第一章-狐のお守り-其の一

三方を神域に落としてきたままだ。
その事実に気が付いたとき、私は今日何度目ともわからないため息を吐いた。
祭事用の三方の数はそう多くない。
神に供えずにただ山奥に捨て置いてきただなんて言えば、例え持ち帰らないことが前提であっても、お登勢さんに怒られるかもしれない。
でも、あれは不可抗力だった。
突然狐に芋を投げつけられたのだ。
直前まで焚火の中にあった芋が目前に迫れば、咄嗟に手が出てしまうのも致し方ない。
だから、あれは緊急避難だった。
避けられない事態だったのだ。
私は過ぎ行く山の景色を見ながら心の中で言い訳を繰り返した。

「おーい。何トリップしちゃってんの?生きてっかー?」

とんとん、と腰を軽く叩かれた。
私は目の前で揺れる泥だらけの尻尾を眺めながら返事を返す。

「おろしていただけませんか。」
「却下。」

私は、九尾の狐の肩に担がれていた。



米俵を担ぐように肩に担がれ、身体をくの字に折り曲げられた状態の私は、半ば放心状態だった。
彼の背中側に私の頭が位置するよう担がれているため、私の視界いっぱいに泥だらけの尻尾が踊っている。
彼の歩みに合わせてゆさゆさと揺れる視界のせいで、乗り物酔いのような気分の悪さを覚えた。

「あの…自分で歩けますから…」
「お嬢さんのスピードに合わせてたら山を下りるころには丸一日経っちまうっての。俺ァ、早く糖分摂取してーのよ。おわかり?」

私の家までパフェを食べに行くと言い出したこの男は、よたよたと彼の後を追う私に相当イライラしたらしい。
面倒くさそうな表情を隠そうともせず私を担ぎ上げると、さくさくと山を下り始めた。
丸一日山を素足で歩き回った後の私では、妖である彼の歩みに到底ついていけるわけもないのだが、それでも荷物のように扱われる今の状態を受け入れることはできない。

「そもそもうちにパフェ食べに行くってどういうことですか。パフェって気軽に家で作れるものじゃないですよ。」
「あー確かにやっすいコーンフレークで作ったパフェってサクサク感がいまいちなんだよなー。アイスとかチョコぶっかけてべちょべちょになったりしたらテンション下がるし。」
「わかってるならパフェ以外の供物にしてください。私をおろしてください。」
「じゃあ、とりあえずいちご牛乳とプリンでいいわ。」

おろしてくれという訴えはやはり無視された。

「とりあえず、ってなんですか。パフェ食べるまで帰らないつもりですか。」
「俺の好みのモンじゃなきゃお供え物の意味ねーって言っただろーが。」

銀さんの好きなモンはァ、いちご牛乳とォ、プリンとォ、パフェとォ、みたらし団子とォ、ショートケーキとォ。
延々と甘味の名前を列挙していく男の声を聞きながら、私は先ほど投げつけられた芋を握り直した。
ほんのりと温かさの残る焼き芋は、表面はパリッと焼けており割れた皮の間から甘い香りが漂ってくる。
わずかに覗いて見える黄金色の実は食欲を誘うが、出会ったばかりの妖の肩の上で堂々とこれを食すほど、現状から逃避することはできない。
私は芋から意識をそらすために、目前で揺れる尻尾を眺めてみた。
恐らく元の毛色は白だ。
山特有の水分の多い腐葉土がこびり付いた尻尾は、乾き始めている土のせいで少しかぴかぴしている。
毛が束になって固まっているせいで少しシャープな印象を受けるが、一本一本の毛はそれなりの長さがあり、泥に汚れてさえいなければふさふさとしたボリュームがあるのかもしれない。
よくよく目を凝らすと、毛と毛の間には葉っぱや小枝が絡んでいる。
これだけのゴミが付着しているということは、怪異の報告が始まった一ヶ月前からずっとこの山に籠り続けているということか。
しかし何のために。
マシュマロを焼いただのパフェが好物だのやたらとチャラついた嗜好を持つくせに、人間はおろか妖の姿さえ見当たらないこんな山奥でたった一人何をしていたのか。
人間を驚かして喜ぶいたずら好きの精霊…というには強大過ぎる妖気を発し、可愛らしさのかけらもない図々しい男。
目的がまるでわからない。

「おーい、またトリップしてる?」
「…起きてます。」
「…別に寝ててもいいけどよォ。あんた、もしかして…」

先ほどまで大声で甘味談義を繰り広げていたのに、急に声を潜めた。
低く呟くようなその声音に、私は思わず身を固くする。
彼の腹を探ろうとする私の思考に気付かれたか。

「…もしかして、すかしっ屁したの気付いた?」
「おろして!」

最低だ。
この狐、馬鹿な上にデリカシーの欠片もなかった。

「しょーがねーだろー。あんだけ芋食ってりゃ屁の一つや二つ出るもんだ。」
「開き直らないでよ!なに威張ってんのよ!」

なんとなく臭うのは、泥だらけの着物や尻尾の獣臭さのせいかと思いきや。
こんな男の前でしおらしく祝詞を上げ、怪異について真剣に考察していた自分が恥ずかしくなった。

「ぎゃーぎゃー人の肩の上でうるっせーなー。」
「あなたが勝手に背負ったんでしょう!いい加減におろして!」
「あーもーうっせー!テメーも芋食ってろ!せっかく銀さんがおすそ分けしてやったんだから!」

そう怒鳴ると、男はどさりと私を下した。
ようやく確かめた地面の感覚に安心する暇もなく、男は私から芋を取り上げる。
ぽきっと真っ二つに芋を折ると、にやりといやらしく笑った。

「うるさいお口はふさいじゃいまーす。」

そして、あろうことか男は割った芋の片方を私の口に押し込んできた。
焦げた皮の苦さとほくほくとした実の甘さが同時に口内で押しつぶされ、美味しいのか不味いのかよくわからない。

「んー!」
「あ、なんかエロい。」

今すぐこの狐を常世へ送ってやろうと思った。

「よーし、静かになったことだしとっとと行くぞー。」

男は私を小脇に抱えると再び歩き出す。
今度は尻尾の方ではなく、進路方向へ私の頭が位置するように抱えられたため、思う存分男へ非難の視線を浴びせることができた。
口に押し込められた芋を辛うじて飲み下すと、男を睨みあげる。

「なにするのよ!」
「芋は冷めちまうと不味くなるでしょーが。銀さんがおやつ分けてあげるなんて滅多にないんだからありがたく食えっての。」
「なんでそんなに押しつけがましいのよ!」
「そりゃーお前。後で倍にして返してもらうためだろ。」

しれっとそんなことをいう男に、私の口元は盛大に引きつった。

「これ以上何を要求する気?」
「そーさなー…芋食ってのど乾いたからなんか飲みモンが欲しいな。」
「いちご牛乳がいいんでしょ。」
「いちご牛乳は最初っからオーダーに入ってただろーが。追加だよ追加。」
「一応聞いとくけど…なに?」
「ベンティアドショットヘーゼルナッツバニラアーモンドキャラメルエキストラホイップキャラメルソースモカソースランバチップチョコレートクリームフラペチーノ。」
「川の水でも飲んでなさい。」

こんな目立つ狐を連れてコーヒーショップなんて行けるわけがない。
私は、神域を訪れる前はあれだけ恋しいと思っていたはずの我が家に帰りたくないと思い始めている自分に気が付く。
反対する新八くんたちを振り切って山を登ったはずの自分が、怪異の元凶に荷物のように抱えられて帰還する。
なんとも間抜けなその図に再び頭痛がした。
そんな光景、想像するだけで寒気がする。
思わずぶるりと肩を震わせると、男はじっとりとした目を私に向けてきた。

「芋はとっとと食えばいいけど、俺の腕ン中で屁こくなよ。」
「…あなたと一緒にしないでください。」

無神経な男の言葉に苛立ちを隠さず反論すると、気の強いお嬢さんだこと、とあきれたような声が降ってくる。
反論を試みようと奥歯を噛み締めた時、突然下半身をこそばゆい感覚が包み込んだ。

「な、何するんですか!どこ触ってんの!」
「いいケツしてんな。」

尻尾にまで神経が通っているのか、すりすりと九本の尻尾が私の臀部や脚を撫で回した。
身体のパーツを一つ一つ確認するようにあちこちを撫でる尻尾は、そのまま私の全身を包み込む。
顔以外すっぽりと尻尾を巻きつけられた自分の姿など想像したくもなかった。

「このっ…変態狐!」

私の叫びは山に飲まれた。

***

山を下りた頃には夜の帳が降り始めていたため、私たちは誰にも姿を見られることなく我が家へたどり着くことができた。
“泥だらけの妖に尻尾でぐるぐる巻きにされて運ばれている情けない巫女”を見られずにすんだことに、私は今日初めて安堵のため息を吐いた。

「へー。随分ご立派な屋敷なこって。」

男は屋敷の門を見上げて呟いた。
寝殿造りのこの屋敷は門や塀はやたらと大きな造りをしているが、純粋な居住空間としての役割だけでなく、政務を執り行ったりこの土地の神々を崇め奉る役割も拝領している。
住居というには確かに広すぎるが、恐らく都に立ち並ぶという豪勢な屋敷の数々に比べれば粗末なものだ。
私は戻ってきてしまった我が家を見上げながら、恐る恐る男へ声をかけた。

「一応、この辺りを治める任を頂いていますので…。そろそろおろしてください。」
「ちわーっす。巫女殿一丁お待ちー。」

男は尻尾に埋もれた私を抱えたまま堂々と門を叩いた。
人をラーメンの出前のように扱わないでほしいと切実に思ったが、一々訂正する気力もない。

「つーかよ、門番とかいねーの?不用心じゃね?」
「普段ならいるはずですが…」

抱えられたままきょろきょろと辺りを見回していると、かすかな地響きが聞こえてきた。

「…地震?」
「いや、ちげーな。これは、」
「巫女様ぁぁぁ!!!」

私を呼ぶ声と同時に門が勢いよく開かれた。
ばきっ、という門にひびが入る不吉な音を耳が拾うと同時に、長刀(なぎなた)が目前に迫る。

「てめえぇぇぇ!!うちの巫女様になにやっとんじゃぁぁぁ!!!」
「うお!?」

長刀の刃は男の首があった位置を水平に切り裂いたが、男は寸前にのけ反ることでそれを回避した。
男は私を両手で抱きしめると、門の上へと飛び上がる。

「なにあの女。門番?お前ン家は客に名前を尋ねないで、首をぶんどって身元確認するわけ?」
「名前を尋ねるまでもなく不審者に見えたんですよ!」

私は男に抱きかかえられたまま、門上から地面を見下ろした。
肩で息をしながらこちらへ鋭い眼差しを向ける女性の姿を確認する。

「お妙さん!」
「●●ちゃん!今助けるわ!」
「あれ?俺、悪者みたいじゃね?」

とぼけたように首を傾げる男の背後に人影が見えた。
瓦をかちゃかちゃと踏みしめる音が迫りくる。

「巫女様を離せ!」

塀伝いに門上の私たちに接近する影は…新八くんだ。

「新八くん!」
「おいおい。いきなり首を刎ねようとする長刀女に塀の上をナルト走りするメガネとかどんな門番よ?お前ン家、人手不足?ハロワに求人広告でも出せば?」

互いの表情が確認できるくらいに接近した新八くんは、先ほどまでの軽やかな走り方から一変し、力強く右足を踏みだした。
甲高い瓦の割れる音と同時に跳躍する。

「●●さん!動かないで!」
「しょーがねーなー。」

太刀を両手で振り被り、切りかかろうとする新八くんに男はため息を吐いた。
私を抱いたままふわりと宙返りし、新八くんから距離をとる。
先ほどまで男が立っていた瓦を真っ二つに割りながら着地する新八くんへ回し蹴りを叩きこんだ。
蹴りは新八くんの手首を打ち払い、新八くんが手放してしまった太刀は遥か下方へ落下する。

「くっ…!」
「新ちゃん!離れて!」

ずしん、と足場が揺れた。
門の足元を長刀で切り付ける…いや、打ち壊すお妙さんの姿が見える。

「門番のくせに門ぶっ壊すってどういうことよ?つーか、門ぶっ壊す女ってホントに女?あんなバケモンどこの山でスカウトしてきたわけ?」
「お妙さんも新八くんも門番じゃないです…じゃなくて、二人ともなにか誤解してるんですよ!」

お妙さんも新八くんも殺気を隠そうとせずに男に切りかかってくる。
考えてみれば当然だ。
丸腰の巫女が妖に動きを封じられた状態で抱えられていたら、誰が見てもそれは"拉致の現場"だ。
私がこの男に捕えられたのだと二人とも勘違いしているのだろう。

「お妙さん!新八くん!私は大丈夫だから、話を…」
「●●ちゃん!もう少し辛抱して頂戴!」
「今助けます!」
「あいつら全然聞いてねーぞ。お前、実は人望ないんじゃね?」

男はひらりと飛び上がり、不安定な足場から離れた。
塀の上を走り門から距離を取ろうとするが、新八くんがすぐに後を追ってくる。
男は私を左手一本で抱え直すと右腕を後方へ振り払った。
空中に現れた青い炎が男の腕の動きに合わせるように後方へ飛んでいく。
男と新八くんの中間地点に放たれた狐火は、塀の瓦を弾き飛ばし、焼き払った。
慌てて踏み止まった新八くんは炎に巻き込まれることはなかったが、塀伝いに私たちを追うことはできなくなった。

「よっし。これであのメガネくんは大丈夫だな。」
「大丈夫じゃないです!新八くんが危うく巻き込まれるところだったじゃないですか!」
「だいじょぶだいじょぶ。メガネが焼メガネになるだけだって。」
「誰が焼メガネだ!コラー!!」

しっかり新八くんにも聞こえていたらしい。

「新ちゃん!今は新ちゃんの焼き加減について話し合っている場合じゃないでしょう!」
「いつの間にそんな拷問染みた話になったんですか!?姉上!」

塀の下からお妙さんの鋭い声が飛んできた。
長刀を構えたまま私たちの足元へ突っ込んでくる。

「げ!あのゴリラ女、今度は塀をぶっ壊す気だぞ!」
「誰がゴリラだゴラァァァ!!!」

男は再び跳躍し地面に舞い降りると、そのまま屋敷へ向かって走り出した。

「面倒くせェ!もうこのまま冷蔵庫漁って目当てのモン手に入れたらずらかるぞ!」
「それじゃただの空き巣です!お供え物を勝手に冷蔵庫から持って逃げるなんて聞いたことないですよ!」
「固定概念に囚われるな!殻を破れ!」
「行き詰ったミュージシャンみたいなキャッチコピーは結構です!」

わーわー騒ぎながら走る男の前方に立ちはだかる人影が二つ。
黒の着物に身を包んだ初老の女性と無表情の若い女性。

「あんたたち!門を壊すんじゃないよ!…たま、やっちまいな。」
「はい。お登勢様。」

お登勢さんとたまさんだ。
悠然と腕を組んだ姿勢でこちらに一瞥をくれるお登勢さんの横で、たまさんが右手をこちらへかざす。
たまさんが額の前で掲げているそれを見た瞬間、私は自分の血が一気に引いていくのを感じた。

「ちょ、ちょっと!逃げてください!まずいです!」
「あ?」

怪訝な顔をする男と共に前方へ視線を投げた瞬間。
藍色の袖を翻し、たまさんは無表情で呪符を投げつけてきた。
爆発する地面。
熱風が巻き上がる。
砂埃と爆風が私たちへ一気に殴りかかってきた。
たまさんが陰陽術の中でもとりわけ得意な炎の術を使ったのだ、と理解すると同時に私の意識は途切れた。

***

「…だからァ、言ってんだろー?俺ァ、お稲荷さんでー、この巫女さんからご招待に預かっただけなんだって。」
「●●さんを拘束した上、荷物みたいに担いでおいて何がご招待ですか!」
「人質連れた腐れ狐にしか見えないわね。」
「まったくです。●●様を気絶させておいて説得力の欠片もありません。」
「気絶させたのはあんただろ、たま。」

騒がしい声のおかげで意識が浮上した。
重い瞼を何とか持ち上げる。
天井の木目が視界に映る。
ここは…母屋だろうか。
私は寝台に寝かされているようだった。
顔の横で揺れているのは、砂に塗れた九本の尻尾。

「お目覚めになられたのですね、●●様。」

真っ先に私に気が付いたたまさんが声をかけてくれた。
尻尾の持ち主がゆっくりと振り返る。

「おっせーよ、とっととこいつらに説明してくんね?」

不機嫌そうに言う男のしかめっ面をお妙さんが蹴り飛ばした。
新八くんが、ぱたぱたと私の枕元へ近づく。
すぐにお妙さんも横に並んだ。

「よかった…●●さん。」
「私、もう二度と●●ちゃんに会えなくなるんじゃないかって…」
「おい!俺も会えなくなるところだったわ!愛しのパフェちゃんと永劫の別れになるところだったわ!」
「●●さんが妖に拘束されて運ばれている、なんて報告を受けて気が気じゃありませんでした。」
「無視してんじゃねェェェ!!」

二人は目を潤ませながら、私の手を握った。
幼馴染である二人は、同時に私の仕事の補佐をしてくれる文官でもあるのだが、職務以上に私のことを気遣ってくれている。
門番が一人もいなかったことにもようやく合点がいった。
妖の尻尾に埋もれた私の姿を目撃した門番は、すぐさま新八くんたちに報告に向かったため誰も見当たらなかったのだろう。
そして、報告通りの私の姿を見た二人が慌てて私を助け出そうと奮闘してくれた。
優しすぎるこの姉弟を不安にさせてしまったことを申し訳なく思いながら、私は笑いかけた。

「大丈夫だよ。こうしてまた会えたんだから。」

新八くんとお妙さんに笑顔が戻ったことを確認してから私は起き上がり、お登勢さんとたまさんの方へ向き直った。
男は相変わらず尻尾をばたばたさせながら騒いでいたが、ややこしくなるので無視した。

「●●、よく戻ったね。」
「…はい。」
「私は何も言いやしないよ。」

物心つく前から私の教育係としてそばにいてくれているお登勢さんは、微笑むだけだった。
私の考えていることなど、全てお見通しなのだ。
私は無言で頭を下げる。
しんみりとした空気には、ならなかった。
狐が騒いでいるからだ。
尻尾を床に叩きつけるたびに砂やら埃やらが舞い上がり、咳き込みたくなる。

「…このうるさい化け狐は何だい。」
「誰が化け狐だコラ。テメーのほうがよっぽどバケモン染みてんじゃねーか。厚塗りババア。」
「たま、この馬鹿狐を摘まみだしな。周りに人間がいないことを確認してから丸焼きにしておやり。」
「はい、お登勢様。」
「だから俺はお客様だっつーの!」

式神であるたまさんは加減というものを知らない。
先ほどの炎の術も、お登勢さんの命令を忠実に守った結果だろう…お登勢さんも、まさかあれほど大きな術を繰り出すなどと想像もできなかっただろうが。
そういったさじ加減がわからないたまさんは、お登勢さんの言葉通りに無表情のまま呪符を取り出した。
このままでは、文字通り「丸焼き」になるまで強大な術を放ちかねない。
私は慌てて、言い争う皆の間に割って入った。

「その方は本当に私のお客様なんです…一応。たぶん。」

私はこの男と二人で山を下りるに至った経緯を話し始めた。
この男の言う『私から招いたお客様』という表現はしっかり否定させてもらったが。

***

私は濡れ縁に腰掛け、庭を眺めた。
入浴を済ませさっぱりとした身体に吹き付ける夜風は、少し肌寒い。
しかし、神域を登ってから起きた様々な出来事にパンク寸前の頭を冷やすには、ちょうどいいと思った。

九尾の狐の妖が最近起きていた怪異の原因であり、お供え物を与えればおとなしくなるという点だけは、皆になんとか理解してもらえた。
事情を話し終えた後の反応はそれぞれ違ったが、皆一様に呆れたような顔をしたというところだけは同じだった。
新八くんとお妙さんは、”パフェを食べたいと主張する妖”に疑惑の目を向け続けていたが、結局は狐の話術に飲まれていった。
舌ばかりよく回る妖に白旗を上げた、という方が正しいか。
しかし、油揚げの煮方がどうのと、新八くんと論戦を繰り広げられる程度の余裕が生まれたのだから、一触即発の状況は免れたと言っていいだろう。
延々と繰り返されるボケとツッコミにしびれを切らしたお登勢さんの雷が落ちるまでじゃれ合っていた二人は、まるで兄弟のようにも見えた。

「こんなところにいたのかい。」

ハスキーな声に振り返ると、救急箱を抱えたお登勢さんがいた。
よっこらせ、という掛け声と共に私の隣に腰掛ける。

「ご苦労様。大変だったね。」
「…いいえ。怪異の原因である妖を鎮める、という巫女の役割を考えると、私は何もできていません。」

この土地と都を結ぶ道に現れる狐火は、とりあえずは鎮められた。
しかし、その狐火の使い手は今後怪異を起こさないと約束したわけではない。
パフェを無事に与えることができたとしても、その後にどういう行動をとるのかはまるで予測がつかない。
つまり、怪異を完全に鎮めたという確約が取れたわけではないのだ。

「あんなやかましい馬鹿狐とまともに会話を成り立たせる方が難しいさ。今は、あんたが無事に戻ってきたことを喜ぼうじゃないか。」
「…はい。」

神域へ一人で立ち入り、生きて戻ってきた。
私は、今ようやくその事実に気が付いた。
今頃になって震えだした手をぎゅっと握りこむ。

「…さあ、足をだしな。手当てさせとくれ。」

お登勢さんは私の足をそっと手に取った。
一日中素足で歩き回った私の足は、石ころや小枝によって傷だらけだ。

「今、胃に優しいものを作らせてるから、それを食べたら今日はもう休みな。」
「はい。」
「ロクに食事もとれない状態で、単衣だけで山を歩き回ったんだ。身体におかしなところはないかい?」
「はい。別に身体はなんとも…。」

お登勢さんの労いの言葉を聞きながら、私は、はたと気づいた。

「お登勢さん…あの方は?」
「ん?今は風呂に入ってるよ。あんな小汚い恰好で家中を歩き回られたんじゃたまったもんじゃないからね。」

私の足に包帯を巻きながら、お登勢さんは苦笑した。

「よくわからない妖だよ。あんたにはえらく懐いてるようだけど。」
「…へ?」
「あんたが気絶してる間、あの馬鹿狐がなかなかあんたを離そうとしなくてね。あんたを中に運び込むのも一苦労だったよ。」
「…。」

ぽかん、と口を開けてしまった。
私は今日何度、この間抜けな顔をさらしたのだろうか。

「毛を逆立てて威嚇してきてねェ。新八とお妙も過剰に反応するもんだから余計にややこしくなったよ。」
「なんで…。」
「さあねェ。巫女殿の人徳ってやつじゃないかい?」

いたずらっぽく笑ったお登勢さんは含みのある視線を私に向けた。

「腹の読めない奴だけどね。あんたに害を与えることはないだろうさ。」

今日は早く休みな、と一言残しお登勢さんは私に背を向けた。
お登勢さんが愛飲する煙草の香りがふわりと鼻をかすめた。
お登勢さんが言った言葉の意味を考える。
そして、あの男とのやりとりを思い返してみた。
…まさか、そんな。
立ち去るお登勢さんの背中を見送ると、ぎしり、と背後で濡れ縁が軋んだ。
振り返れば、佇む濡れ狐。

「なー。いちご牛乳とプリンまだー?」

濡れてボリュームの減った尻尾をずるずると引きずりながら、男が近づいてきた。
纏っている狩衣は屋敷の誰かに借りたものだろうか。
白の狩衣に白い尾、白い髪。
初めてこの男から、神々しさを感じた。

「今、新八くんが買いに行ってくれていますから。もう少し待ってください。」
「風呂上りにはいちご牛乳って決まってんだろーが。気の利かねぇメガネだな。」

俺が風呂からあがるまでに買ってこいよなー。
ぶつくさと文句を言いながら男は私の隣に腰掛けた。
濡れた髪をガシガシと手拭いで拭く男を眺めながら、私は男に抱えられて山を下りた時のことを思い出す。
浮かんだ仮説は、私にとってあまりにも都合が良過ぎた。

私を無理矢理抱きかかえて山を下ったのは、傷だらけの私の足を気遣ってのことだったのだろうか。
無理やり芋を食べさせたのは、神域へたどり着くまで私が一口も食事をとっていないことに気が付いたからなのだろうか。
尻尾でぐるぐる巻きにしたのは、薄物で山を歩き回り冷え切っていた私の身体に気が付いたからなのだろうか。

まさか、とは思う。
好意的な解釈に過ぎると思う。
出会ったばかりの、しかも、調伏されるべき妖が調伏しようとしている巫女の身体を気遣う、だなんてあり得ない、と。
隣に座る男をそっと覗き見た。
あっちー、と呟きながらぱたぱたと尻尾を振っている。

「尻尾も拭いた方がいいんじゃないですか?」
「めんどくせーよ。九本もあるんだぞ。」
「…廊下がべっちょべちょなんですけど。」
「明日ぞうきん掛けしなくていいじゃん。よかったな。」

それは自分の尻尾をぞうきん扱いしていることになるのだが、それでいいのだろうか。
真意の読めない男の横顔から視線をそらし、夜空を見上げた。
曇っているため星は見えない。
しかし、雲の切れ間から丸い月だけがぼうっと輝いていた。
宙に浮かぶ光。

「…青い炎。」
「あァ?」

空中に出現した狐火を思い出す。
青白い炎は虚空で爆ぜて、輝いた。

「確か、赤い火より青い火の方が高温なんですよね。」
「なに?理科の授業?ガスバーナーの使い方?」
「…いえ、なんでもありません。」

冷たい光を放つのに、何より熱いその力。
門上での戦いを思い出す。
新八くんとお妙さんの容赦のない攻撃に対し、この男は抵抗らしい抵抗は一切しなかった。
狐火は足場を崩すために使用した一度きり。
腰に差した小太刀を抜くことはなかった。
人間を傷付けられない妖。

「…ありがとうございます。」
「…?なに?さっきから会話が繋がってねーんだけど。まだ寝ぼけてんの?」

不思議そうに首を傾げる男に、私は曖昧に笑った。

何を考えているのかは、まるでわからない。
それでも、その根底にあるのは悪意などではないのだろう。
偽悪的な行動の裏にあるのは、暖かな気遣いだ。
青い炎を操る優しい妖。


「ありがとう、銀さん。」

私はその奇妙な狐の名を、初めて呼んでみた。





平安時代に風呂はねえよ!とか小太刀はねえよ!というツッコミをしてはいけません。

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