勇者アスモディアン
「ペプシコーラ?」
「いいから手伝って。飲んで飲んで」
「そんな一気に飲めない」
「じゃあ、そっちのタッパーに入れといて」
 僕の行動が不可解なのか、京子は薬物でも扱うみたいにペプシコーラのプルを上げ、中身をタッパーへ移す。僕は洗浄したアルミ缶をホームセンターで買ってきたやすりで削っていく。京子も作業の目的がわからないまま、なんとはなしに手伝ってくれる。
 我に返ってから、京子は急速に打ち砕けた。
老化のくぼみなる机置き場で開けっ放しの窓から冬空をにらんでいる。積み上がって危ない机は全部どかしてしまったところ、机は新しい僕らのバリケードとなって廊下を塞いでいた。
「今日も気が狂いそうな寒さの冬が憎い。冬は寒くて意地悪」
「冬ってそういうものじゃないのかな」
僕だって寒い。互いの唇は紫で、屋内でもこれなのに寒風吹きすさぶ屋上でサボりなどという選択肢は、モヤシの僕らの口頭どころか念頭にも挙がらなかった。せめてこのくぼみがあったことは感謝すべきだろう。
「すごい、空き缶とやすりの摩擦熱あったかい。すごい」
「そうでしょうとも」
「桐原君も感じてみるといい」
「いや、僕も削ってるし、知ってるし」
「そこはお願いしますと言う所」
「今気づいたけど、湯潟ってしゃべる人なんだね」
「しゃべる。相手にもよるけど。あなたとか」
 ちらりと僕を見る。え、僕?
 彼女の目が一瞬暗く光った。僕の手へ彼女は手を重ね、身を乗り出す。唇と唇がくっつきそうな距離。彼女の瞳がじっと僕を見つめて放さない。距離が縮まる。僕はそうすれば彼女に触れてしまいそうで、からからに乾いた唇を湿らせることもできず固まる。カーディガンに包まれた彼女の手が、僕の頬から顎にかけてのラインをそっとたどった。
「今、何考えた?」
「え?」
 京子が笑っている。目が線になるくらい意地悪く笑っている。
「あなただからってわけじゃない。あなたが偏見を持ってなかったから。私は偏見を持たない人になら話して上げてもいい」
「偏見?」
 伸ばしたカーディガンの手首をぶらぶらさせながら、京子は考え直すように首を傾げ、眉間にしわを刻んだ。読書をしているときの彼女の癖だ。しかし、考えごとを始める前にすべきことを、彼女はひとつ忘れている。僕たちの体が絡まり合ったままだということだ。
「偏見、へんけん……」
 しわと、苦しそうな表情をぼーと見ていたら、いきなり彼女の人差し指が僕の鼻先をついた。
「うわ、なに!?」「
知らなかったでしょ? 私が理事長の娘ってこと」
「本当に理事長の娘だったんだ」
「なんだ知ってたの」
「結構有名なんだね。学校のパンフレットとか面倒くさくて見ないから気付かなかったよ」
「そうだよね、知らなかったよね」
 それどころか、クラスメイトだったことも知らなかったのだが、これは言ってはいけない気がして、僕は口をつぐんでおいた。
「食堂で名前聞いてきたでしょう」
「ああ」
「代島さんが湯潟って苗字を出してるのに、ちっとも気付いていないんだもん。気付かれなかったから、許可して上げたのよ、トイレと資料室」
「自分の部屋みたいに言うね」
「まあまあ」
 カーディガンの袖がぺたぺたと僕の肩を払う。
「それが偏見。考えたでしょ、少し、私のお父さんのこと」
「考えなかったと言ったら嘘になるね……ちらっと、頭に浮かんだかもしれない」
 僕は顔を上げ、あえて京子と目を合わせた。
「私はね、嫌。そういうの。家庭の事情なんてそれぞれあるのに、いちいち気になってしまう。子どもっぽいでしょ?」
 こういう台詞、普通の女子ならそんなことないと打ち消してくれる言葉を待っているのかもしれない。が、京子は下唇を噛んで何かを恥じている。僕は一度、息をのむ。それから、吐く息に乗せて言葉を引き出す。
「そうだね、ガキだね」
「あ、むかつく。その笑い方むかつく」
 僕はなぜか笑いがこみ上げて来て止まらなかった。肺のあたりがわさわさと揺れる。
 きっと、彼女が経験した家庭の事情は京子が言ったような簡単なものじゃないだろう。もっと複雑で入り組んでいて、僕たちの心のひだを縫い合わせる糸のように重要なものだ。この世に生を得たその日から、毎日一糸々々縫われてきたそれは、戦禍の活躍と安全を願って縫われた千人針よりも業が深い。簡単にはほどけないし、御せるものでもないのだ。
 だから僕は教室から逃げたし、京子は自分の砦を作ってしまった。僕たちの生きるべき世界からとんずらして、住心地だけは良い、非生産的な空間でそこに居座るべき論理を探して、現実世界から目を背けていた。ゲームなんて、好きでもないものに熱中するふりをして、ヴァーチャルに溺れていた。
「ねえ、湯潟って、本読むの本当は嫌いだろ」
「まさか」
「え、でもいつも苦しそうに読んでたじゃん」
「あれは読書じゃない。経済学とか商法とか民法とかの本。私、お父さんより賢くなりたいの。あんな親父に頭が上がらないなんてまっぴら。この高校だって本当は入学するつもりなかったのに」
 どんどん父親の呼び方ランクが下がって行く。ナスダックも真っ青の暴落ぶりだ。噛み合わせた奥歯を軋ませて、京子は彼方をにらむ。憤懣に赤らんだ目尻に、涙までにじませた。
「旧校舎を壊したって、私が服従なんかするわけない。甘く見ないで欲しい。爆発していなくなればいいのに」
 ああ、そうか。
 するりと彼女の頬を伝って落ちた透明な涙を手の甲で拭い、僕は情けなさに鼻の奥が痛くなった。おかしい。わさびとかからしとか、食べた覚えなんてない。
「湯潟は、僕と違うものを見ていたんだな」
 彼女は前を向いていて、現実を打破する方法を模索して、実践して、戦っていたというのに、僕は。
 京子の涙を親指の付け根でごしごしと拭ってやる。
「痛い、ばか」
 とか言われたけど、僕の脳細胞は聞いてなんかいなかった。
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