みじかいゆめ | ナノ



痛みからはじめよう B



一週間前の朝。彼を愛していた。幸せだと疑わなかった。

一週間前の正午過ぎ。彼に裏切られて、彼の気持ちも自分の気持ちも、何もかも分からなくなった。

そして一週間前の夕時。兵長に好きだと言われた。



あの目まぐるし過ぎる一日から一週間。

私は戸惑いながらも、あの日と変わらない日々を過ごしている。

変わるべき日々が変わらなかった一番の要因は、彼の浮気について触れていないからだろう。


「見たの」

そう言えば何かしら話が進みそうな事で、たった三文字の簡単な言葉なのに、彼と見つめ合うとその三文字が言えずに口は空気をぱくぱくと掴むだけだった。

その度にどうしたのかと問われ、「何でもないよ」といつもの様に笑ってみせた。

思えば私は、いつも彼の一つ後ろを付いて来ていた。

彼の全てを気にして、伺って・・。

一週間前まではそれで良かった。結果、彼が喜べばそれで満足だった。

でも、他の女性と私と同じように口付けを愉しむ彼を見つけて気づいてしまった。

私は・・彼が好きだった。
いい所も悪い所も、全部愛していた。
小さな事で子供みたいにはしゃいだり、優しく甘えさせてくれるし、甘えてもくれる。
パンを頬っぺた一杯に頬張って食べる顔も可愛くて好きだった。
彼以外には考えられなくて、不満なんかなくて、きっと彼もそうなんだと勝手に思い込んで舞い上がって。

でも、実は彼は誰でも良かったんだと、口付けする姿にそう言われている気がした。
私とその女の子が重なって見えるほど、同じように頭に手を回して深く口付けるその姿に。


悲しかった。

あんなに優しく包んでくれていた様に見えた恋人に想いを瞬間的に払われ、投げ捨てられて、怖くなった。

あんなに理解しているつもりだったのに、何も見えていなかった。本当の彼の姿も、本心も。
理解し合える時間は沢山あったのに、何一つ彼を知らない。

それから彼が怖くて、別れを切り出せずにいる。


「ナマエ。」

名前を呼ばれるだけで弾んだ心も、今は怯えて彼を拒絶してしまう。
どうすればいいのか分からない。
まだ愛したいのに、上手く愛してあげられない。

「、どうしたの?」

「別に用はないんだけどさ、何となく声が聞きたかったんだ。」

求められると素直に喜べたのに、あの日から求められると困ってしまう。
「私もだよ。」と、応えられた事がどうしても出来ない。

もう彼と私は無理なんだと気付いてる。

早く決着を着けないと。そう思うのに、一歩が踏み出せない。



「・・・あのさ、最近様子がおかしいよね?
何か悩んでるの?もしかして、兵長の事とか。」


「・・・へ?・・・・兵長・・?」

どきりとした。
沈んでいた心が激しく動き始めて、体中に熱が伝わる。

私は彼に気付かれてしまうような顔で、兵長を瞳に入れてしまっていたんだろうか。



「うん。厳しんじゃないの?怒られて落ち込んでんのかなーと思って。」


良かったと思った。
ほっと吐きそうになった溜息を、なんとか手のひらで抑える。

「大丈夫だよ。ああ見えて兵長はとっても優しいし、私も居心地がいいの。」

別れる前に、彼に気づかれる事は避けたかった。

そんな事になったら彼がどんな反応をするか分からないし(兵長に突っかかって行った所で心配なのは彼の身の方なんだけど)、私なんかの事でトラブルになって欲しくない。


それに彼と別れた後も、しばらくはそういう関係は誰とも持つ気は無かった。

もう人を愛したり愛されたり裏切られたりに、疲れ切ってしまった。

兵長だって特に態度を変える訳でもなく、いつも通り訓練していつも通りに指示され、動いて一日を終える。

あの日みたいに愛を囁かれる事も、愛おし気に触れられる事も無く、それまで通りの普通の上司と部下を続けていた。

それはすごく気が楽だった。
兵長の気遣いだと分かって有難かった。

今も鮮明に思い出せる落とされた口付けの感触だけが、あの一日は夢ではなかったと教えてくれる。



「・・ふーん。それなら良いんだけど。何かあったら俺に言いなよ?な?
俺はいつでも話くらい聞くし、ナマエの味方だから。」

手首を掴まれて、いつの間にか手の甲を見つめてしまっていた事に気がつく。

顔を上げると背の高い彼が瞳を伏せて、何度も受け取って来た口付けをしようとしているのだと分かった。
脳裏に兵長と見たあの女の子と彼の顔が横切って、そして思わず顔を背けて彼を拒絶してしまう。


「・・・・っごめん・・!」

嫌だと思った。

したくないと思った。

拒絶された彼のショックを受けた顔に見られて、どうすればいいか分からない。

傷つけたくないのに、想いに応えられない。


逃げ出した身体は容易く突き飛ばされて、壁に頭を打ち付ける。

痛みで脈打つ頭が、白い靄のかかった視界に彼の姿を映す。


「・・・やっぱり。変だよな?
なんだよ、正直に言えよ。」

ギリギリと指が食い込む肩と、初めて聞いた怒りを露わにした声色。

怒られているのは私なのに、なんだか他人事みたいに感じてしまう。

だって頭はぼんやりとしているし、目の前の私を睨んでいるこの人は彼じゃないみたいに威圧的で恐怖しかない。

私の知ってる彼はいつも微笑んでいて優しくて穏やかで・・・。


何で・・・・?

どうして・・?



もう終わらせたかった。逃げたかった。

怖くて震えてるし痛いところも沢山ある。
軽く息を吸い込み、そして吐いた。


「・・・見たの。」

ずっと言いたかった三文字を、彼に伝える。


「・・・何を?」

「街で・・・キスしてるの、見たの。」

やっと言えた言葉に、胸がすっと楽になって力が抜けていく。
これで彼とも終われる、そう思って安心していた。


黙り込んで動かない彼を見上げると、光の無い暗くて深い瞳が冷たく私を見下ろしている。

その瞳の冷たさに目が離せなくなって、寒気がした。


「だから何?」


「え・・?」


「だから何って聞いてんだよ。

何、別れたいわけ?」


恐る恐るこっくりと頷いた顎は掴まれ、壁に後頭部を押し付けられて気道を塞がれる。

手をこじ開けようと必死にもがいても少しの隙間も出来てはくれない。


苦しくて怖くて、涙が滲んだ。


あんなに愛してたのに、


これ以上、拒絶したくないのに、



「は・・な、して・・」


貴方は本当に私を愛してた・・・?


ねえ、愛してたなら、こんな風に出来ないよね・・・?



「別れないよ。ナマエのこと気に入ってるからさ、俺。

兵長の事好きになってるみたいだけど、無理だから。

だってさ、あんなに俺の後ろ尻尾振って付いて来て、キスしたら喜んで「もう一回しよう」って言った日もあったよな?
夜だってあんなに善がって俺を求めてた癖にさ・・・。俺たち、何回体を重ねたっけ?

兵長が知ったら、どんな気持ちになるだろうね?」


淵に立って覗いていた大きくて深くて黒い闇に、突き落とされたような気持ちになった。


何度も「愛してる」と言った。

何度も体を重ねた。


私を好きだと言う兵長に知られたくないほど、彼に溺れていた。



「ッゲホッ!・・ゲホッ!はぁ!はぁ・・っ」

塞がれていた気道が通り、肺が焦って吸い込んだ酸素にむせて咳き込む。

「分かったらもう別れたいなんて考えるなよ。
ずっと前から、ナマエは俺のものになってるんだから。
まぁ、また忘れそうになってたら思い出させるまでだけど。」


もう忘れたい。思い出したくないのに、それを許してくれない。

兵長、と、咄嗟に浮かんだ顔を急いで掻き消す。

すぐにまた彼の指が私の顔を捕まえて、唇を当てられて舌を捻じ込まれる。

乱暴に執拗に口内を掻き回され、シャツの下から差し込まれた手のひらが胸を揉みこんだ。

「んん!!んんん!!ん〜っ!!」

「・・・は!すぐ顔赤くしちゃってさ。
可愛いよねナマエちゃんは。
早く熱冷まさないと訓練始まっちゃうよ?
それじゃあ、またな?ナマエ。」


投げ捨てられ、へたりと座りこんだ土の上で、しばらく動けなかった。

色んな所が痛かった。

頭だって痛いし肩だって首だって痛い。

もう目を開けている事にさえ疲れてしまった。
指の先から頭まで、身体中がすごく重い。

訓練に出なきゃ、そう思うのに瞼はどんどん下に下がって、視界を閉ざしてしまった。

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