急いでいるのは鈴のせい
身体の中心から口内を通り、吐き出される荒い呼吸が熱い。
寝かせた頭と触れ合う枕に熱が篭っている。
機械音に計測の完了を知らされ、脇からすっかり温まった体温計を取り出すと小さな液晶に示されていたのは”39.8 °C”。
「・・・・やっばぁ・・い・・。」
額に手の平を当てると、確かにまぁまぁ熱い。
昨日、雨に降られたせいだ。
すぐにシャワーを浴びたのに、どうして熱が出てしまうのか。
きっと引っ越し作業から溜まっていた疲れもあるのだろう。
「喉が渇いた」と思う。
「氷枕が欲しい」と思う。
ベットから重くて熱い体を起こす余裕のない私に水と氷枕を運んでくれる人はもう居ない。
出来るのは、瞼を下ろして夢に逃げ、この怠さをこらえるだけである。
いつもより5倍くらい重い毛布を肩まで引き上げ、深く息を吐いて目を閉じた。
〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜
ー ピンポーン
10・・・・・20・・・・25・・・・30・・・
ビキリ、とこめかみに青筋が浮かぶ。
40秒も待たせやがってこのクソ女・・・。
部屋には居るはずだ。
田舎から越して来たばかりで中心部から離れているとは言え、まだ余り出歩きたくないらしくそのせいでかなりの頻度で配達先に上がっている。
初日に躾を施行した20秒という記録が可愛く思えてくる程の恐ろしい記録が更新された。
俺は待たされるのが嫌いだ。
玄関先の扉の前でじっと待っていると腹が立ってくる。
こちとら運搬トラック一杯に押し込まれた荷物を今日中に空にして戻らなくちゃならないのに、頼んだ本人がどいつもこいつも揃いも揃ってノコノコノコノコ印鑑を探したり代金を払う為の財布を探し始めたりする。
年寄りがのんびりするのは構わねえが、この扉の向こう側にいるような健全なガキにダラダラ動かれるともう、尻を蹴り上げてやりたくなるのだ。
「おい!荷物だ、グズグズするな!」
再配達?そんなもん、もってのほかだ。
何で二度もこのエレベーターなし5階を登らなくちゃいけねえんだ。
「おい!あと3秒で出ろ。そしたら許してやる。」
蹴り一発で、だが、そんなことまで伝えるとビビって益々出て来なさそうなので黙っておく。
「3・・・2・・・・1・・・。」
時間切れだ。
扉の向こう側では慌てる気配どころか、物音一つしない。
嫌な感じだ。
施錠しない癖が抜けずに、襲われてんじゃないだろうな・・。
この部屋の主は何といっても見るからにトロく、危機管理が出来てないのが丸わかりなのだ。
ドアノブを掴み、ひねってみる。
「・・・・。」
やはり、鍵が掛けられている様子はない。
この間はきちんと施錠していたのにもう忘れたのか・・?
こうなれば頭に一発軽い拳骨でも食らわせて文字通り体に叩き込んでやらねば。
無用心な扉を引き、玄関に足を踏み入れる。
やはり、確実に部屋には居る。
昨日出くわした時に履いていた白のスニーカーが、きちんと踵を部屋の方に向けて置いてある。
壁際に寄せて玄関マットの上に荷物を置く。
「ナマエ、出てこい。お前は仕置きだ。鍵も掛けてねえじゃねえか。」
怒気を含んだ言葉は、廊下を抜けて突き当たりの窓へと溶けて行く。
ふと、部屋を区切る壁の端から見えるベットの縁と毛布。そしてその上に投げ出され、ちょこんと出ている手に気が付いた。
昨日、ずぶ濡れだったナマエの間抜け面を思い出し、やっと出てこないワケに気が付いた。
ナマエの靴の隣に仕事用のスニーカーを脱ぎ捨て、単身用の小さなキッチンを抜けて部屋の間切を渡る。
まだ物の少ない6畳ほどの一室に置かれた無垢のシングルベッドの上で深々と毛布を被り、それでも寒そうに首をすくめて眉間に皺を寄せ、赤い苦悶の表情で眠るナマエを見つけた。
ぐったりと身体をベットに沈ませ、過剰な呼吸に合わせて毛布の膨らみが上下する以外はピクリとも動かない。
そっと手の平を額に添わせると、体温計を使わなくてもかなり高い熱があるのが分かる。
まだ仕事は始まったばかり。
トラックの荷物はこの家でたった3つ目。
熱にうなされる身体からそっと遠ざかり、干されていた色気のない下着は見なかったことにしてタオルをピンチから外し、キッチンに立つ。
薄ピンク色の歯ブラシを掴んでいるよく分からない奇妙なキャラクターの歯ブラシ立ての横にある蛇口を捻り、タオルに水を含ませた。
ギシリと音を立てて部屋に戻り、汗ばむ額に丁度いい大きさに畳んだタオルを乗せてやると幾らか表情はマシに見える。
「また来てやるから待ってろ。」
きっと聞こえてはいないだろう。
起こすつもりも理解させるつもりもない。
なぜここまで駆り立てられてしまうのか。
きっとこいつがトロくて何も出来ずにこのまま死んじまいそうだからだ。
扉に掛けられた鍵を見つけ、急がせていた足を止めて迷ったが、どうせ誰も来やしないとフックから鍵を取り上げ、施錠をして階段を駆け下りた。
ポケットの中でカギに付けられた鈴がチリチリと鳴り、荷物を配って回る俺を急かし続けた。
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