コピー用紙があらわれた!
『二月一日から、旧校舎を取り壊すため、用のない生徒は立ち入らないように 理事会』
 昨日の今日で超絶インドア派の僕が教室の扉を何でもなさげに開けるはずもなく、教室の前で弱気な犬みたいにしばらくうろうろしたあげく尻尾を巻いて資料室に逃げて来たらこともなげにそいつはいた。
 ぺらっぺらのコピー用紙である。
 旧校舎と新校舎の繋ぎ目部分で殺人事件でも起こったかのような衝撃が走った。この学校、新旧校舎の接合部はいくつかあるのだが、今いる場所はその中でも最も進化の落差を感じさせる、ひなびた木造校舎と頑丈なコンクリ校舎の境目だ。現場となる旧校舎側への立ち入りを、コピー用紙が拒んでいる。キープアウト!
 繋ぎ目をまたぐように置かれた椅子の背へ貼られた通達を、先に来ていた湯潟京子が親の仇でも見つけたみたいにひたと見据えていた。
 僕が湯潟京子と結託することになったのは、この貼り紙がきっかけだった。後から振り返ってみれば皮肉としか思えない。さぞかし理事長も苦い顔をするだろう。いや、頭を抱えて悶絶し、新しい原稿用紙を差し出すのだ。反省文二十枚。友人ボーナス大サービス、今回限りの恩赦だ、今度何かやったら退学だと思え。
「向こう、旧校舎ってんだ?」
 転校してきたばかりの僕は、この校舎が描く見事な新旧建築グラデーションに気付いてはいたものの、旧校舎、新校舎、と名前付けてゾーン分けされていることまでは知らなかった。
 京子は黙ったまま反応を見せない。ぎらぎらと血走った瞳が身じろぎもせず貼り紙を捕らえている。正直怖い。恐る恐る彼女の眼前で手をひらめかせてみた。
「うざい」
 噛み付かれた。これは本当に猛犬である。歯型と唾液のついた手をズボンの脇でそっと拭う。
「気にしなくていいんじゃね」
 張り紙をつかんで引っ張ると、セロハンテープで留められただけのそれは簡単に剥がれた。そこで初めて京子は僕の存在に気づいたらしい。本をさっと掲げてカンフー少女並の速度で身構えた。本の陰から偉そうにのたまう。
「気にしなくても、大人という圧力は私たちの生き方を決める。そんなこともわからないの? 無視では何も解決しない」
「んな、大袈裟な。だからってもう資料室に行かないのか?」
「別のやり方を探す。資料室はあなたに譲る。私はもう、あんなとこ行かない」
 京子の瞳に熱が灯り、意思の強い波動が赤外線のように僕の胸を揺さぶった。彼女は、追われた場所に居座り続けることを、怠慢や甘えのように考えているのかもしれない。そう僕に言いたげだと感じた。彼女の瞳に映った己の姿といえど、見ているのは自分自身だと僕は気付いていない。怠慢、甘え。それはそのまま無意識の自覚だった。無意識の蓋が強引に揺さぶられた胸に、羞恥への怒りがふつふつと沸く。それは己防衛本能であり、現実逃避の先駆けだった。
「べつに、二月まで資料室にいたっていいじゃないか」
 対し、京子は本を膝の位置に降ろして、苛立たしげに足を鳴らす。彼女もどこか余裕がなかった。
「あそこは私たちの場所じゃない。居座る権利もなければ、そもそも授業中あそこで過ごす権利もない。わかってるでしょ? 交渉は最初から不利。いいえ、交渉権すらない。首に縄を付けて職員室に留置されて、教室に戻ると反省文を書かされる。そんな屈辱はごめんなの。私は資料室にいたいんじゃない、教室にいたくないだけ。あなたはどう?」
 珍しくまくし立てる彼女に尋ねたいことがひとつ思考を突いたが、最後に課せられた問いにたやすく霧散する。
「僕は、別にどっちでも――」
 言いかけて迷う。本当はいい機会だ、教室に戻るべきなんだとわかっていた。だけど、追われるように戻るのは何かが違う。自分には資料室にすら場所を得る権利はなかったのかと、悔しさと惨めさだけが湧いて、未練が消えない。
「資料室にいたい。追い払われるなんて気に食わない」
「そう。居座れるものならやってみれば。案外いけるかもね」
 冷ややかな相づちが帰って来る。ちっともそうは思っていない口ぶりで京子は僕の手から貼り紙を取って、また椅子の背に貼付けた。
「居座れたらその時は戻って来てもいいんだぜ」
 彼女が資料室にいたということは、彼女にとって資料室が最も居心地のいい場所だということだ。僕のようなよそ者が来ても立ち退きたくないくらいには。そう思って提案したのに、京子は酷く歪んだ顔になった。聞き返すように口を開け、目も見開く。椅子の背に手を置いたまま、動かない。僕はぽっかりと間抜けに開いたその口に指を突っ込んでみた。「あおう」。噛まれた。手を振って痛みを逃がす。
「あなたに世話してもらわなくてけっこう」
 言った京子はまたも本を顔の前にかかげたが、それを持つ白い指は小さく震えていた。彼女にとっての本って何なんだ。バリアーか。照れているのだろうかと訝しんだ瞬間、彼女は本で顔を隠したままスカートのポケットをごそごそと漁る。そして絆創膏を突き出して来た。
「血の味がした」
「マジで?」
 見れば肉が割れ、さらさらと流血して熱っぽい。京子は絆創膏を僕の左手にねじ込むと、香ばしい紅茶の香りだけ残して立ち去った。
 あいつは猛犬決定だなと愚痴りつつ、僕は少しためらって生暖かい血を舐めとる。絆創膏を巻いて彼女とは逆の方角へ向かう。
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