ようやく今日一日分の荷物をさばき終わり、空になったトラックを会社に返した後手早くタイムカードを切って再びこの部屋の前へと戻って来た。この時期、荷台はパズルのようにみっちりと積まれた荷物の箱によって埋め尽くされる。掻き入れ時なのだ。
自分のペースなど保てずに、余裕無く仕事を片付けた疲労感が体にぶら下がっている。

会社が好きだとか、そういうモンでは全くないが、忙しくない時期でも目の前に見えている書類業務や部下の指導要綱があれば済ませてから帰る。労働基準法とか何とか、それに引っかからないギリギリの残業時間を一月に保っていた。

それは俺の意思で、働き方で、苦に感じた事などない。



机の上に置いてある今朝までは確かに無かった書類の束を視界に捉え、捌きたい気持ちがチラついたが見なかった事にし、タイムカードを切る。


この忙しい時期に、よりによって何故?リヴァイ配達長が?

そんな言葉がありありと書かれ、戸惑い、ざわつく背後の部下達に一言。

「先に上がるぞ。」
それだけを告げて踵を返した。

定刻通りに会社を出たのは、大分久しぶりだった。


それでも、”遅れた”気がする。


一日中俺を急かした鈴音の先に繋がる鍵をポケットから引っ張り出し、鍵穴に刺す。
指で挟んだ鍵は普段使っている自宅の鍵よりも薄く、簡素で頼りない。曲げようと少し力を加えれば曲げられそうだ。
一人暮らしの、それもナマエのように際立って警戒心の欠けている奴の部屋の鍵が、こんなに頼りないモンで大丈夫なんだろか。

それにしても・・他人の部屋の鍵を回すというのは、奇妙な感じだ。よく来る配達先の一つということも、違和感を強くしているのだろう。

・・別に悪い事してる訳じゃねえ。看病しに来てるだけだ、俺は。

悶々とする思考を振り落とすように何度か頭を振り、カチャリとこれまた控えめな音を立てて鍵を回す。

仕事してる間、誰かこいつを訪ねて来たりしなかっただろうか。
少しは回復してんだろうか。いや、朝のあの様子じゃ起きてる事も期待は出来ないだろう。ベッドからはみ出した手のひらの下に水の入ったペットボトルを置いて来たが、飲めただろうか。そもそも、あいつは気付けたか?

身慣れない事をしているせいか、頭の中で不安事が次々に湧く。

それでも寝ているであろう部屋の主を起こさないよう、靴下で足音を隠しながら敷居をまたぐと、やはりナマエは眠ったままだった。

朝の様子と比べ、苦悶の表情がマシになったと言えばマシになっているがその程度だ。

ペットボトルの中の水が何口か分減っているところをみると一応は目を覚まし、自力で水分を補給することは出来たらしい。

「ったく・・引きこもってる癖にどこでそんな厄介な風邪貰ってきたんだよ、お前は。」

思っていたより良くなっていなかった。
やはり、もう少し早く来れたほうが良かったはずだ。

立ち寄ったコンビニのビニール袋が音を立て、「んう・・。」と寝言のような小さな呻き声を上げたナマエの顔が顰められ、いつもの半分程だけ瞼が持ち上がった。


「よう。」

「・・?リ、ヴァイ、さん・・?」

「そうだ。約束しただろう、また来ると。覚えてねえか?」

「・・やくそく・・・?」


した、のかな・・?

身じろぎながら呟き、再び辛そうに瞼が落ちる。


すみません、おぼえてなくて、たぶん熱のせいで・・ごめんなさい

何やらブツブツ謝罪する言葉には応えず、赤い顔の額に手のひらを寄せる。

冷えた手のひらが熱い額に張り付き、「ほぅっ・・」と気持ち良さ気な吐息が漏れる。


「ん・・相変わらず熱が高いようだな。」


熱が下がっていなかった場合に備えて買って来た熱冷ましの小箱をビニールから取り出し、ペリリとセロファンを外す。

いかにも熱に効きそうな独特な香りが鼻をかすめ、久しぶりにかいだ匂いだなとそんな事を思いながら前髪を持ち上げてやった。


「冷たいが我慢しろよ。最初だけだから。」

「ひゃ・・!」

ナマエは冷たさに肩を竦め、妙な声を上げたが直ぐに気持ち良さそうにフニャリと笑った。

俺はシートと額の間に閉じ込められて浮き出た気泡が気になり、己の額より随分丸みのあるそこを指先で撫でていた。

気の抜けた笑顔を見ながらゆっくりと気泡を端から押し出すように撫でつけ、皺が出来ないよう何度も丘陵に指を往復させていると、ふと、何だかくすぐったい様な、そんな気持ちが芽吹く。


・・・なんだろな

冷たさにようやく苦痛の緩んだ表情を眺めて、ほっと一つ肩の荷を外し、くすぶり始めた自分の胸の内の疼きには特に気に留めなかった。
確かにそれは芽生えていたが、それくらい微妙な大きさでしかなかったのだ。


「きもち、です。ありがと、ございます・・。」

「ああ。少しはマシだろう。遅くなって悪かったな。」

さあ次は何をしておこうか。

「・・なんか・・・寒くなっちゃいました・・すみませ、」

くしゅん!と言い終わらないうちにくしゃみが出る。

成る程。冷やさないといけない事はいけないのだが、寒いよな。熱があるんだから。

となると、

「一度着替えておいた方がいいな・・・おい、寝巻きの替えはないのか。」

「あ・・そこ、そのチェストの中です・・くまさんのパジャマ・・。」

毛布の脇からちょこんと出た指先が指した先のチェストを見据えた。

「ここか。」

「!!ちが・・!したぎ・・!」

「 ! 」

引き出したそこには、衣類ではなく、女の身につけるべき物が丁寧に並べて入れてあり、また、引っ越したばかりで最低限の枚数しか入っていなかったのがアダになって一枚一枚がかなり見えやすかった。部屋の隅にぶら下がっているような機能重視の物ではなく、きちんと魅力を引き立たせる事に目的を持ったもデザインの、それ。

ナマエの焦り声と自分の視界の景色に驚いて直ぐに勢いよく閉めたものの、色や形、施された控えめなレースとリボンまで、まるで写真のようにハッキリと刻み付けられた記憶が恨めしい。


「・・・・・悪い。」

「い・・・え、だいじょぶ・・です・・・!」

手の平からもはや茹で上がったような顔色と、羞恥心でさらに潤った瞳が俺を見れずに震えている。

ガラにもなく、予想外のことに同じように顔に熱が昇るのを感じながら、再び示された問題の引き出しより一つ下の引き出しを開き直し、いかにも寝巻きでしか着れなさそうな子供じみた(俺に言わせれば、だ)クマのパジャマを取り出して手渡した。

「これです・・ありがとうございます。」

「・・ああ。向こうに行ってる。終わったら呼べ。」

手渡す時に触れ合った指の先にも、バチリと静電気が疾ったように意識させられてしまう。

こんな事で一々取り乱すなんざ、ガキかよ俺は・・!

しっかりしろと自分を叱咤し、体温を元に戻すべくナマエの部屋から離れた薄暗いスペースで布擦れの音が止むのを待った。

そわそわして、落ち着けない。

煙草は吸わないが、もし吸っていたら落ち着けただろうにと思うがどうにもならない。

何しろ手持ち無沙汰なのだ。

頭の中にはいつも配達を出迎えてくれる何処までも呑気で親しげな笑顔のナマエと、熱に浮かされた現在のナマエ、そしてさっき見てしまった年相応にきちんとした、異性に見せても可笑しくない下着がグルグルとせわしなく移り変わる。


経験・・が、無いわけではなかった。

しかしもうそれは随分と昔のことで、思い出でも何でもなかった。
終わってしまえば”経験”と、冷めた呼び方にしか成りきれないそんな関係。

振り返ってみれば、相手に気持ちを振り回されたり、俺も相手の気持ちを振り回せた事など、無かったのかもしれない。


・・・・それが何だってんだ。今更下着を見ちまったくらいで、何を取り乱す必要がある?そうだろう?

俺はただ・・・・ナマエみたいな・・今だにクマのパジャマを好んで着てるようなガキでも、確かに自分と同じオトナなんだと・・・驚いてるだけだ。

・・そう、それだけだ。
不意の事で、驚いただけなんだ。

煩く跳ねる心音を落ち着かせるよう、ゆっくりと、深い溜息を吐いた。


「おわ、りました。」

「・・ああ、今行く。」

部屋に戻ると、目が冴えてきたらしいナマエが毛布の上から顔を覗かせ、丸い瞳が俺を見ていた。

「・・リヴァイさんのばか・・。」

不貞腐れ、頬をぷくっと膨らませている。

子供みたいなその表情に思わず笑顔を誘われるが、本人は至って真面目に怒っている。・・いや、拗ねている。
笑うのは流石にマズイと、手で弧を描く口元を抑えた。

「悪かったな・・・間違えたんだ。俺だって驚いた・・。」

「それは分かってますけど、恥ずかしいものは恥ずかしいです・・!」

ナマエは元々唇の上まで掛けていた毛布をさらに鼻先にまで引き上げて隠れてしまい、見えるのは俺を見上げる瞳だけになってしまった。

仕草や挙動が、子供っぽく、いかにもナマエらしい意思表示だと、こいつに荷物を届けてやるだけの俺は思う。


呼び鈴が鳴り、扉を開く時。
手渡された紙とペンを片手に早くしろと急かされながらも、どこでサインをするべきか迷っている時。
荷物を手渡され、手を伸ばした時の表情。
満面の笑みで礼を言い、ぶんぶん手を振りながら、振り返してやる事すらしない俺を見送る姿。


他の人間とは違うナマエらしさが、いつもその一時に詰め込まれていた。


「!?リ、リヴァイさん?なに笑ってるんですか?わたし、怒ってるんですからっ。」

「・・・そうだったな、すまない。
しかし一瞬だったし、もう覚えていない。それに病人が頭に血を昇らせてると治るモンも治らねえだろう?早く機嫌を直せ。」

「・・・・ほんとにもう忘れましたか?」

「ああ。ほんとうだ。」

「・・嘘ついてませんか?」

「ついていない。」

「神様に誓ってください。」

毛布を握りしめていた拳の人差し指が、ぴっと天を指差す。


本当は今もハッキリと思い出せ、絵に描けるくらいだが、これ以上この機嫌を長引かさせたい訳もない。幸い神など信じていないタチなので淀みなくナマエを安心させる嘘をつけた。


「誓おう。」

そう応えてやるとナマエはようやく納得したらしく、再び毛布から顔を出しながら「覚えてないのならいいんです。」とほっとしてみせた。


「あの、怒られたついでに、お願いがあります。」

「なんだ、メシか?そうだな・・粥なら食えそうか。」

「いえ、あの、食べてみたいですけど、違うんです。」

「あ?」

食べてみたいけれど違うとは、どういう事なのか。

ナマエは毛布の中で悩むように身動ぎしていたが、やがてそっと手を伸ばし、すぐ傍に座っていた俺のシャツを摘んだ。


再び、鼓動が高鳴る。


「手・・・を・・、握ってもらえませんか・・?」


「・・寒いのか」と、乾いた口からやっと一言を捻り出した。


桜色の綺麗な爪が乗る細い指先に捕まったシャツの感触と、不安そうに眉を下げ、俺の返事を伺うナマエの、熱で潤んだ瞳から目が離せない。

なにか・・・・なにか言わなければ。

そう思うのに、何も出てこない。


何も言わない俺から外れて揺れ始めた視線と同じように、この指先も離れて行ってしまうと気付いた時。
そうなる前にその手を捕まえた。


細い指を捕まえて己の指を絡め、手の腹を合わせて握りしめた。


「・・・冷てえな。」

「リ、ヴァイ・・さん・・。」

「・・・握ってくれと頼んだのはお前だろう。そんなカオするな。こっちが恥ずかしくなるじゃねえか。」

「う・・だってまさかこんな・・!」


ドキドキするなんて、思わなかったんです・・・!


そう言って耳まで赤く染め上げたナマエが、繋いだ手を額に引き寄せて隠れようとする。

相変わらず繋いだナマエの手は冷めたままなのに、俺の身体は燃え上がるようだった。

ナマエから顔を背け、視界から追いやっても手の感触からは逃げられない。

手で扇ぎたくなるほどに顔が熱く、思わず力が入って更に強く掌を握ってしまった。


「あー・・ナマエよ。これは一体いつまで続けるつもりだ・・。」

「取り敢えずわたしが眠るまでお願いしたいです・・。」

「お前、そんなカオして眠る気ないだろうが。」

「・・・・まだ離しちゃだめです・・。」


・・・まいった。

こいつは一体何を考えてるんだろうか。
俺をからかってるような気さえしてくる。

最初は本当に寒いからって理由だったはずだ。
握った手はようやく違和感がなくなり、重ねた肌の体温が馴染みつつある。

普通にしてくれていれば良かった。

何の変化もなく、ただ”ありがとう”とか”構わない”とか当たり障りのない言葉を交わしてナマエが柔らかく瞼を閉じて眠りへと向かって行けば、ここまで掻き乱されずに済んだはずだった。

なのに・・・・


こんなカオをするから、

あんな台詞を吐くから、

それでも離れないように指を絡めてくれるから


普通にしてろなんて、無理な話だ。



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