みじかいゆめ | ナノ



痛みから始めよう A



「兵長!ナマエ!おかえりなさい。買い出しはどうでした・・・・。」


本部まで帰り着くとペトラが明るく出迎えに来たのを、目配せして遮った。

いつものようにペトラにじゃれずにひたすら地面と向き合うナマエの様子にすぐに気がつき、その理由についても俺の顔で察したらしい。

悲しみと怒りの織り混ざった溜息を吐いてナマエと話したい素振りを見せたが、それも目線で駄目だと遮った。

今のナマエに色々と問いかけて、さっきの光景を説明させるのも、隣で説明してやるのも余りにも酷だ。

「いつも通り訓練を続けていろ。後で合流する。」

「はい。」

最小限の言葉だけを発し、ペトラは訓練へ戻って行く。最初に会ったのが一つ言えば三つ汲み取ってくれるような気の回る部下の奴で良かったと思った。何しろ、早くこいつをどうにかしてやらねえと。

自分の執務室へと通し、されるがままの抜け殻をソファのクッションの上に尻を押し付けるようにして座らせる。

大人しく座り、ぼーっと放心してしまっているが、とりあえずは場所も落ち着き、帰りたいというナマエの希望も叶えた。


そういえば棚に割と珍しい、大事に取っておいた紅茶があったはずだと思い出した。温かいものでも飲めば、少しは気持ちがほぐれるかもしれない。

棚に向かおうと身体を運ぶと、” きゅ ”と掴まれた小指に足を止めた。

下を向くとやはりこちらは見ておらず、顔すら上がってはいないが、しっかりと小ぶりな拳は俺の指に絡んでいる。

どうやら、側にいて貰いたいらしい。

初めて、ナマエが見せた甘える姿だった。

胸になんとも言えないじんわりとした嬉しさが広がり、拳から指が抜け落ちないよう、そっと移動し隣に腰掛ける。

相変わらず、俯いている所為で肩までの髪が前に流れ、その表情は見えない。

その髪を耳にかけ流し、見えた頬にそのまま唇を寄せられたらどんなにいいか。


「時間はある。ゆっくり整理しろ。」

「・・・・・・はい。」

力のない返事をして、そこからはお互いに何も言わず、何も話さず。

俺も沈黙の空気の中にぼんやりと佇んで、時間だけが流れていく。

ナマエは身じろぎ一つしない。
指はまだナマエに捕まったままで、そこだけが熱い。

このまま夜が来て、朝が来ても、
傷口を開く様な作業に、何時間でも付き合ってやるつもりだった。
ナマエとこうして触れ合い、時間を共に出来るならそれで良かった。

例えそれが小指一本だけでも、俺の気持ちを満たすには十分すぎるくらいで、夢なんじゃねえかとすら考える。



「浮気・・・ですよね・・。」

長い間押し殺されていたナマエの声はか細く、掠れていた。


「そうにしか見えねえよな。」

辛烈な言葉でそれを肯定する。
あのクソ野郎、と。何時間か前の場面と空気が蘇り、女と接吻を交わす合間に見える恍惚とした男の顔に憤りを感じた。恋人ではない女とする口付けもその表情も、気持ち悪すぎて吐きそうだ。


「そう・・・・ですよね。

すみません、何だかまだ信じられなくて・・・私、全然気づかなくて・・・ただ、幸せだ、と、思ってたので・・・・」

「お前はあいつをきちんと愛してやってたから気がつかなかった。
それだけの事だ。お前は良くやっていた。」

「いえ・・・もしかしたら、私が彼に寂しい思いをさせてしまっていたのかもしれません・・・。

兵長に選んで貰った事で、すごく浮かれてましたし、訓練に割く時間も多くなって・・・・彼から、少し目を離してしまっていたのかも・・・・。
その間彼も、さっき私が彼を見るような・・胸が張り裂けるような気持ちで私を見ていたのに、気付けなかったのかもしれません・・。」



こいつは何を言ってやがる、と思った。

ナマエの言った事は大間違いで何一つ正解はなく、あの野郎にとってまさに”都合がいい”解釈だった。

そして、あんな場面を見せつけられても尚あの女たらしなだけのクソ男を甘やかし、何故か自分を咎め・・・。

そして、それを許そうとしているナマエに、腹が立った。


ゆっくりと、唇が言葉を紡いで行く。


「・・それはお前が遠目でもあいつの体調をいつも気にかけ、寂しい時も寂しいと言わずに遠慮して、約束を破られても痩せ我慢して平気なフリをし、「笑顔が好き」と言われたという理由だけでいつもそういう顔を見せてやる努力をしていたのにも関わらず、か?」


これ以上の言葉は止めなければと思っても、ずっと押し潰されていて、溢れ始めた想いは止められない。

俺はずっと、お前を。ナマエだけを見てきたんだ。
そしてお前は、ずっとあいつを見ていた。

お前にこの気持ちが分かるか?ナマエよ



「そしてその影に隠れてこっそり泣いたり、悩みすぎて眠れずに夜を過ごしたり、食事が喉を通らなくなった事もあるのに、か?」


「・・・・兵長・・?」


驚いたナマエが、俺を見つめている。

これじゃ四六時中ナマエの事を気にかけていたと言ってしまってるもんだと分かってはいるが、どうにも止められない。

こんな状況になっても自分を貶すナマエを止めたかった。
俺が好きな自分を、傷つけて欲しくなかった。

俺が知ってるお前は優しく、何時だって自分を犠牲にして、ひたすらに真っ直ぐな愛を注いでいて、眩しい存在で。


「つまりお前は何時だって、四六時中あいつの事を想い、そして身を捧げてきていた。

そんな事、周りの全員が知っている事だ。

それをてめえ本人が知らねえとは聞いて呆れる・・・。
お前は悪くない。それは絶対に、だ。お前は愛されるべき女だったのに、あいつの頭にはクソしか詰まっていない所為でそれが成り立たなかった。相手が悪かったんだ。
だから別れとけとは言わない。それはお前が決める事で、俺が決める事じゃねえ。
ただ理由はどうであれ、お前がそうやって死にかけた顔をしてるのは気に食わない。
・・・お前があいつの事を考えている顔よりな。
だからもう自分を貶すのは辞めろ。
お前が幸せそうに呑気面してないと、調子が狂う。」

あの野郎に全身全霊で愛を捧げるナマエを見ると胸が痛い。
でもそんな時のナマエが一番好きだ。
幸せに染まって、軽やかに眩しく笑う。

その顔が俺に向けば・・と。
何度焦がれたか分からない。

その顔が終わらないように、ずっとナマエが幸せに笑っていられるように、

そういう場面に遭遇しないよう。あの男が少しでも不穏な動きをすれば、ペトラや他の班員も、皆んなで必死になって浸隠しにして来た。そのうちに男がナマエが気づかない事にいい気になって、愚行が堂々としたものになっても、何も言わずに怒りと自分を押し殺しながらその場面を握り潰した。


さっきのように、傷ついた顔をさせたくなかったからだ。

皆んなナマエが大好きで、ナマエが幸せに満ちているのを見守るのが好きだった。傍にいると、自分も幸せだと錯覚出来た。
例えそれが偽りでも、ナマエに辛い思いをさせるくらいならそれで良いと・・・。


どう考えても俺はナマエに惚れてるのに、して来た事と言えば・・恋敵の浮気の野郎の尻拭い。ほんとに何をやってるんだと自分でも呆れる。

「別れちまえばいい」「幸せでいて欲しい」
その対極した二つの感情の間で、ずっと彷徨ってきた。
ナマエとクソ男が並んでいるのを見る度に苦しかった。

でもこうなった今。
ナマエは傷ついて、”幸せ”では無くなった今。

もう遠慮なんかしてやる必要は、ないんじゃないか?



繋がっている指を見る。

小さな拳が、必死に俺の指を包んでいる。


そっと包まれていた小指を抜き、その拳を手のひらで包んだ。

容易く手の中に収まってしまう、この手が愛おしい。


ナマエの顔を見た。


ナマエも俺を見ていて、絡んだ目線をもう離さないと、柔らかな頬にゆっくりと持ち上げた手を沿わせる。

薄く開かれた、ピンク色の艶のいい唇に引き寄せられるようにゆっくりと距離を近づけ、呼吸を感じ、体温を感じ、そして、鼻先が掠め合った。



「・・・待って、ください・・!」


もうほとんど距離なんか無かったのに、既手の所で止められてむっつりとナマエを見る。

「・・・もう俺は十分待ったと思うんだが。」


「 !!・・・だ、だって!
まだ彼ともきちんと終わらせていないです、し・・・兵長とそういう仲になるなんて、まだ気持ちの整理がですね・・・!」


真面目すぎる性格も困ったものだと思った。

せっかくの雰囲気が台無しだ。前のめりになっちまった想いをどうしてくれるんだ。

忙しく動く手を捕まえ、赤い顔に囁く。


「お前は・・・俺が嫌いか・・・?」

「い、いえ!決して嫌いなんかじゃないです!」

「じゃあ、期待しててもいいんだな?」

「き、期待・・?!あの、その、本当に気持ちの整理が、ですね・・・!
兵長の事は好き、なんですけど、急に恋人から気持ちを向き直るような事は出来ないというか・・今朝まで恋人を愛してましたし、それなのに夕方には違う人を愛すなんて事は出来ない、です。
だから・・・あの・・・「待ってる。」


「へ?」と、呆気にとられた顔が見える。
間抜けな顔、と悪態をついてみつつも、可愛いと思ってしまっている。
もうすっかり、ナマエに関してガタが外れてしまったらしい。


「お前のそういうとこも好きなんだ。だから待ってやる。」

元々途中から、ナマエの反応が面白くて虐め半分な所もあった。
何もあんな事があった今日、今この場で答えを出させるつもりはない。

「気にするな、と言ってもお前は気にして仕方がねえだろうが・・・今日俺が言った事はあまり気にしないでいい。いつも通りにしてろ。
答えが出たら・・・・俺が気づくだろうな。」

お前は分かりやすすぎる、と付け加えて、包んでいた手のひらをそっと持ち上げる。

見上げた先に相変わらず赤い顔が見えて、見せつけるように手の甲に口付けを落とした。


「お前が好きだ、ナマエ。」


ずっと言えなかった想いを伝える喜びを、そっと噛み締めて笑った。

少し目線を上げると眉をハの字にし、瞳を潤ませて照れているような困っているような、そんな表情のナマエが見える。

「俺を選べ。
そうしたら、幸せにしてやる。
あんなクソ野郎とは比べものにならない程、お前を愛してやる。」


なあ、ナマエ。
お前を愛し、愛されるべきは俺だろう?

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