セバスチャンは地下のワイン庫に向かう。
一度は廃墟になった貯蔵庫の大半の酒瓶は割れていたが、
運良く残された物を丁寧に一本一本見定めている。
中には英仏戦争時の骨董品のようなボルドーワインもあったが、
観賞用にしかならないと、
首を振って他の瓶をまた手に取った。
シャトーマルゴーの二十年物を見つけてセバスチャンは、
ほうっとため息交じりに、瓶を揺らさぬよう気をつけながらコルクを見遣る。
幸い、コルクは落ちておらずワインが染み込んでもいない。
その瓶を手に食堂に戻ると、遠雷が聞こえてきた。
もう一度、闇空を切り裂く光が樹枝状に伸びる。
「嵐が来るねぇ」
晩餐に呼びにいく前に、ふらりと葬儀屋が現れて呟いた。
「いまお食事のご用意を」
それを食べたらさっさと帰ってくれと言わんばかりに素っ気無い態度で、
セバスチャンは眼を伏せ、葬儀屋の椅子を引いて案内する。
「この分では、今夜は帰れそうもないね」
丸みを帯びたヴェネツィアガラスのデカンタに、
ワインを移し変え澱を落とすセバスチャンの手さばきを見つめ、
葬儀屋は薄ら笑いを浮かべて言った。
「お泊りになりますか。ではお部屋のご用意を」
「いいよ、あの子の所で」
「それは――」
セバスチャンは、顔色を変えずに紅茶色の眼だけを上げて、
葬儀屋の意図を探ろうとする。
「困るかい?肉の結びつきを先にされては」
「それは私の決めることではありません。かの方に直接お尋ねになれば宜しいかと」
葬儀屋は、喉の奥から干からびた笑いを発した。
「いいのかい?君はそれでも」
「ソロモン王の裁きでも望みますか?一つの子供の躯をめぐる争いを」
「君はどうする?頭から半分に割ってでも自分のものにしたいかい?
それとも子供の命を優先して、相手に差し渡す決断をするのかい?」
「いま主を呼んで参ります。もう晩餐の支度が整いましたので」
セバスチャンは問いの答えを返さぬまま、
一礼して踵をかえしシエルを呼びにその場を立ち去る。
それから暫くの間ダイニングルームに、葬儀屋の笑い声が木霊した。
何度目かの雷に続いて、みぞれ混じりの氷雨が降り始め、
窓硝子に崩れた結晶を残していく。
「さっきの答えを聞いていないよ?執事君」
「何の話だ?」
セバスチャンが、席についたシエルにワインを注ぎ、
前菜から給仕していると、葬儀屋がいかにも愉快げな様子で話を蒸し返す。
「この嵐で小生は店に戻れそうもないから、今晩はここに泊まらせて貰おうと思ってね」
「ああ、そうするがいい」
「君の部屋でね」
シエルは形の良い眉を上げて、葬儀屋をじっと見つめた。
しかし葬儀屋は事も無げな様子で、
仔牛のローストに舌鼓を打っている。
「どういう事だ?セバスチャン」
「さあ、葬儀屋さんのお望みだそうで」
シエルはナイフを置き、考え込んだ様子で、
テーブルに両肘をつき指を組んで、小さな顎を乗せた。
「嫌なのかい?」
「それが――契約の代償なのか?お前と寝ることが」
「代償なんて、小生は望まないよ。小生は悪魔じゃない。
君の幸福な顔が見たい。
そして小生も君を幸福にしたい、それだけさ。
毎夜、君を蝕む悪夢に魘されているんだろう?」
「ただ横にいるだけなら……」
「ご自分の寝所に招きいれられるのですか?葬儀屋さんを」
セバスチャンは不快を隠すことなく、
表情を歪めてシエルを見つめる。
「嫌なのか?お前に部屋の隅に立っていて貰うのと何ら変わりない」
「それは私の役目」
「ではお前も一緒に居ればいい。さっきの忠誠の誓い通りに二人とも」
葬儀屋は手を打って、高らかに笑い始めた。
「結構な三角関係じゃないか。
元来三角というのは、四角よりも構造的に安定した形だからねぇ。
あいにくこの世の中の建物はその法則に殆ど従っていないが」
「それはあくまで四角と比べた場合――ですね。
私はこれ以上誰かに踏み入れられて、関係を複雑にはしたくありませんが」
眉を顰めこめかみを手で押さえて頭を振るセバスチャンに、
葬儀屋は対照的に笑顔で頷いて言う。
「それには小生も同感さ。1(モノド)は全ての始まり。
2(デュアド)は対称性。
そして3(トライアド)で漸く物事には始点 経過、終点が出来る。
過去と現在と未来がね」
「ピュタゴラス学派ですか――。
それでは完全な形にするには、10まで待たなければならなくなる。
3でも多い。それは不安定な形」
「そうだねぇ。必ず2対1に分かれるからね。
とにかく今晩、
さっきのソロモンの裁きの君流の答えを聞かせてもらうとするよ」
葬儀屋の笑い声を、
セバスチャンは苦々しい思いで聴いていた。