「天使そのものをもって完成する聖なる橋――ですか」
シエルを残る右腕で抱きかかえ川面に浮上したセバスチャンは、
蒼ざめ血色を失ったシエルの顔を見つめる。
小さな生命の灯火はあまりに弱弱しく、
既に引き戻せぬ死の道へと歩み始めていた。
霧の中から一艘の舟が現れる。
長い櫂を操るのは、
白い靄に溶け込むような銀色の長い髪をした葬儀屋だった。
「よくやったね、執事君。これでこの子の復讐も完成だ。
さあ、伯爵を小生に渡して貰おうか」
セバスチャンは一瞬、
右腕に力を篭めてシエルを強く抱きしめる。
「貴方自身の手は汚さず、その身に何の傷も負わずに、
手柄だけ横取りというわけですか?
さすが神というだけあって、やる事が悪どい」
野生動物が小さな個体を慈しみ敵の手から守るように、
セバスチャンは瞳孔を朱色に染め、威嚇するように獰猛な牙を見せた。
「さあ、小生に返しておくれ。契約者を。わかってるのだろう?
いま小生に渡さなければ、その子は死ぬ。
君と契約も結ばない内に」
葬儀屋は櫂を置き屈んで、手を舟から差し伸ばした。
セバスチャンは葬儀屋の屍のように白い手と黒く長い爪を見つめてから、
シエルに視線を戻す。
心残す所のない満足しきった表情で、シエルは目を閉じ腕に抱かれていたが、
刻一刻と体温は落ち、目蓋が蒼ざめていくばかりだった。
セバスチャンは微かに下唇を噛み、そして葬儀屋の手にシエルを委ねる。
「理解してくれて嬉しいよ、執事君。いやもう執事である必要は無い。
さあ、君の行きたい場所へ行くがいい。
折角人間界に召還されたのだから、
どこぞの気に入る魂でも見つけて、喰らえばいいさ」
セバスチャンを霧の河に取り残したまま、葬儀屋はシエルを舟底に横たえると、
立ち上がり上流に向かって舟を漕ぎ始めた。
失った左腕のつけ根から赤い血が流れ出していたが、
水の冷たさで感覚は麻痺し、痛みも遠のいていく。
それでもセバスチャンは、傷を受けた時よりも険しい顔で、
霧の中に消えていく舟をただじっと眺めていた。
***
「結局、葬儀屋に渡しておしまいか。
これじゃどっちの勝ちもないな。ゲームにならない」
シエルは退屈そうにため息をつくと、
セバスチャンの左肩に頭を乗せて顔を見上げる。
そして苦痛に刹那歪むセバスチャンの面貌を眺め見て、
挑むように微笑み、円らな瞳を婀娜っぽく煌かせた。
「それは貴方の混ぜた不純物の所作では?」
「潔さを入れたんだ。執念深いお前に決定的に欠けてる」
「『諦める』ってことですか?」
「そうだ。僕の魂はお前は永遠に手に入れられない。
そして僕が」
お前を赦すことも、真に愛することもない。
「ああ、まだあれで終わりでは無いようですよ?ご覧なさい」
セバスチャンは暗い翳の差した紅茶色の瞳を上げて、
箱庭を見つめる。
***
「どうしたんだい?伯爵。
いやもう爵位を捨てた、ただのシエル・ファントムハイヴか」
「別に。ただ退屈してるだけだ。毎日お前の慰みものになることに」
「慰み?小生は愛を篭めてるよ。心の底からね。
君がいつか幸せに微笑む日を夢見て」
葬儀屋は寝椅子に横たわったシエルの白いふくら脛に舌を這わせながら、
いたずらに窓の外を眺めて気乗りせぬ様子のシエルに、
先ほどからしきりに話しかけている。
「あいつは――あの悪魔の腕は元に戻ったんだろうか」
「さてねぇ。新たな魂を食すれば、すぐにでも回復するよ」
「食べていなければ?」
「あのまま……かもしれないね。気になるのかい?」
シエルは膝を折り曲げ、葬儀屋から肢を離した。
「今日もまだその気にはなれないのかい?小生は君に無理強いさせるのは好まないよ」
「契約の代償か?」
「その言葉も好きじゃない。
君の自由意志に委ねて、君が小生に抱かれたくなるまで待ってるのさ」
シエルは両膝を抱え込み、相変わらず窓の外を見つめたきり押し黙る。
一度息を軽く吐き、葬儀屋は立ち上がって、
黒いローブをシエルの肩からかけ、
若木のようにしなやかで余分な肉にない裸体を覆った。
「待ってるんだね。君は――あの悪魔を」
まだ沈黙を守り続けるシエルの小さな背中を抱きしめ、
耳元に顔を寄せて葬儀屋は囁く。
「仕方が無い。そこにある、簡単に手に入るモノより、
その掌から零れ落ちたモノにヒトは価値を置きたがる。
だけど悪魔は決してヒトを幸せにはしない存在。
小生は君には、これ以上彼に近づいて欲しくない。
あの劣情に塗れた穢れた瞳に君を映してほしくないんだよ」
「でも僕の闇に象られた生き様には、むしろ悪魔の方が……」
「ふさわしいかい?
もし汝の目が罪を犯すなら、その目を抉り出してでも神の門をくぐるべき。
そして逆もまた真なり。
小生との契約の証であるこの神聖な碧玉の瞳。自由になりたければ――」