コマンド、教室から逃げる
 半ば以上つまみ出されるように僕たちは解放された。どこか釈然としないものを抱えながら、教室へ向かう。今の僕には、教室以外に行き先がない。恐らく資料室に戻れば今の教頭先生に捕まり、サボりを咎められるだろう。それに、彼女のせっかちさに押されて気づかなかったが、あの性急な追い出し方は、僕たちが正式に署名活動を行うことをかわすようなやり方だった。
「あいつだろ、昨日の掲示板の……」
「ああ、うん、あいつだ」
「タイミングどんぴしゃだろ、馬鹿じゃねぇの」
 二組の教室。自分の席へ向かう途中、男子生徒の会話が耳に飛び込んで、冷や水を浴びせられたみたいに思考が止まった。一拍置いて、昨日の恐怖が蘇る。凪いでいた海が突然猛く荒れ狂い襲い掛かってくる、圧倒的な密度の集を前にした単の心地。誰だろうかと首を回してみたが、僕の首の動きは軋みを上げるほどぎこちなかった。
「よお」
 シャツを羽織り代わりに着崩した男子が顎をしゃくって僕に呼びかける。彼を取り囲む数人の男子が、ゲラゲラと笑った。
「朝からお前、これ配ってたけど、マジなの?」
 見せられたビラが、僕の一連の浅はかな行動を証明する。換起の旗印は勇ましいが、ひとたび敗者のそれに代われば、勇み足は容赦なく持ち主を断頭台に吊し上げるものだ。僕は男子生徒たちの視線に身体を削り落とされていく痛みを味わった。追い詰められた恐怖。怖い。怖い。僕は逃げ場の絶たれた人間関係に全くと言えるほど慣れていなかった。切り返し方が皆目わからない。身じろぎも出来ず、顔から血の気だけが引いて行くのがわかる。体がどんどん冷えて、代わりに胃袋が重たく締め付けられ始めた。ゴロゴロと胃袋が伸縮し、額に脂汗が滲む。呼吸が浅く速くなる。
「マジだったら、昨日かの掲示板のバカ、お前ってコトだよな? 理事長の娘にでもたぶらかされたか?」
 どうすればいいのかわからなかった。逃げ出して、こんな圧迫感のない場所に行きたいと望む。京子のいる、暖かく、気心の知れた時間。なぜ、僕はこのクラスに馴染めていないのだろう。なぜ、彼の視線が孕む、よそ者への冷たい嘲笑を浴びねばならないのだろう。僕はただ、なにもかもから見捨てられただけなのに。別れと出会いの繰り返しにうんざりしていただけなのに。だから、もう別れのないように旧校舎だけは残したいと望んだだけなのに。
 僕はへらり、とおどけて笑ってみた。男子達が突き崩したように盛り上がる。
 もう我慢出来なかった。鞄を教室に投げ出し、僕は情けなさも蔑みも甘んじて、彼らを突っ切り逃げ出していた。この教室に僕がいる余地も理由ももはやなかった。ああもうさっさと消えたい。死にたい。なのに、教室の扉をくぐり抜けようとした時、僕の腕を誰かが引っ張った。数歩その力を引きずり、僕は恨みがましい気持ちで首を背後へ回す。
「代島さん、何か用?」
「用って程じゃないよ。こっち向いて」
 顔を両手で挟み、彼女は無理矢理僕を体ごと振り向かせた。僕は何事も自分優先な彼女に対して苛付きを覚え、その手を手加減なしに振り払う。しかし、彼女は僕以上に苛立ち煮え繰り返っていて、僕よりも手加減がなかった。
 容赦のない平手打ちが僕の頬を強打して、口の外にも中にも痛みが走る。高い柏手の音が始業前のクラスを静まり返させた。血のにおいが鼻の奥を塞ぐ。
「どこ行くの?」
「どこって、別に。代島さんには関係のない所だよ」
 クラスの視線を避けるため、僕は彼女の腕を引いて教室から出る。ゆかは何が不服なのか、踏ん張るそぶりを見せたが、ため息ひとつ、大仰について僕に従った。
「湯潟さんでしょ。桐原くんが旧校舎を壊されたくないのは、湯潟さんがそこにいるからでしょ」
 僕に握られた腕が痛かったのか、袖をさすりながら言う。
「湯潟さんは特別な子だから、うん、ってかあの子、理事長の娘だから、だいたいのことは知ってるの。あ、皆知ってるってわけじゃないよ。わたしが興味持って調べるタチなだけ。桐原くんがいなくなった時も、あの子がいた」
「は? あいつが理事長の娘? 冗談だろ。それに、だからなんだ? 湯潟さんはもう旧校舎には戻らないって言ってんだ。僕とは関係のない話だ」
「関係ないことない! 君も、桐原くんも、京子ちゃんも、クラスメートなのよ。なんで口出ししたらいけないの?」「次から次へと。クラスメートだろうがなんだろうがどうでもいい」
「桐原くんは、本当はどうしたいの? 何を壊されたくないの? 自分に正直になってよ。見てていらいらするの。後ろめたそうに本音を隠して、上目使いでへらへら笑って、本音で喋ったらどうなの? 誰も桐原くんごときの本音で動揺したりしない」
「……笑うだろ。動揺しなくても笑うだろ……」
 誰かじゃなく、僕の口から冷えた笑いが漏れた。
「笑われない人生って何? 後ろ指指されない人生って何? 桐原くんは、逃げてるだけじゃない。本気で何かに立ち向かったことあるの? 変えようとしたことあるの? 今朝のだって君はやる気を出したかもしれないけど、どこもかしこも詰めが甘いよ。あんなのポーズ以下よ。本気って、もっと必死で死に物狂いの顔をするはずよ。なんでそんな、もうだめだ、みたいに腐った顔してるの? そんなんじゃ何を言っても響かないよ」
 別に響かなくたってかまわない。誰の心にも残れないのが僕の今までだったから、これからも誰にも気にされず生きていきたいと思っている。
 ゆかは僕の両手を取って祈るように握る。その手は嫌になるくらい温かくて力強い。
「カッコ悪いのは本音がくだらないからじゃないよ。本音を隠さなきゃ誰にも顔を見せられない臆病さだよ。どんな本音でも、情けなくても、正面向いて堂々としてなよ。今の桐原くん見てると、なんで生きてるのって思う」
「ひどい言われようだな」
 彼女の言葉は的確に僕の中の弱くて柔らかい部分を見抜き、鋭く握り潰して来る。自ら卑屈になり、そのくせ虐げられる状況に憤っていた僕は、彼女に対して憎しみすら覚えてしまう。
 唾棄するように言い返したのに、ゆかは唇の端を歪めて寂しそうに笑う。そして頭を振った。
「ごめん。正面向かなきゃいけないのはあたしだね。あたし、桐原君に期待してるの。嫉妬してるの。湯潟さんに近づくこと許してもらえたのは、君だけなんだよね。あたしってほら、ついついキツイ言い回ししちゃうから、すぐ喧嘩みたいになっちゃって。お願い」
 僕の両手をに額をつける。
「湯潟さんを連れ戻して」
- 11 -
|



INDEX/MOKUJI
人気急上昇中のBL小説
BL小説 BLove
- ナノ -