バイト初日の涙黒子



羽織りが欲しくなる、少し冷え込んだ朝。
曇りのせいか、日の出は済ませたはずのお日様の日差しもハッキリしない。


「う・・わぁ・・今日からここで働かせて貰えるんだ・・!」

ガラス張りの壁が、早朝の薄暗い空より暗い店内を囲っている。

それでも”ソニビンマーケット”とスタイリッシュに謳う看板は、それだけで流石の高級スーパーの雰囲気を主張していた。

リヴァイさんが来るまでに決めてしまおうと勢いで電話してみた好条件のバイトが、まさか即採用になるなんて思わなかった。
田舎から出てきて近所のおじさんの個人経営の小さなスーパーがお気に入りだった私がなんかが、このお店のレジに立っていいのかな・・・。

ー「頑張れよ。」

そう言ってくれた昨夜のリヴァイさんの晴れやかな笑顔に背中を押されるように、従業員入り口のドアノブを回した。

音も立てず、滑るように開く扉。
陳列を待つ商品の積み重なった段ボールで死角は多いものの、見える範囲にはまだ誰もいない様だった。

「えっと。真っ直ぐ進んで突き当たりの右の部屋って言ってたね・・。」

なんだかここがスーパーの店内だと思わせないくらいにシンと静まり返っていて、足運びも自然と慎重になってしまう。

頭の高さまで積まれた段ボールの塔を避けながら、ソロリソロリと進んで目的の部屋の前に立った。恐る恐る見上げたプレートには、これまた洒落た筆記で”休憩室”と書いてある。ここに違いない。

冷えたドアノブに手をかけ、扉の重さに手こずりながら「おはようございます。」と、第一声を放つつもりだった。

時間が遅く流れるというものを、初めて体験した。

目を奪ったのは、壁際に女性を押し付けるようにしながら唇を貪る男性。
挨拶は途中で閉ざされ、それでも腕は止まれずに扉を開ききる。

それでも女性の腕はしっかり男性の背中に回って撫でており、これが愛ゆえの行為だと誰が見ても分かる。

見ている方が恥ずかしくなるような濃厚なキスシーンに口を覆い、声を出せば気付いて貰えるはずだが、声が出なかった。そのせいで、気付いて貰えるまで時間がかかった。

何度か音を立て、角度を変えながら口付けを繰り返し、更に密着していく二人の身体。
シャツの隙間から曲線を舐める手のその先に欲情した女性の瞳が遂にチラリとこっちを見て、そして見開かれた。

「きゃ!」

瞬間、男性の身体からすり抜け俯いて、前髪を抑えるようにまだ熱い顔を隠しながらバタバタと逃げるように部屋から出て行ってしまった。
ごめんなさいと言う暇もなく、大慌てで女性が開けた扉に背中を押され、体育2の運動神経では踏ん張るべき足が動かず素直に床に向かっていく。

嗅ぎ慣れない香水が鼻先を掠めて私を受け止めた腕のような感触は、やはり紛れもなく腕だった。

さっき、女性を閉じ込めていた腕が、今は私を掴んでいる。

「ご、ごめんなさー「先輩?」

直ぐに声を出せず、二人の邪魔をしてしまった事。受け止めて貰った事に謝ろうとした。

しかし謝罪を遮り、”先輩”と呼ぶ声には聞き覚えがある。

そろりと顔を上げ、腕の中持ち主を見上げると・・・どことなく覚えてるような、覚えてないような・・。声ほどの記憶の扉を叩く衝撃はない。

「わ!」

何故か抱き締められ、背中に篭る腕の力に戸惑った。

「あ、あのー・・・?」

「・・・・・。」

身体をそっと離し、前髪をくしゃりと握り締めて私を見つめる彼の表情は、それでも確かに私の事を知っているらしい。


「ナマエ先輩。
忘れてるでしょ?酷いなあ。」

笑顔は作れても目は誤魔化せない。
だから人の目を見るんだよと何かのテレビで言っていたのを知らなきゃ良かった。
傷付いた瞳に見つめられると胸が痛い。

「えーっと、ごめん・・・なさい。」

「教えてあげよっか?俺の名前。」

色気を放っているのは、先程見た彼の女性を乱す姿のせいか、左目にある涙黒子のせいか。

腕に抱き留めても尚、距離を縮めようとにじり寄る身のこなし。段々と近づく涙黒子に追い詰められた思考が、記憶を思い出させた。

「ー相変わらずだね!有川くん!」

どこに向かっているのか知りたくもない彼の唇を制し答えを言ってみせると、唇を覆う私の手の平の上で満足気に瞳が細められた。

「・・・先輩も相変わらずだ。」

くすりと笑い、適切な距離へと離れていく。

「どうして?上京してるの?」

「そりゃあそうですよ?遊びでふらっとこんなトコ来ませんし。
学生やってて、バイトしてるんです。時給いいし、僕に合ってるみたいなんですよね。
もしかして今日から入る新人さんって、ナマエ先輩ですか?」

「そうなの・・。まさか有川くんが居るなんて・・。」

有川くんとは、高校が同じだった。
高校入学と同時に転入してきた彼は、学年の垣根を越えて噂になるほどの顔立ちと、何より評判になったのは・・・

「ちょっと先輩、聞いてます?せっかく運命の再会を果たしたのに。」

流れるように引き寄せた手の甲に、口付けを落とされた。端整な顔付きがより引き立つ、上目遣い付きだ。

「駄目!私にはこういう事しないでって言ったでしょ!有川くんこそ忘れてるじゃないっ。」

評判だったのは、女の子に向けたお姫様のような接し方。
分け隔てなく当たり前に向けられる全てを許してくれるような笑顔と甘い言葉で、瞬く間に故郷中の女性のアイドルと化していたのは五年前の話か・・。

飼い犬を躾るように言葉を投げる私を弄んで笑う彼は、五年の間では女性に対する方針も身のこなしも何も変えていないらしい。

その生き方ゆえに他の男子から非難されても、独占欲の働いた女の子にあの手この手で厄介をかけられても、いつだって有川くんは”有川くん”のままで生きている。

薄い表面でしか決して他人に触れさせない、蜃気楼のような彼だった。

「だって先輩怒っても可愛いし?ますます意地悪したくなっちゃうんですよね。だからコレは先輩のせい、って事で。」

だから有川くんに何と抗議しようが無駄な労力なのだと、五年前振りに彼に対して諦めの溜息をついた。彼を変えれる女の子はまだ現れていないようだし。
そんな最中でも有川くんの手は休まず私の頭をよしよしと愛でる。

「あ!ご、ごめんね・・・その、邪魔しちゃって・・。」

「ああ、大丈夫ですよ。お互い特別な関係でも無いですし。
続きは先輩にして貰おうと企んでいますので。」

それは予想がついていた事だったけれど。有川くんはサラリと言えてしまうけれど。

あんなキスが出来るのに、”お互い特別な関係じゃない”と言い切ってしまう言葉が重く胸に纏わり付いた。

「・・先輩。何でそんな悲しそうなカオするの?
ほんと・・ナマエ先輩だけは全然喜ばせられないんだよねー俺。調子狂っちゃう。」

どうして?と聞くその表情ですら笑みを外さず。

思わず有川くんへ伸びてしまいそうになる腕を抑えて私も笑った。

「私を喜ばせようなんて考えなくていーの!
それより今日からよろしくお願いしま「嫌だよ。どうすれば笑ってくれる?他の女の子みたいに赤くなったりさ。見たいんだ。ナマエ先輩、今度こそー・・」


「俺を好きになってよ。」


それは、有川くんからの二度目の告白だった。


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