境界線



店内から足早に抜け出ると、立ち止まって一呼吸せずにはいられなかった。
東京の冷たい外気が鼻を通り、焦っていた頭を抜けて、こびり付いた洋菓子の香りを体内から押し出す。

ほんっとに今日はクソな1日だ。

頭にハンジの顔がチラついて疲れとストレスに拍車もかかる。
大体、あいつに出くわしちまった瞬間から悪い出来事が次々と連なり始めた気がしてならない。

ポケットで震え始めた携帯を取り出すと、ディスプレイに表示された名前はさらに青筋を立てさせた。
こいつ・・・タイミング良くかけてきやがって・・・。

「何か用か。」

右手に持っていた小箱の中のケーキが倒れないよう恐る恐る左手へ移してから電話を耳へ付ける。
こいつの電話でロクな話が聞けた試しはない。
かけてくるのは鼻息で聞こえ辛い電話口で延々と語られる実験成功までの道のりか、紅茶を餌にした部屋の掃除に付き合わせるお願いの話が大口なのだ。


「あ、嫌そうな声出さないでよー。今日は残業しなかったんだね?」

そう話す声は弾み、白々しいにも程がある。このクソ眼鏡は全部知っている筈なのだ。定時で上がった俺が今からどこに向かうのか。てめえの隣の部屋だよクソ眼鏡。
電波に隠れている生身に拳が届かないのが悔しさを電話口で噛み締めさせる。

まさか、からかう為にかけてきたのだとしたら即刻この電波の繋がりをぶっち切ってやるのだが。


ハンジが話したのは、やはり期待通りロクな話ではなかった。

結果的に余裕があったはずの時間を急かされることになり、だからといってもしハンジが知らせて来なければ、結局上手いように立ち回ってやれなかった苛立ちを抱えるハメになっていただろう。

だから、まあ、少しは得のある電話だったかもしれないと、荷物とケーキの小箱を抱えた状態で出来るだけ速く走りながら考えてみるが、考えるだけでハンジに何かしてやろうってつもりはサラサラない。電話を前向きに捉えてやるだけだ。

それにしても、あの馬鹿女は。

熱がぶり返すから大人しく寝とけと言って返事までしていたはずなのに、ちっとも聞きゃしねえんだから。
やはり電話口では脅しが弱かったのだろうか。大人しくしていなかった場合のペナルティも突き付けておくべきだったのかもしれない。例えば次回から荷物の受け取りはお前が一階まで降りて来る事と脅していれば、配達先常連のナマエはきっと今頃ベッドに潜り、毛布をぎゅっと握り締めていただろう。

それでも手料理なんて何十年も縁がなく、冷ますなんざ絶対にあり得ねえ!
間に合うだろうか。乱暴に扱えないケーキが前へ進む度に小さく揺れるのが気になって仕方ないが、身体は確実に走っている。

ああ、やっぱり今日は酷い日だ。
何もかも、思い通りにいかない。


「おかえりなさーい!お疲れ様ですリヴァイさん!」

そしてどうしてこいつは思い通りに動いてくれないのだろう。

何回も言うが俺は寝ていろと言った筈だし、こんな風に夕暮れの玄関先で待っていろと言った覚えもない。
それに風邪だって引くなと言った。

「・・ただいまナマエ。それはそうと、俺はお前に何と言ったかこの頭は覚えているか?」

ナマエのこじんまりとした頭は俺の指に収まった。
いつもの調子で大人ぶってみるが、頬が熱い。どうしても今朝味わった恋人のような一時が、自分にとって子供だったはずの女を意識させる。
クレーンゲームの縫いぐるみのように捕まってしまった頭頂部の下で、ナマエはバツが悪そうに少しだけ目線を泳がせ口元をモゴモゴさせたものの、すぐにほぐれるように笑ってみせた。ほら、まただ。そんな顔で笑えなんて言っていないのに急に笑顔を見せるから、

不意を突かれて今度こそ完全にたじろいでしまった。


「勿論です!だから大人しく求人誌を眺めてバイト先を探していました!それでいい所があったんで、電話をかけて面接の約束まで結びましたよ。
向こうの方も人手が足りないみたいで、もう決まったようなものみたいなんです。明後日なんですけど、その日からすぐに入れるかって聞かれました!
やっぱり収入が確保出来ると落ち着けるんですね。嬉しくてじっとしてられなくて・・その、料理を始めちゃいまして・・。だって冷蔵庫のお肉の消費期限が、今日までだったんですよ?この前リヴァイさんが預かっててくれたお肉ーー」

「お前が殆ど大人しくしていなかった事は分かった。
それより、メシ、作ってくれたんだろう?」

ナマエの言い訳は長すぎた。これでは急いだ意味が無くなってしまう。その前に口を塞いでやったのだ。勿論手で、だ。

「あ、そうでした。リヴァイさんが思っていたより早く来てくれたので、よそえばすぐに食べられそうです。流石リヴァイさんですね。」

嬉しそうに扉を開け招き入れてくれる顔を見て、冷めないうちに間に来れて良かったとホッとした。ナマエの靴の隣に一回り程大きい自分の靴を揃えつつ、かしこまり始めた堅い心臓も落ち着かせる。思えば大した理由も無く女の家の玄関を抜けるのは、配達の仕事を始めて初めてなのだ。
そんな俺とは違い、ナマエの方はケロリと変わらない微笑みを向けてくるのが何だか悔しい。
朝だって何もないにしろあんな体勢だったのに、こいつは何とも思わないのだろうか。
俺は今日一日頭を悩ませていたというのに・・。


「それは電話で話してた荷物ですか?」

「ああ。進撃県って、お前の故郷か?」

”えびせんべえ”の箱をナマエへ差し出す。中身は食品と記してあるが、温度管理のいらない発送だったので日持ちする食品なんだろう。いかにも実家からの仕送りの箱だ。
宛先の筆跡は大きいが線が細く、丁寧に綴られているところを見ると母親かもしれない。


ー・・・・何だ?

待ちきれないとばかりに伸びてくるはずの手のひらが、いつまで経っても伸びて来ない。

「・・・おい、いらねえのか?」

「!いります!ありがとうございます!」

「・・ああ。じゃあサインしてくれ。明日会社に提出するから。」

いつもよりギクシャクとペンを動かすナマエを見ながら、まだ何も知らないのだと気付いた。おかしな事に、知っている気になっていたのだ。
ナマエは客で、俺は担当しているだけなのに。

もうこんな風にずっと前からナマエの部屋へ踏み入っていたようなそんな感覚になれたのは、ナマエに誰にでもそう思わせるような雰囲気があって、俺にかぎった話でも、きっと顔見知りですら無くとも。誰にだって向けられてきた表情や言葉だった。

そんなこと、分かってたはずだ。
だから目が離せなかった。心配で。いつか誰かに傷付けられそうで。

俺だから、じゃない。

何も知らない。故郷が何処なのかも、ここに移り住んで来た理由も、本当は何一つ語り合う時間を過ごしてすらいない。


「リヴァイさんの言う通り、実家からみたいです。すっごく田舎なんですよ、きっとリヴァイさん、びっくりすると思います。でも良い所ですから、こうして荷物が届くと、恋しくなっちゃいますね。」

感情を押し込めて明るい台詞を読む弱々しい気配に立ち入って聞ける立場でもない、と思う今は、声を作る事を放棄した口を閉ざす。
ナマエと自分の間に引かれていた確かな白線に気付かず進み入ってしまい、こんな顔をさせてしまったのが申し訳なく、多分ショックで、言葉が出てこない。

きっと隣にハンジでもいれば、この瞬間をキッカケにナマエの希望などお構いなしで、全てを知り尽くすまで詰問したに違いない。
少しだけ隣部屋の変人がこの場に居合わせなかった事を悔しく思う。

ナマエが箱を部屋の隅へそっと置いたのを見届けて、空気に比例して重さを増したような”罪滅ぼし”の手土産を差し出した。

さっきまでの辛気臭い顔など嘘のように脱ぎ捨て、礼を言って大喜びの腕を伸ばすナマエ。そんな瞳を輝かせる笑顔につられ少しだけ顔がほぐれても、胸の内には予定外のくすみが残った。

やっぱり今日は何をやっても上手くやれないのだ。


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