17
間近に仰ぐ、蜜色に艶めく翠緑の瞳。
色差しの悪い面持ち、その薄い唇から覗く紅色の舌。
サラリと落ちかかる銀糸の滝が、男と、己だけを、密事のさなかへ閉じ込める。
翠帳紅閨に誘われる心地で、シエルはアンダーテイカーの肩口に頭を預けた。

「僕は……、癒され、救われるのが、こわい」
「穏やかな未来を希んでしまうからかい」

シエルの背で両手を軽く交差させて、アンダーテイカーは閑やかな声音で問い掛けて寄越す。
この男の懐は酷く落ち着く。ゆるく目蓋を伏せて、シエルは深い溜息をついた。
色濃い死の気配が、抱き包むように漂うからかも知れない。

「違う。怒りも屈辱も忘れ、復讐を放棄したなら、僕は」

死んでしまう、呟くと、アンダーテイカーの身体が僅かに震えたようだった。
今すぐにだって死んでしまいたいのだと、己の心の裡を明かしたのは初めてで、シエルも同じように痩躯を震わせる。

「先程、セバスチャンが僕にひとつの話を訊かせた。胎児と赤子の漂う狭間、夢と現の隙間の話だ。限りなく近い二つは、それでも決して一つではないと言っていた。ひとにはそれが分からない。だから何事も、例えば言葉の真偽も、判じ得ないのだと」
「それが哀しいのかい?」

シエルはその言葉を反芻し、暫し考えを巡らせてから、ゆっくりと首を左右した。

「確かに、人間には区別できない、無限を断ち切る境界というものはあるのだと…思う。けれど、それは仕方がないことだ。人間は無限を知らない。無限という感覚を持ち合せないのだから、真に無限を理解できるはずがない」

そう言い遣ったと同時、するりと手が伸びてくる。
闇のような忍びやかさで、背後から手繰り寄せられた先は、漆黒の執事の胸元。

「伯爵家当主になろうというお方が、しな垂れかかる娼婦の真似事など、はしたない」

シエルの頤と首を片手で包み捉え、もう一方の手で細腰を抱き込みつつ、執事に化けた悪鬼がうっそりと微笑み、耳元で窘めの台詞だ。

「なにやら面白いお話をされていたようで」
「君の話さ」

アンダーテイカーは素直にシエルを手放して、蛍翠の瞳を愉快気に眇めた。
瓢げた調子で大きく口を開けて見せ、含み笑いの声音で。

「料理を見るだけでは、味を知ることができないという話さ。君のようにねぇ」
「左様でございますか」

抱き込まれたまま、シエルは仰向いてセバスチャンの瞳を見詰めた。
視線に気が付いた執事が、同じようにシエルを見返してくる。
鬱茶に紅の血を一筋、溶いた瞳。目を奪われるほど美しいのに、目を背けたくなる禍々しさだ。

「セバスチャン、お前は悪魔なのだと、実感した」
「あれだけ私の異能をご覧になって、今更ですか?」

執事は片眉を器用に吊り上げ、冷笑を唇に昇らせて、話の先を促してくる。
魂を貪り人を殺める性の獣であるのに、この男からは生の匂いがするから不思議だ。

「深遠の狭間を住処にするお前は、そこにある真理が悪意だと前提しているように見える。僕は…、その住処を訪なうことも出来ず、理解することも出来ない、人間だ。だから信じている、そこには善意もあるのだと」

限りなく近い、皮膚一枚を隔てた隣合わせ。
1と0.999…の隙間。無限に続く9の葬列の果て。
それはきっと、生と死の、その隙間の果てに似ている。

「命令はしない。だが誓え。お前自身と、お前の美学に掛けて、誓えよセバスチャン。そしてお前もだアンダーテイカー。僕に嘘をつくな、僕を裏切るな、僕の傍を離れるな…絶対に!」

ふたりは対極からシエルを見詰め、そして唇を笑みの形に撓ませた。
悪魔が右手を、死神が左手を、恭しく捧げ持ち、薬指にそっと唇を押し付ける。

「どこへでもお供します、最後まで。たとえこの身が滅びようとも、私は絶対にあなたのお傍を離れません。地獄の果てまでお供しましょう」

そう、返すのが右、悪魔である。

「どこまでも供に行くよ、最期まで。たとえこの器と魂が輪廻を外れようとも、小生は必ず君を護ろう。楽園の東まで供をするよ」

そう、返したのが左、死神だ。

「その言葉、決して違えるな」

いまこの時、シエルは二人の狭間。
右へ左へ引かれながら、永遠にワルツ。



***



「お前のキャスリングは、思わぬ悪手となったようだな」

くつくつと愉しげな含み笑いを寄越すシエルを、チラ、と見遣って、セバスチャンは薄い微笑を浮かべた。

「多情淫奔な主人には手を焼かされます。先程の一手、全くの悪手ではありません」
「よく言えば諸刃の一手というところか」

乱れた髪を手櫛で梳きながら、シエルは傀儡の偽庭を眺めてほくそ笑む。
アンダーテイカーの導くまま左の道へ進む僕を、力尽くで留め引き裂くお前が拝めそうだぞと、揶揄の声音だ。

「あなたのダンスのお相手は、過去も未来も私以外には務まりません。調子外れなステップを、可憐な駒鳥の足捌きに仕立て上げられるのは、この私、セバスチャン・ミカエリスだけ、ですよ」

セバスチャンは箱庭の盤面を眺めながら、不満気な主の気配にくすりと笑む。
さぁ、そろそろ厳しい一手を。双方の意を含んだ指先が、次の一手を指していく。


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