配達長の様子がおかしい



最近の配達長は少し変だ。

・・・・いや、俺が入社した時には配達長は既に配達長の役に就いており、その時点で配達長は並みの社会人では無かった。
早番で出勤しても、配達長はとっくに机に着いて、当たり前のようにパソコンと向き合っている。
傍の配達長のマグカップ(ステンレス二重構造でいつまでも熱々コーヒーが飲める。叱られている時にこのマグに配達長の手が伸びるとビクビクする)の中はもう少しで飲み切ってしまいそうなくらいのコーヒーしか残っておらず、一体何時に出社したのか。本来配達長より早く来て仕事を始めるべき早番の自分が、そんなことを聞けるはずもない。勿論出社するのも一番遅く、その所為で警備員さんと仲がいい様だった。配達長に負けず劣らず無愛想な警備のおじちゃんが、配達長にだけは帽子を脱ぎ頭を下げるのを目撃した事がある。
配達長は仕事以外の生活時間を持っているのだろうか?
恋人がいるという噂も一度も立たないし気配すらないと、配達長と同期のミケさんは言う。

しかもその異常なまでの労働は社長の方針なんかでは全然無くて、配達長が好き勝手に働いている結果らしいから、配達長が変なのは今に始まった事じゃないのかもしれない。実際、こんなに1日の大半を仕事に捧げているのは配達長くらいで社長もそこまで働き詰めていないのだから。


だから朝番の社員が出勤し、更に常勤の社員が出勤し終えても空のままの配達長の椅子が、社員一同の意識を一点に惹き付けてるのは当たり前なのである。
配達長がまさかの定時で上がって帰った昨日の今日なので尚のこと。

朝番でない限り、確かにまだ遅刻と名の付く時間まであと3分はある。
しかし、たったの3分である。

自分が入社してから。先輩が入社する以前から、配達長が会社を遅刻したことは疎か休んだことも有給を取ったこともないらしい。これはあくまで不確かな噂なのだが、ニコリともしてくれない仕事一筋の配達長ならあり得る話だと妙に納得してしまう社員が大半なのだから、配達長が遅刻しそうだというのは自分がまだ眠っていて、これは夢なんじゃないかと疑ってしまう程に信じ難いイベントだった。
おもむろに取り出したボールペンの先端をグッと手の甲に突き立て、「痛い。」と静かに呟いているアルミンも同じことを考えているらしい。

そうか。やはり夢ではないか。
そんな風に、でもやっぱりどこか納得出来ずにノロノロと身支度を整えていると、短く誰かの声が上がった。

「配達長が来た。」

その声の発信源を目敏く見つけ、どれどれと窓際に押し寄せる俺たち。

確かに、見下ろした先、玄関扉の方向に、部下の不安と期待を今現在一身に食らっているであろう配達長が走っていた。
しかも大急ぎで、嵌める時間も無かったらしい握られたネクタイをバタバタと進行方向とは逆へはためかせて。
やっぱり配達長、遅刻しそうなんだ。
実際慌てぶりを目にして、ようやく全員が事態を消化した。


「・・配達長って、陸上部か何かだったのかな。」

「そうかもしれないな。」

とっくに仕事を始める準備の整った社員達は、配達長が疾走する様を異様なほど静かに見下ろしている。
スーツ姿で走る配達長はその飛ぶような足運び故か、顔立ち故か。映像のように綺麗で、見惚れているのかもしれない。

二階から降り注ぐ大量の視線に気付いたのか、疾風に分けられた前髪の下から掬い上がった鋭い視線が、俺達を射抜いた気がした。

「やっべぇ・・!」

考えたことは皆同じらしかった。
弾丸でも撃ち込まれたように大勢が一斉に、慌てて張り付いていた窓から飛び退こうとしたものだから、何人か脚がもつれて転ぶ者もいた。

そのままバラバラと自分が乗るべきトラックへ向かい、途中で駆け抜ける配達長と何事も無かったかのように。配達長の走る様を見下ろしてなど全くもってしていなかった、かの様にすれ違う。鉢合った瞳孔が異様に開いてしまうのは仕方ないだろう。俺は役者では無いのだから。

「お、おはようございます!」

「おはよう。」

このペースで行けば、ギリギリ。滑り込みで遅刻にはならないだろう。
それよりも気になったのは、走り去る配達長が残して行った嗅ぎ慣れない香り。

一瞬で空気に馴染んで消えてしまった。
微かな香りだったけれど、確かにその香りは配達長から感じた事のない、そして”似合わない”香りだった。

まるで、誰か他人の家から帰って来たみたいな・・・・。

「・・・はは、まさかな。配達長だぞ。」

首を振り、あり得ない予想を掻き消した俺が、”今朝の配達長は朝帰りでしかも女の子の家かららしい”と同期から聞いたのは全ての荷物を家々に配り終え、帰社してすぐだった。

「へえ。」

「あ!お前なあ、信じてないな?本当なんだって。」

「そりゃあ珍しい出来事だったけどさ、遅刻しそうになったからってそこまで面白おかしく騒ぎ立てなくていいんじゃねえの?」

何故だか分からないが、帰って来た早々に駆け寄り、そんな話を持ち出す同期のキラッキラした心底楽しそうな瞳に腹が立った。

確かに配達長の働きぶりが異質で、ロボットのようでも、こんな風に好き勝手に噂話を持ち出して楽しんでいい権利はない。
それはもう、人としてダメなんじゃないのか。
配達長は仕事で生きてる。それでいいんじゃねえのか。
たまたま今朝、糸が緩んでしまっただけで、きっと明日からは同じように働くだろう。何事も無かったかのように。
それを俺たちがどうだこうだと何時までも詮索し続けてどうなる。

もうそっとしといてやろうぜ。
それが自分の気持ちだった。


「それがさ、聞けよ。
あの後、ミケさんが配達長に言ったらしいんだよ。
”信じられない、リヴァイから女の匂いがするんだが”って!
そしたら配達長慌てて自分の匂い嗅いで、”匂うのか”ってすっげー慌ててたって。
それでミケさんが頷いたら舌打ちしたらしいぜ!な?な?すごい話だろ?!」

「それじゃ配達長・・ホントに朝帰りみたいじゃ・・。」

信じられない。
今朝俺が嗅ぎ、感じた違和感のある香りは、やはり女の匂いだったのだ。
それも配達長を遅刻しそうにさせるほど仕事から切り離せる、親しい女。

さっきまでの苛立ちなど消え去り、見えて来た配達長の人間らしさに想像を掻き立てられる。

どんな女なのだろう。
一目見ると何もかも考えられなくなってしまうほど、容姿の秀でた女か。
そういう女は配達先として一年に一度現れるかどうかで、一度きりの場合もあるし運が良ければ何回か担当する事もある。が、仕事だけで恋仲になるには時間も回数も圧倒的に少なすぎるのだ。
それでもやはり仕事人間な配達長のこと。配達先の女というのが一番あり得る話だろう。第一、仕事しかしていなかったのにいきなりの朝帰りだ。それしか考えられない。

・・・・いや、ありえない。
だってあの配達長だぞ?
笑顔さえ見せない、仕事一辺倒の・・・


「今日も先に上がる、悪いな。」


その台詞が配達長の声で終業の合図より何秒か前に放たれた台詞であると頭脳が的確に処理した頃にはもう配達長によって扉が閉められた後で、面喰らった俺たちは終業の合図が鳴り終わってもその場から動けなかった。


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