未遂の疼き春の気配
ことり。
真っ白な陶器の皿が木製の机に置かれたどこか懐かしい、心地良い音。
次いで皿の中のビーフシチューがほかほかと香りを立て、トロリとした艶のある深い赤茶色の中に見える色よく茹でられた野菜。そして先日冷蔵庫に預かってやった厚切りの牛肉が、誇らしげにごろりごろりとルーを纏っている。
「ー・・美味そうだな。」
つい口から出た言葉にナマエはニッコリとして、「召し上がれ。」と恥ずかしそうに言った。
ルーをスプーンで掬い口に入れると、やっぱり、「美味い。」
「良かったです。多分大丈夫だろうけど、嫌いだったらどうしようって考えてたんです。」
「嫌いなもんは無いな。甘いのは苦手だが。
好き嫌い多そうだよな、お前。」
「え!私ですか?」
「ああ。ピーマンとか嫌いだろ?」
「ちょっと、リヴァイさん!私子供じゃないですって!ほら、人参とかも全然平気ですし!」
皿の中から人参を掬い、得意げにパクリと口へ運ぶ仕草や表情なんかまさに子供そのものなのだが。
期待を裏切らずムキになってるナマエにバレないよう笑いを噛み殺す。
苛めたくなる女。
30を過ぎて今更、こんなガキみてえな事してるようじゃ、俺も人の事言えねえか・・。
「それにシシトウだって好きですし、むかごご飯とか大好物でしたし、ミョウガの天ぷらだって大大大好きです!」
ちょっと予想だにしていなかったかなりマニアックで渋めなラインナップに、ついにたまらず吹き出してしまった。
確かに子供の好きな食べ物とは絶対に言えない。
そういえばこいつは田舎育ちだったのだ。進撃県と言えば、山に囲まれてるおかげで食べ物が美味しいと聞いたことがある。むしろ食べ物しか娯楽がないとも聞いた気もするが・・。
きっとこっちじゃ珍しい食材も、旬になると当たり前のように食事に出ていたんだろう。
山育ち、侮れない・・。
「お前・・すごすぎるな。」
どんなギャップだよ。
そんな含みなど全く知らず、「でしょ〜?そろそろタラの芽も出回る頃ですよねえ。」と、春の訪れを待ちきれなさそうに頬杖の間から胸を踊らせている表情がまた可笑しいくらい可愛く、久しぶりに腹を震わせて笑ってしまったのである。
どうして笑われたのか分からずに戸惑うだけだったナマエも結局、俺につられて笑い始めるもんだから、収集がついたのはお互いの目尻に涙が滲む頃だった。
そんな風に取り留めのない話をしながら、作ってもらった出来立ての飯の美味さを噛み締める。目の前のナマエと視線がかち合えば、言葉は自然に声に出来た。
好物の話。東京の話。地元の話。
あとはもう挙げるまでもないような、ほんの些細な暮らしの話。
楽しい時間だった。
今この一時に幸せというものが全て揃っているような、そんな気さえする。
ダラシない程、普通に笑っていた。
同じように笑ってくれてはいても、それでも語られることの無いここに越して来た理由が、どこかぽっかりとした穴を会話の隅に巣食っている。
それでも今はまだ、このままでいい。
今この瞬間が自分にとって壊したくないくらいに、終わりを考えたくないくらいに。好きだ。
引かれた境界線に踏み込むのは簡単だが、それは俺じゃなくてナマエであるべきだ。その時が来なくとも、それまで隣にいてやればいい。いや、居座ってやる。
ナマエの帰る場所が遠くにある事が怖いなんて、こうも簡単に人は弱くなれるものなのか。
つい最近まで、仕事さえ与えられればそれで生きていられたのに。
「リヴァイさん?」
いつの間にか、考え込んでしまっていたようだ。
そういえば、今日中に弁解しておくべき事があったのだ。
「今朝のことなんだが。」
ナマエは最後の一口を運んでいたスプーンをピクリと跳ねさせ、口に入れずに皿に降ろした。
「お前は熱で覚えていないかもしれないが、手を握ってくれと頼まれて手を握っていた。
そのうちにいつの間にか俺も眠っちまって、情けねえがそのまま布団に潜り込んだみてえだ。気付いたのは起きた時だった。
だから何も・・・していない。
驚かせて悪かった。」
”何もしていない”と言いながら、今朝間近で感じた小動物のような小さな寝息や僅かに開いた唇に引かれてしまった場面が空気ごと生々しく蘇り、一度胸が大きく跳ねた。
「・・ああ、そのことですね。
私こそ、あんな事頼んでごめんなさい。
リヴァイさんは何にも気にしなくて大丈夫ですよ!本当に。私が蒔いた種なんですから。も〜熱でどうかしちゃってました私。本当にごめんなさい。」
何て事ないと笑いながらも少し眉の下がったナマエに、ちくりと胸が痛む。
目を開けるのがもう少し遅れていれば口づけされるところだったと知ったら、どんな顔にしてしまうだろう。
故郷にいた頃は恋人がいたかもしれないし、いなかったかもしれない。
もしかすると、初めてのキスだったかもしれないのだ。
未遂で済んで本当に良かった。
そう思いながらも、あの時に戻ったとして再び同じことをしない自信がない自分がいる。
手の中のナマエは確かにあの時、愛しく思えた。
じっと俯き、何も言わない俺をどうにかしなければと思ったんだろう。
小さな手が頬を包んだ。
前を向いた先におずおずと俺を見る茶色の瞳が見える。
こちとら1日調子が出なかったというのに、こんな距離で見つめるとは、悔しいほどに余裕。というか、鈍感なだけか・・?
「大丈夫ですよ?リヴァイさん。
だからリヴァイさんも気にしないで。」
今朝と逆だな、と。他人事のように。
映像でも見ているようにナマエを見ていた。
今朝は閉じていた瞳は実は茶色で、今は揺れながらもその色に俺を映している。
ナマエは今、何を考えているんだろう。
どうしてこんな日に限って、いつもみたいに慌てたり困ったり茹で上がったりしないのか。オトナみたいに落ち着き払って、どうしてそんな風に身体に触れて、俺を宥められる?仮にも一緒のベッドで眠っていた相手に。
「・・そうする。ありがとうな。」
どうやら気にし過ぎていた、のかもしれない。
誰かの家で寝るなんて仕業は出来ない性分だったから俺が大事に考えすぎていたのか?
平常心を奪われていたのは自分だけ。
ガキだガキだと扱いながらも、扱われてるのは俺の方じゃねえか。情け無い。
事故で一緒に眠るくらい、何でもない事なのだ。大体どちらも眠っている間の記憶丸ごとないんだからな、考えてみれば。
なんだかスッキリしたような、まだ悩んでみたいような微妙な気分なのだが、一つ息を吐き出してこの話はもう決着がついたと思い込む事にした。
目の前で最後の一口を口に運ぶナマエの手が目に留まるまでは。
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