無理ゲー、クソゲー
 僕は無条件に信頼出来る赤の他人というものを得たことがなかった。無邪気な幼少の頃はそうでもなかったように思う。生きて来た人生に対して一日や一月という時間が占める比重は大きかったからだ。転校や引っ越しのブランクもすぐに埋められた。だが成長するにつれ地元民同士が築き上げたコミュニティーに異分子が馴染むことの難易度は上がって行く。親しくなれた、と思った頃には転校せねばならず、腹心の友とまで仲良くなるには圧倒的に時間が足りなかった。
 いくつものコミュニティーを渡り歩く経験が積んだ成果は、コミュニティー同士の軋轢や摩擦を感じ取る力であり、そのことで不幸を被ったことはないものの、転校初日からしばらくどちらの制覇に属せばいいかと悩み苦しむ日々が、情けないことに僕を摩擦恐怖症に仕立て上げてしまった。信頼出来る人間がひとりもいない空間で、戦禍のただ中に放り込まれてみてほしい。戦況を把握する手段はなく、信じられる戦友もおらず、いつ飛んで来た矢に刺さって死ぬやもしれない、名だたる戦国武将でも勝ち抜け困難な無理ゲーだ。
 トイレの壁にがりがりと爪を立てて奮闘しながら情けない習性を飲み込む。下腹部が絞れるように痛くなるだけで、特別下すわけではない。脂汗がひどいから、あまり人前にいたくないだけだ。どこまでストレスに弱いんだろうと思うが、もうかれこれ四半時ほどこもっている。昼休みはとうに終わり、午後の授業の鐘も先程優雅に鳴り響いたばかりだ。
「授業どうするの」
「サボる」
「転校初日だと思ったけど」
「サボる。どうせサボるつもりで学校に来てんだし、かまわないよ。でも一月に屋上は寒いよなあ」
「それなら、いい場所がある」
 言われて通されたのが校舎最奥の間、僕の教室からずいぶんと離れた場所にある資料室だった。闇の掃き溜まりみたいに静まり返った廊下の一点が、煌々と温みある明かりを放っている。京子は退室時すら電気も消さない程に資料室を私物化しているらしかった。
 肩や背中を撫で摩る冷気は吐き出す息を白く硬い塊にして空へ流す。大寒間際の木造建築はがたがたと壁を揺らす隙間風をどこからとなく送って来て、ここが屋内だという気がしない。むしろ洞穴の奥に待ち受ける秘術伝承の小屋みたいだ、と痛むくらいに冷えた両腕を擦りながら考えた。
「入って」
 扉をゆっくりと引き開けて京子が小さな顎をしゃくる。彼女がいちいち命令口調な事がひっかかった。悪いわけじゃないけど、いい気はしない。
「ご案内ありがとうございます、お嬢様」
 軽くおどけて厭味なく微笑んだつもりが、槍のように非難の視線が飛んで来た。槍に胸を突かれ、思わず後方によろめく。
「そういうの嫌い。止めて」
 何と返せば良いのかわからず、ヘラヘラとよく聞こえなかったふりをしてごまかしたけど、その時の京子の泣きそうな表情は忘れられなかった。山椒みたいな奴だ、と思う。体格も言葉数も小粒なのに、そのひとつひとつが胸にずどんと重たい。
 湯潟京子が自分の秘密基地に僕を案内してくれたのは一度きりのつもりだったらしい。しかし身寄りのない僕が、偶然見つけた素晴らしきトーチカ、もとい寒さから体温を守るためのアイテムが雁首揃えて屯する隠れ家を気に入らないわけがなく、京子に無理を言ったり不意をついたりして居座り続けたら、そのうち彼女もため息とともに了解を示してくれるようになった。
 その時僕は、もし空き教室でもあれば、先生や他生徒の目から逃れるシェルターとしてちょっと使わせて頂こう、そんなことを考えていただけだった。僕は、この学校で誰かと馴れ合うつもりはさらさら無かったし、図々しい話京子が特別僕に干渉してこないのも都合が良かった。
 群れでいるのはダサイとか、コミュニケーションが上手く取れないとか、そんな軽々な理由ではない。幼い頃から転校続きで一年間に学校を三つ変わるとか、馬鹿げたタイトスケジュールもこなしたことがある僕は、次第に学校で人間関係を構築することが億劫になってしまった。
 家族がいなけりゃ死んじゃう寂しがり屋の父親の都合で、ある日突然、よその地への移住が決定する。土地勘のない町、知り合いのいない近所づきあい、リセットされて一からやり直しの友情。なにもかも経験値ゼロの僕。再びの地味で退屈なレベルアップ。人脈も行動範囲も広がり、楽しくなって来た頃に転校。今でこそ携帯電話のおかげで縁を保っている友人がいることにはいるが、ゲームの最中望んでもいないリセットを繰り返されたら、壊れたハードもソフトも中古として売り払いたくなるのは仕方がないんじゃなかろうか。むしろバットか何かでバッキバキに打ち砕き、燃えないゴミの日に『バカハード、クソゲー』と黒々書きなぐって出したい。
 ともかく、幼い僕は、それをそっと粗大ごみに混ぜて捨てた。誰かと真面目に付き合ってこつこつ関係を築くことが面倒くさいから、人間関係、というものからとんずらした。残ったのは開放感有る身軽な体で、まあ寝る時とか、授業の最中とか、予期もしないタイミングで寂しさがこみ上げることもあったが、僕はだいたい満足していた。十分なメリットがあったからだ。誰かと別れる辛さも、せっかくこしらえた居心地の良い環境を失う徒労感も、味わわずにすむ。対価の報酬として、これなら、まあ十二分であろう。
 結果、授業時間にもかかわらずミッションサボりを選択し、校舎の片隅で紅茶をすするはめになりはするのたが。
 僕はずるずると、冷めかけた赤い液体を飲んだ。フルーツと花の、鼻孔を突き抜ける香りが広がる。嗅覚を支配する芳香剤じみた豊満な香りのおかげで、顔が自然と歪む。それを気取られまいと百面相していたら、本を読んでいた京子にじろりと釘を刺された。
 そんなおっかない顔しなくても大丈夫ですって。
「湯潟さんに見とれてただけだって。まあまあかわいいいだっ」
「黙れ」
 赤くなって俯くと、嘘から出たなんとかで本当にかわいいから、胴体を押せば鳴くぬいぐるみみたいで面白い。しかし蹴られたすねは半端なく痛い。しばしおもちゃで遊ぶ楽しさかダメージ食らって涙目になるリスクかどちらを選ぼうか迷った。つまり、紅茶がまずい。
 かくして、人間関係チャラ親善大使こと僕と、無表情ブックワーム京子は、活動地点を同じくしたのだった。
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