女の虹彩が揺れた。
「ブツブツがある! なにそれ……」
「見えた?」
 僕は瞼を下ろして眼球をしまう。
 僕の眼球、正確には角膜と虹彩の奥には、白っぽい膿が斑点となっていくつも溜まっている。
「気持ち悪い?」
「少し」
「素直な返事だ」
 言って、僕は笑ってみた。ここは何でもなさそうに爽やかに笑ってみせる場所だろう。
「血管が集まるところにね、炎症が出来るんだ。自己免疫疾患のひとつで、自分の健康を守ろうとして自分自身を攻撃してしまう、狂った免疫機能が原因なんだ」
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